2015年2月28日土曜日

「俺の立場は!?」2


 前回の続き。

 もしかしたら、前回アップした文章を読んで下さったごくごく少数の方々(ありがとうございます!)の中には、「知識人と大衆」といった枠組み、あるいは「大衆」という言葉に、違和感、反感、いや、怒りさえおぼえた方もいらっしゃるかもしれない。だいたい、みずから「知識人」を名乗るなんて、まったく恥ずかしくねぇのか?とか、まわりから「先生」とか呼ばれて舞い上がってんじゃねぇのか?とか、そのように感じた方もいらっしゃるかもしれない。いやそれは……なにも私自身が好きこのんで知識人であるとか、知識人でありたいとか、そういうことではなくて……前回もちょっと書きましたけどね、たとえば、私が何かマスコミを騒がすようなことをやらかしてしまったとして、そうしたらたとえ「非常勤講師=フリーター」であったとしても「大学教員=知識人」と、そういう扱いをされてしまう、ということです。しかしそれにしてもやはり、「知識人と大衆」といった枠組みを通して世の中を見たり、「大衆」という言葉を使ったりすること自体が、私自身の無根拠なインテリ意識の現われであり、無意識的に上から目線でものを見ていることの証(あかし)であって、ようするに「お前、何様!?」と、どうしてもそう感じてしまう方も、いらっしゃるかもしれません。

 

 はい、言葉が足りませんでした。

 

 というわけで、今回は「大衆」という表現についてちょっと書きます。

 大衆について、たとえば安吾は次のように言っています。

 

大衆とは何であるか。政治も知らぬ。文学も知らぬ。国の悲劇的な運命も知らぬ。然し大衆は生活している。(「詐欺の性格」)

 

 また、吉本隆明はこんな風に言っています。

 

たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうあろうとも、さしあたって「わたし」が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に「わたし」の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それをかんがえる必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像なのである。(「状況とはなにか」)

 

 どうでしょう?この吉本の文章、あたかも安吾の言葉をより詳しく説明したもののように私には感じられるのだけれども、いかがでしょう?安吾から吉本に対して、直接間接に影響があったのかどうかという話は別として。というか多分、無い。だがしかし、ある時期までの吉本の思想は、安吾の思想とかなり近いように私には思われるのだけれども、誰かその辺について論じている人、いませんかね?

 まぁ、そんな話はさて置き、安吾にしても吉本にしても、大衆とは「現に生きていて、また、生きてゆこうとする」、そういう人々のことだと言っているわけです。さて、この世にそうでない人って、いるのでしょうか?(次の瞬間にでも自殺しようとしている人とか、そういう特殊なケースは、もちろん別として。いや、「次の瞬間にでも自殺しようとしている人」だって、考えてみれば……以下、相当ややこしい話になるので略)。お百姓さんだって魚屋さんだってミュージシャンだって学者さんだって政治家だって、みんな、そう。どんな人間にも大前提として共通するそういうあり方を、吉本は「大衆の原像」と名付けたわけです。

 ところで吉本の大衆論は、必ずしもあまり評判の良いものではありません。たとえば、高度成長期を経てもう十分に豊かになった日本で、そもそも大衆というとらえ方に意味があるのか、といった批判があります。しかし注意しなければならないのは、吉本が論じたのはたんに大衆ではなく、大衆の「原像」なのです。これは、言ってみれば形而上学的概念なのです。イデア的な概念、と言ってもいいかもしれません。たとえば円について考えてみて下さい。たとえ大小さまざまな円を描いてみても、それらはどれ一つとして厳密な意味での円ではない、つまり、「平面上で、ある 1 点から等しい距離にある点の集まり」という定義通りの円ではないわけです。にもかかわらず、それらはやはり円である……みたいな話です。もちろん、世の中の大多数の人々の在り方は、時代や状況によって様々です。しかし、人々がどのような在り方をしていようと、「現に生きていて、また、生きてゆこうとする」という根本的なあり方と無縁ではありえない。そのような意味で吉本は大衆の「原像」について論じているのです。どんな人間にももれなく該当する「大衆としてのあり方」について論じているということで、これを「大衆性」と表現してもいいかもしれません。

 

 と、私は安吾や吉本のこのような話に乗っかって「大衆」という言葉を使っているのであって、別に鼻持ちならないエリート意識を持っているわけでも、上から目線でものを言っているわけでもありません。……と、こんな風に言われてもやっぱり、「大衆」だの「大衆性」だのといった表現には何やら人を見下したようなニュアンスがあるじゃないか、けしからん!と、そのように感じる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、安吾にしろ吉本にしろ、もちろん理由があってこのような表現を用いたのです。それは、まさに大衆の対極にある人々、つまり知識人やエリートとされる人々を揶揄する、あるいは批判するためだったのです。もちろん、安吾にしろ吉本にしろ、ただたんに知識人やエリートを揶揄あるいは批判すること自体を目的としていたわけではありません。そうではなくて、そういったことを通じて、彼らは新しい「知」のあり方を模索したのでした。そしてそして、安吾や吉本のこのような試みは、右を見ても左を見ても馬鹿ばっかりの……ゲホゲホ!おっと失礼!……非常に危なっかしいことになっている現代日本の言論の世界においてこそ、受けつがれなければならないのではないかと、私はそのように考えているわけです。

 

 ……と、ここまで書いてきて思い出したのですが、前回アップした文章、そういえば「今年の抱負を」みたいなことで書いたんでしたね。え~っと、もう、二月も終わり、ですか……。そんな時期になってもまだ、新年の抱負がどうのこうのと言ってるなんて……。

 

 話を戻します。

 

 吉本はこんな風に言っています。

 

もし、知識人の政治的集団を有意義集団として設定したいとすれば、その思想的課題は、かれらとは逆に大衆の存在様式の原像をたえず自己のなかに繰込んでゆくことにもとめるほかない。それは啓蒙とか外部からのイデオロギーの注入とはまったく逆に、大衆の存在の原像を自らのなかに繰込むという課題にほかならない。(同上)

 

 「大衆の存在の原像を自らのなかに繰り込むという課題」、この課題を、私自身が具体的に実践してゆく、そういったことを今年の、いや、これからずっとものを考えて生きてゆく上での抱負にしたいと、今はそんな風に思っています。

 

 それにしても、知識人であると同時に大衆であるとは……まるでコウモリですね。みずからコウモリであろうとすれば、鳥にもネズミにもたくさんの敵が出来るでしょうね……。でもまぁ、仕方ありません、なにしろ「命がけ」なもんで。