2015年5月10日日曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 1


はじめに、あるいは予告編


 研究者仲間にこんなことを言うと意外に思われるかもしれないが、実は私、西田幾多郎にはもう20年以上にも渡って関心を抱き続けている。私が西田に関心を抱いたのは、我が「明治時代」(といっても、もちろん、1868年~1912年まで続いたあの時代のことではない。私が明治高校の生徒であり明治大学の学生であった時代のことである)の、大学三~四年の頃にお世話になっていた中村雄二郎先生の西田論に影響を受けたことがきっかけである。ある日、たしか日仏会館で行われた先生の講演会に、当時の中村ゼミの主要メンバーが、勇んで参加した(みんな若かった……)。その講演の中で中村先生は「日本のハイデガーと呼ばれる西田幾多郎が……」という言い方をされた。後日のゼミの席上で、あるゼミ員がこのご発言の意味するところを先生にたずねると、先生はニヤっと笑っておっしゃった、「どっちもよく分らないってことだよ」(もちろん、中村先生がハイデガーと西田を関連付けて論じられたのはそれだけが理由なのではない。たとえば中村先生は、第二次大戦における両者の立場を、比較検討して論じておられる)。これもまた、研究者仲間には意外に思われるかもしれないが、本格的な哲学の勉強を始める前の私の関心は現象学にあり、なおかつ、たしかにハイデガーはよく分らなかったので、そのハイデガーと並び称される西田なる人物の哲学、いつか必ずきちんと理解してやろうなどと、妙に意気込んだものであった(そして私も若かった……。それにしても、その後自分がルソーやヘーゲルやキリスト教神学や、さらには安吾の研究などをするようになるとは……たとえばタイムマシンに乗って当時の自分に会いに行って伝えても、絶対に信じてもらえないだろうなぁ)。

 そして最近、少し思うところがあって、これまであまり、というよりも、まったく日の目を見ることがなかった私の西田研究をまとめてみようと思い立った。だが、西田に関心を抱き始めた二十代初めの頃と現在との間に、西田の哲学について、そして西田という人物について考えるにあたって、常に自分の思索に「誠実」(これも西田哲学の一つの鍵概念だったりするのだが)であろうとする(そして度々失敗している)私としては、どうしても無視出来ない言葉に出会ってしまった。またしても安吾である。

 

哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。思索ときやがる。/ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。/何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかかっているだけじゃないか。(「不良少年とキリスト」)

 

 ヘーゲルも西田もダメだなんて……なんだか私、自分の存在意義を全否定されたような気がしてしまいますが……。まぁ、それはさて置き、「不良少年とキリスト」は言わば太宰治への追悼文であり、ここに引用した文章は太宰のあり方についての、そして一般に作家というもののあり方についての批判的な思索が展開されている文脈に置かれたものである。だからこの文章を論じるためには、太宰とキリスト教の関係についての、さらには人が何かを「引き合い」に出して思考し行動するということについての安吾の思索について検討することから始めなければならないのだが、それは別の機会に発表させていただくことにして、今回はさしあたりこの文章に書かれていることだけを検討する。

 この文章の後半、これはまぁ、言いたいことはわからなくはない。ここで「不良少年」とは太宰や芥川やドストエフスキーといった小説家を指す。小説家の表現と哲学者の表現とを比べれば、後者の方が「持って廻っているだけ」、「バカなテマがかかっているだけ」というのは、まぁ、一般的なとらえられ方としても、わからなくはない(というよりも本当は、「うんうん、そうだよね、その通り!さすが安吾さん、わかってらっしゃる!」とか言いたいところなのだが、私自身、腐っても一応は哲学者なので、立場上それをここで全面的に認めるわけにはいかないのです)。

 やはり引っかかるのは「ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい」という言葉。ここであらかじめ結論のようなことを言ってしまえば、ここで安吾の主眼は、ヘーゲルや西田自身を、そして彼らの哲学そのものをこき下ろすことにあったのではないと、私は思う。そうではなくて、安吾が苛立っていたのは、ヘーゲルにしろ西田にしろ、大哲学者たちが陥りがちな、言わば「教祖」的なあり方だったのではないだろうか。教祖と言えば、安吾は文字通り「教祖の文学」の中で、小林秀雄の教祖的なあり方を批判している。しかし当り前のことであるが、教祖とは信者あっての教祖なのであり、また、信者とは教祖あっての信者なのである。「教祖の文学」を論じたものの中で話題になることはあまりないようだが、このテクストを読む際に注意しなければならないのは、小林を教祖としてしまうような傾向が安吾自身の中にもあるということを安吾自身が自覚し、このテクストの中でも自戒しているということである。だから、様々な作品の中で安吾が教祖的なものについて批判的に語る時、そこでは同時に信者的なものも批判されていると考えなければならない。つまり、安吾が苛立ち批判しているのは「教祖─信者」という関係そのものなのであり、さらに、日本においてはこの関係が世俗化されて蔓延している、ということなのである。「日本文化私観」をはじめとして晩年の作品に至るまで、安吾が日本や日本人について論じる際には、このことについての安吾の苛立ちや批判が、実に様々な形で、実に様々な領域について、展開されていると言えよう。

 ちょっと話が脇道にそれるが、恐らくはこうした教祖的存在としての西田への苛立ちや批判と関連しているのではないかと、実は以前から気になっていた文章があるので、引用しておく。

 

私は暫らく京都に住んでいたことがあった。古い文化の都市であり、又、学生の街であるが、全く活気のない都市である。そのうちに気付いたことは、この街には一流の精神がないということであった。つまり本当に自主的な精神がない。常に東京といふものを念頭に置き、東京ではこうだという風に考えて自分の態度を決定する。(中略)例を大学の先生にとっても、京都の先生達は常に東京を念頭に置いて考えることに馴らされ、やっぱり自主的な自覚が足りないように思われた。/古い文化をもち、かつて王朝の地であり今日も尚東京と東西相並ぶ学問の都市である京都ですら、然りである。(「地方文化の確立について」)

 

 ここで「京都の先生達」とされているのは、もしかしたら、いわゆる「京都学派」と呼ばれる人たちのことなのではないだろうか。つまり、「自主的な精神」や「自主的な自覚」に欠けているために、西田という巨匠を教祖として引き合いに出して出来た集団、つまり他力本願的に出来た集団が京都学派であると、安吾は考えていたのではないだろうか。もっとも、安吾の京都や京都の人々に対する批判は、文字通りの客観的な批判として受け取ってはいけないのではないかとも、私は考えている。というのは、京都という場所は、安吾が矢田津世子への想いに区切りをつけるために執筆したものの結局は失敗作を自認するような作品になってしまった長編小説「吹雪物語」を書くために滞在した地であり、また、心機一転をはかるべく執筆しようとした「にっぽん物語」のための取材に訪れたものの、体調をひどく悪化させて取材どころではなかったということなどもあり、安吾にとっては苦い思い出に満ちた、言わば、実に相性の悪い場所だったからである。とは言うものの、たとえば中村雄二郎氏(この文章の冒頭では私は中村雄二郎「先生」と書いたが、それでは「お前こそ、中村雄二郎を教祖さま扱いしてるじゃないか」と言われそうなので、以後、中村雄二郎「氏」とする)も、『西田幾多郎』の「あとがき」に、氏が西田について書くことを知った人々から「中村さん大丈夫ですか」だとか「西田幾多郎のことをとやかく書いて悪口いったりすると、京大系の大先生のなかには西田の崇拝者、心酔者が多いから、袋叩きに会いませんか」などなどと言われて心配されたと書いているところから、やはり西田をめぐって「教祖─信者」という関係が成り立ってしまうという傾向は、実際にあるのかもしれない(それだけ西田という人物が、そしてその哲学が魅力的である、ということを意味するのだとも思うが)。

 話を元に戻す。つまり安吾は「西田幾多郎、なんだい、バカバカしい」と言いながらも、別に西田その人やその哲学を批判したかったわけではなく、言わば教祖にケチをつけることによって信者に喧嘩を売ろうとしたのであったと、私は思うのである。そして肝心の西田自身の哲学についてであるが、安吾がそれをどれほど知っていたのか、恥ずかしながら私は良く知らない(かつて東洋大学やアテネフランセで哲学や思想に親しんだ安吾が、西田について全く知らなかったとも思えないが)。安吾はたとえば小林秀雄について論じたようには西田については論じていないので、西田の哲学について、安吾は大した関心を抱いていなかったのかもしれない。だが、西田と安吾の問題意識はそんなにかけ離れたものではなかった、いやむしろ、非常に近いものなのではなかったかと、私はそう考えている。そして、この点はぜひとも誤解しないでいただきたいのだが、私は何も、西田と安吾を強引にこじつけて論じようというわけではない(話のネタのために、自分のいくつかの得意分野を強引にこじつけたり、自分の専門分野をどう考えても結び付けようのない現代的な問題と無理に結び付けて論じたりとか、この業界ではよくあることなので、一応このようにお断りしておく)。そうではなくて、二人の問題意識には、明治から昭和初期にかけて、つまり日本近代の前半において、真剣に思索し表現しようとした人々に共通のエートスといったものが現れているのではないかと、私はそう考えているのである。

 そういった次第で、今後言わば「不定期連載」のような形で、このブログでこういった問題について考えたことを発表してゆくことにする。例によって、諸々の事情によって今回はここまで。次回は「思索と表現」ということをめぐって、西田と安吾について考えたことを発表する予定である。そしてそれは、この不定期連載のサブタイトルにある「エッセイ」=「試み」ということとかかわる内容である。
 
 
 
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