2015年5月29日金曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 6


「永遠の死」─太宰の場合─


  前回、西田哲学における「絶対無の自覚」とか「宗教的意識」とかいったことについて、ちょっとだけ書いた。今回はその辺の話から。

「絶対無の自覚」は中期西田哲学の最も重要な概念の一つである。前回も取り上げた「絶対無」は、西田の哲学において言わば究極的実在あるいは絶対者とされるのであるが、一方でこの絶対無が自らを自覚すること、それが「絶対無の自覚」である。だが他方で、この絶対無は我々人間の自己の根底なのであり、我々がそのことを自覚することもまた「絶対無」の自覚でなのであって、われわれの自己の側からいえば、我々の自己の根底が絶対無であることを自覚することもまた、「絶対無の自覚」なのである。つまり、「絶対無の自覚」において、逆方向の自覚が同時になされるのである。そして我々の自己の側における自覚の方を、西田は「宗教的意識」とも呼んでいるのである。ちなみにさらに言えば、この自覚とは、前回少し論じた「絶対矛盾的自己同一」の自覚、つまり、一はどこまでも一でありながら、同時に自己否定的に多である、また、多はどこまでも多でありながら、同時に自己否定的に一であるということの自覚なのであって、一方では普遍であり一である絶対無が、自己を否定して個であり多である我々の自己(わかります?我々は「多」ですけど、我々は我という「個」が集まっている、ということです)となるのであり、他方では個であり多である我々の自己が、自己を否定して普遍であり一である絶対無となるのである、ということの自覚なのである。このような仕組みにおいて、人間と絶対無つまり神とは同一であるとされるのであるが、この仕組みを西田は「逆対応」と呼んでおり、これこそが西田の宗教思想(一種の「万有在神論」とされる)の骨子なのである。西田の宗教思想は高く評価されており、西田の哲学は本質的に宗教哲学であるとさえ言われることもあるほどである。そして西田の宗教思想の集大成と言えるものが、最晩年期に書かれた論文「場所的論理と宗教的世界観」である。以下、この論文において「逆対応」の思想が西田自身によってどのようなものとして論じられているか、その大よそのところを見ておこう。
西田によれば、人間は自らの悪を徹底的に自覚した時、自らに絶望せざるを得ない。このような発想は親鸞の思想によるところが大きいのであるが、このような自覚、絶望を、西田は「永遠の死」と表現し、次のように論じる。
 
自己の永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、すなわち絶対者に対する時であろう。絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知るのである。

  すなわち、我々人間は自らの「永遠の死」に直面することによって、逆説的に「永遠無限なるもの」、「絶対者」と出会う、というのであり、つまり「自己を成り立たしめているもの」に出会う、ということである。「斯く自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本的理由であるのである」。そして、我々人間の自己を成り立たしめているもの、あるいは自己存在の根本理由、つまり絶対者を、西田は次のように表現している。

絶対者は何処までも我々の自己を包むものであるのである、何処までも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、何処までも追い、之を包むのであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。

  そして、先に「絶対矛盾的自己同一」について論じたところからもわかるように、このようなものとしての絶対者は、我々人間の自己を超えたものでありながら、我々にとって他者なのではない。
 
我々の自己の底にはどこまでも自己を越えたものがある、而もそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処に迷う。而も我々の自己が何処までも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見出す所に、宗教的信仰と云うものが成立するのである。                   

このような逆対応の思想は、さきにも述べたように西田の宗教思想の骨子を成すものであり、たとえば我が国の西田研究の権威の一人である小坂国継氏は、西田の宗教思想、なかでもこの逆対応について、次のように解釈し、評価しておられる。

ところで、この宗教的意識は道徳的な自己が行きづまって自己崩壊するところにあらわれる。道徳的な自己は「悩める魂」であって、自己の良心に従おうとすればするほど自己の罪悪を意識せざるをえなくなる。そして、このような矛盾がその極限に達したとき、われわれの自己は一転して自己を放棄し、自己を否定する。また、この否定的転換によって、自己の根底を見、真の自己統一を得るのである。それが回心と呼ばれる体験である。/したがって、われわれはここにも否定の論理を見ることができる。われわれはどこまでも自己を主張し自己を肯定しようとして行きづまり、深い自己矛盾を経験し、その極限において、一転して自己を否定するに至り、そこで安心を得るのである。自己を否定することによって自己を肯定し、自己を放棄することによってかえって真の自己を獲得するのである。(『西田幾多郎の思想』、講談社、2002年)

 なるほど。しかし、宗教って、本当にそういうものなのかねぇ……。

 いや、このように言ったからといって、私は何も「逆対応」の思想を頭から否定するわけでもないし、小坂氏の解釈や評価に異議を唱えようというのでもない。ただ、このシリーズの第一回目に述べたように、「西田幾多郎、なんだい、バカバカしい」という「不良少年とキリスト」の中の安吾の言葉を前提として西田を読んでいる私としては、特に宗教にかんする話になると、西田の説くところを素直に読むことが出来ないのである(困ったもんですな)。「特に宗教に関する話になると」というのは、「不良少年とキリスト」は、安吾による太宰への言わば追悼文なのであるが、そこでは太宰が作品を書く上で、そしてより良く生きてゆこうとする上で、キリスト教という「宗教」を「ひきあいに出した」ことへの、安吾の否定的な考え方が展開されているからである。太宰がキリスト教に深い関心を抱いていたことは良く知られている。その影響は、たとえば「駆込み訴え」等の傑作に現われている。安吾が言うところの、キリスト教を「ひきあいに出した」とは、一方ではこのようにキリスト教を手掛かりとした作品を書いたということを意味するのであるが、他方で、より良く生きてゆこうとする上でキリスト教を「引き合いに出した」とは、どういうことか。

 ということで以下、「文学と哲学」のうち、主に「文学」のお話。

  「不良少年とキリスト」において、安吾は太宰が生前抱いていた苦悩を、「フツカヨイ的」な「自責や追悔の苦しさ、切なさ」と表現している。実際に、「フツカヨイ的」ということと関連して、たとえば太宰は生前、弟子の堤重久に次のように語っている。

酒をのんで、家に帰ると、バタリと倒れて寝ちまうんだが、夜中の三時頃になると、かならず眼がさめる。するとね、こし方、行末、ありとあらゆるいやなことがわッと集ってきてね、その苦しさ、やりきれなさはひどいもんなんだ。遠くで暮している、知人たちの苦悩まで、どっと胸に流れこんできてね。あれだけはかなわんよ。

  太宰がこのように苦しむ現場を実際に目撃した人物もいる。太宰と親交のあった元新潮社の編集者で『回想 太宰治』の著者、野原一夫である。野原は、『饗應夫人』のヒロインのモデルである画家の桜井浜江のアトリエに太宰と一緒に泊まった際の出来事について、書いている。

私は夜なかに眼がさめた。月の明るい晩で、アトリエの大きなガラス戸から月の光がさしこみ、そこ青白い光のなかで、横に寝ていた太宰さんはぱっちり目をあけて天井を見ていた。そのうち、目をつぶり、呻いた。腹の底からしぼり出されてくるような獣に似た呻き声だった。私はあわてて寝たふりをした。太宰さんは寝返りをうち、また寝返りをうち、また呻いた。

 さらに、太宰自身が自分のこのような苦しみを、作品の中に表現している。「母」の中に、次のような件(くだり)がある。

ふと、眼をさました。眼をさました、といっても、眼をひらいたのではない。眼をつぶったまま覚醒し、まず波の音が耳にはいり、ああここは、港町の小川君の家だ、ゆうべはずいぶんやっかいをかけたな、というところあたりから後悔がはじまり、身の行末も心細く胸がどきどきして来て、突然、二十年も昔の自分の奇妙にキザな振舞いの一つが、前後と何の聯関も無く、色あざやかに浮んで来て、きゃっと叫びたいくらいのたまらない気持になり、いかん! つまらん! など低く口に出して言ってみたりして、床の中で輾転しているのである。泥酔して寝ると、いつもきまって夜中に覚醒し、このようなやりきれない刑罰の二、三時間を神から与えられるのが、私のこれまでの、ならわしになっているのだ。 

 自分の過去の様々な行いが「罪」として自覚される、そして深夜に酔いから醒めた際に、そういった罪に対する「やりきれない刑罰」が「神から」与えられる。太宰のこのような経験は、親鸞あるいは西田に言わせれば自らの悪の徹底的な自覚であり、自らへの絶望であって、「永遠の死」の経験であると言えよう。また、小坂氏の言葉を援用すれば、このような状況における太宰はまさに「道徳的な自己」であり「悩める魂」なのであって、罪悪の意識から逃れられない太宰の道徳心は崩壊寸前、良心と罪悪感の矛盾はその極限に達しようとしていたと言えよう。太宰の場合も、そのような苦悩は宗教的意識となっていった。だからこそ、太宰はキリスト教に深い関心を抱いたのである。だが太宰にとってのキリスト教は、西田の言うところの「何処までも我々の自己を包むもの」だとか「無限の慈悲」といったものとの出会いを太宰にもたらしはしなかったし、太宰はキリスト教を通じて小坂氏の言うような「真の自己を獲得」することもなかった(いや、こちらの方はそうとも言い切れないところもあり……まぁ、詳細は追々)。なぜならば、太宰はキリスト教の教えを、端的に言えば、誤解していたからである。
 たとえば、菊田義孝は『太宰治と罪の問題』において、太宰のキリスト教理解について、それが誤解あるいは曲解であったことを、次のように論じている。すなわち、たとえば「如是我聞」において太宰は、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』といふ難題一つにかかっていると言ってもいいのである」と言っているが、そもそも「福音」は「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」ということを「難題」として人々に課しているのではない。そうではなくて、福音はそのような難題からの解放を人びとに伝えるものなのであると、菊田は言うのである。人々に難題を課すのは福音ではなくて、むしろ旧約的・ユダヤ教的な「律法」である。つまり菊田によれば、太宰は福音を律法として捉えてしまっていたということになるが、このことは実は太宰自身が認めていることである。

キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。/キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理窟です。(「わが半生を語る」)

 ここに引いた件を読むと、太宰にとっては生きてゆく上でキリスト教という宗教を「引き合いに出す」ことが、自らに救いをもたらすことではなくて、むしろ自殺に追い込むこととなってしまったということなのかもしれない、と思わざるを得ないが、その点については後に論じるとして、同様の誤解あるいは曲解は、「人間失格」にも表現されている。

自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。

  太宰のこのような福音への誤解あるいは曲解を、太宰の創作活動との関連で、さらには太宰の人間性との関連で、むしろ積極的に解釈しようとすることも可能ではあるかもしれない。たとえば菊田は、太宰があくまでも己れの努力によって「キリストの戒め」を満たそうとしたのであり、「純粋、無報酬の行為、全く利己の心の無い生活」を生きようとしたのであって、「神の罰は信じられても、神の愛は信じられない」ところに太宰の「限界」があったにしても、太宰はその「限界」を「完全にあらわし切って死んだ」のであるとして、次のように述べている。

彼はすすんで己の「身も霊魂もゲヘナにて滅す」まで、人間への愛を徹底させた。それを終生求めつつ、しかも神の義も愛もついには否定せざるを得なくなるまで、己れの「優しい心」に生きぬいた。そのことによって、彼はむしろ裏側から、まことの神の存在を証ししたといえないであろうか。自らをあくまで赦さず、赦されることをも拒否することによって、逆に聖書の証言する「福音」の真理を、現代の世界の中に浮び上がらせたといえないであろうか。彼は自由を持たなかった。それは彼が死に至るまで徹底して己れの義あるいは愛に忠実であったがためである。

 また、佐古純一郎は『太宰治におけるデカダンスの倫理』において次のように述べる。

聖書を律法的に受けとろうとすればするほど、私たちは、それを行いへない自己の弱さとみじめさに目ざめざるをえないであろう。しかしその場合、そのみじめさは、ただみじめさで終わるのではなくて、律法の前で正しき者でありえない自己として自らが自覚されてくる。それが罪への目ざめなのである。太宰はそういう苦しみを自らの中に苦悩として深めた人であった。

 太宰がこのように生き、そして死んでゆかざるを得なかったことについて、たとえば西田ならば、結局のところ、太宰は宗教というものの何たるかを理解していなかったせいだと評するであろうか。ところで西田の宗教思想において、絶対者すなわち神とは「絶対無」であった。つまり、それは何ら具体的なものでも実体的なものでもないのである。しかし、まさに西田自身も言っているように、人間が宗教に関心を抱かざるを得ないのは、人間がより良く生きてゆこうとするものであるからだと考えるならば、まさにより良く生きてゆくために、何らかの具体的なものや実体的なものを人間が求めてしまうとしても、それは仕方がないのではないだろうか。太宰について安吾は言う、「フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった」、「太宰は……本当に、つつましく、敬虔で、誠実であったのである。それだけ、内々の赤面逆上は、ひどかった筈だ」、「太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいい、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ」(「不良少年とキリスト」)。「よりよく生きる」ために、「よい人間」になるために、具体的・実体的に自らを律するものとして太宰にとってキリスト教の教えは「福音」ではなくて「律法」でなくてはならなかった、そう考えることは出来ないだろうか。

 
 さてさて、例によって諸事情につき今回はここまで。太宰の話、安吾の話、もうちょっと続けます。次回予告的にほんのちょっとだけお話すると……西田の言うところの「何処までも我々の自己を包むもの」だとか「無限の慈悲」といったものと出会えない場合、あるいは、小坂氏の言うように「真の自己を獲得」することも出来ない場合、人どうすればよいのだろうか。色々な可能性が考えられるであろう。たとえば、宗教的な関心そのものを放棄してニヒリスティックに生きてゆくということも考えられよう(実は、太宰にはそういう傾向もあった)。だが、それとは真逆の可能性もある。それは自分自身が「無限の慈悲」をもった者になろうとすること、「真の自己」を自分自身で作り上げようとすることであり、最終的に太宰はそういった方向に向かったのであると、私は考えているのである。