2015年6月27日土曜日

ドストエフスキー覚書き 1


 いけませんいけません。実はここ最近、西田についての勉強がちょっと滞ってます。「文学と哲学と」の前回からの流れで、いよいよ私自身が最近もっとも関心をもっている哲学的問題に結びつきそうなんですけどね。で、なぜ滞っているのかと申しますと、最近、ドストエフスキーの諸作品を読みなおさなければいけないことになりまして……というよりも、そういう状況に自分を追い込んでしまったんですけどね、トホホ……。

 そんなわけで、本棚からほぼ二十年ぶりぐらいに文庫本を引っ張りだしてきて、ちょっとずつ読んでます。今は、『カラマーゾフの兄弟』。で、とってもとっても久しぶりに読み返しての感想は……若き日の私が、いかにいい加減にしか読んでいなかったか(苦笑)。前回読んだ時は、我が「明治時代」、特に読みたい読みたいと思って読んだわけではなくて、読んでおかないといけないんだろうなぁという、ある種の義務感から、とりあえず通読しただけでした。いや、こうも記憶と違うと、通読したのかどうかさえ怪しくなってきました。「あれ?こんなに面白いこと書いてあったっけ?」といった箇所に出会うことがあまりにも多いので……。でもまぁ、ここ二十年の間の読み手としての私の成長が、私に新たな発見をさせているのだと、そうポジティヴに考えておきましょうかねぇ。

 ところで『カラマーゾフの兄弟』と言えば、なんと言っても「大審問官」のエピソードが有名ですね。これはカラマーゾフ家の二男であるイワン・カラマーゾフが語る、16世紀のスペインはセヴィリヤに突然イエス・キリストが現れたら……という、イワンの創作(イワン曰く「叙事詩」)なわけですが、このエピソードは私もよく授業でとり上げます。このエピソードにかんしても、今回再読してみて新たな発見があったのですが、それよりも、このエピソードが含まれている第一部第五編でイワンによって語られる彼の考え方の中には、このエピソードに引けを取らないくらい面白いものが、いくつかあります。中でも今回私が再読してとってもとっても面白いと思ったのは、大人による子どもへの暴力についての、イワンの考え方です。

 子どもへの暴力、児童虐待、いや、時には大人が子どもを殺してしまうこともあるので、そうなったらもはや虐待どころではないですね。で、そういった暴力に合理的な理由などない、つまり、大人による子どもへの暴力を正当化するような理由など、実際のところはありはしないと、イワンは言うのです。もちろん、大人の側からすれば、躾だとか見せしめだとか、いろいろと言い分はあります。だがそういった言い分、理由が、どう考えても子どもたちに対する度を越えた、しかも時には殺しにまでいたる暴力を正当化するものだとは、どうしても思えない。では、本当のところ、なぜ大人は子どもに暴力をふるうのか。それは要するに、人間の中にある理不尽なあるいは非合理的な暴力への衝動のためだと、イワンは言うわけです。人間の中にある理性的・合理的には説明のつかない暗い衝動、そんなものでも前提しなければ、大人による子どもへの苛酷すぎるほどの暴力を説明できないと、イワンはそう考えるわけです。だから、大人による暴力についての説明、言い分、理由づけなどといったものは、理不尽なこと、非合理的なものに対する、無理矢理な合理的・理性的な説明、もっと言ってしまえば「こじつけ」にすぎないと、そういうことになるわけです。

 この辺り、昨今の……いや、もうずいぶん前から、日本でも頻発している、母親による子どもの虐待と、それへの対応の問題にも結びつくわけで、なんだか考え込んでしまいますね。特に、こういった問題への対応について言えば、たとえば、母親が子どもへの虐待に走るのは、父親が育児を放棄して全て母親に押し付けていることが原因だ、などといった説明がなされ、そういった解釈に基づいた対応策が唱えられたりしてきたわけですが……これこそまさに、理不尽で非合理的な暴力衝動を合理的・理性的に説明しようとする、といった態度に基づいているわけですな。たとえば実際に、父親が母親とともに育児を分担できるような環境が実現した場合、どうなるか……下手をすると、父親と母親が一緒になって子どもを虐待する、といった最悪の事態になるわけです(いや、もうとっくにそういった事態は頻発しているか)。だから問題を解決する、いや、人間が暴力衝動と無縁ではあり得ない以上、完全な解決は不可能であるにせよ、少なくとも状況を改善してゆくためには、「理不尽で非合理的なことを合理的・理性的に説明しようとする」という仕方とは別の仕方で理性を働かせることが必要である、こういうことになるでしょう。まったく、やっかいな問題です。

 ところでなぜ、大人は理不尽で非合理的な暴力衝動を子どもに向けてしまうのか。それはまさに、大人が子どもに対して暴力をふるうことの出来る立場にいるから、さらに言えば、大人は子どもに対して権力をもつ立場にいるから、という話になるのだと思います。そして、理不尽で非合理的な説明が可能であるのも、そういった権力の立場にあるからである、そういうことにもなるかと思います。暴力─権力─合理性という最悪の組合せ……このように書くとまさに、ベンヤミン的なあるいはデリダ的な問題のようではあ~りませんかぁ~!……それはともかく、こういったことを軸にして『カラマーゾフの兄弟』を読み解くことも可能だと思います。そしてこのことは、子どもへの大人の暴力に限らず、暴力や権力といったことがかかわる場では、いつでもどこでも、有効な観点なのです。たとえば『カラマーゾフの兄弟』の第九編、カラマーゾフ家長男のミーチャへの取り調べの場面でも、「暴力─権力─合理性」ということが明に暗に、そして時には滑稽なかたちで、テーマとなっています。

 とまぁ、きっかけはそれこそ理不尽かつ非合理的であっても、久々に再読してみて、私の中でドストエフスキー熱が盛り上がりつつあるようです。ということで、せっかくだから、このブログでも新シリーズを始めます。今回は「エッセイ」ですらない、よりお気楽でお気軽な「覚書き」というかたちで。
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2015年6月23日火曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 9

「無の論理」は「論理」どころではない 1


 さて、前回少しだけ、西田の「心の論理」というものについて考えた。「心の論理」などというと何やらいかにも宗教がかった雰囲気を感じさせるし、前回引用したように、そもそも西田自身もこれを仏教思想と関連させて論じている。さて、仏教、あるいは広く宗教的な思想あるいは「知」は、論理となり得るのだろうか、西田が取り組んでいたのはまさにこのような問題だったのであり、さらに具体的に西田の哲学に引き付けて言うならば、結局のところ、絶対矛盾的自己同一の論理は「弁証法」であると言えるのだろうか、という問題になる。この問題にかんしては、なかなか上手くいかなかったというのが実情であるようだ。西田自身も、「人は私の論理と云うのは論理ではないと云う。宗教的体験だなどと云う」だとか「私の論理と云うのは学界からは理解せられない、否未だ一顧も与えられないと云ってよいのである」だとか、苛立ちとも不安ともとれる言葉を残している(「私の論理について」)。

そして、西田のこのような問題点を、とくに宗教と哲学あるいは論理との関係に着目して指摘し批判した人物が田辺元であった。

西田先生が自覚を以て意識の本質とせられ、而うして自覚とは自己が自己のうちに自己を限定することであるが、斯かる自覚の無にして自己を観るに至って完成すると考え、自己を失うことが却て真に自己を得る所以であり、無にして観る自己の本然に還ることが自己を愛する所以にして、自愛すなわち自己の存在なることを説かれた深き教説は、先生の独自なる体験を披瀝せられたものとして、私はただその比類稀なる高遠深邃の思想を仰ぐばかりである。併しながら哲学は果して斯かる宗教的自覚を体系化することが出来るものであろうか。(「西田先生の教を仰ぐ」)

そして、西田の哲学における「自覚」に着目しこのような批判をさらにラディカルに推し進めた人物が戸坂潤であった。戸坂は「西田哲学の方法はつまる処決して何等かの弁証法ではないので、却って弁証法を説明する処の或る他の一つの方法でしかないのである」と言っている(「『無の論理』は論理であるか」)。そしてさらに、次のように述べる。

論理は元来存在の論理でなければならぬ。ということは弁証法的論理でなければならぬということである。(中略)唯物弁証法的論理こそ本当に唯一の存在の論理であり、従って又本当の論理なのである。─で、無の論理は論理ではない、なぜなら、それは存在そのものを考えることは出来ないのであって、ただ存在の「論理的意義」だけをしか考え得ないのだから。

 もちろん、戸坂の西田批判の動機は「唯物弁証法的論理こそ本当に唯一の存在の論理であり、従って又本当の論理なのである」と明言することにあったわけであるが、それにしても「西田哲学の方法は……弁証法を説明する処の或る他の一つの方法でしかない」だとか、無の論理が「存在そのものを考えることは出来ない」だとか「ただ存在の『論理的意義』だけをしか考え得ない」とはどういうことか。以下、戸坂による西田哲学論を見てみよう。

 戸坂はフィヒテ、シェリング、ヘーゲルといったいわゆるドイツ観念論の哲学者たちの系譜に、西田を位置づける。彼らの「実在に関する諸根本概念─諸範疇─を、思考に於て如何に組織し秩序づけるか」、あるいは「世界を範疇組織として解釈しようとする」企てを、西田哲学は「最も純粋な最も自覚された形にまで、徹底させた」のであって、この「徹底」に西田哲学の固有性があるのだと、戸坂は言う。ここで「概念」あるいは「範疇」すなわち「カテゴリー」とは、ごく簡単に言えば、我々が世界を把握する仕方を決定するものであると言ってよい。あるいは、我々は概念あるいは範疇(カテゴリー)を通じて世界を把握している、このように言っても良かろう。さしあたり概念あるいは範疇(カテゴリー)をこのようなものであるとして(というか同業者の方々、今日のところはこの辺で勘弁してやって下さい)、またもごく簡単に言えば、上に挙げられたいわゆるドイツ観念論の哲学者たち、中でも特にヘーゲルは、そのような概念あるいは範疇(カテゴリー)を、弁証法的に移行するあるいは展開するあるいは発展するものとして描いたのであった(この辺について詳しく話し始めるとたちまちヘーゲルの話になっちまうもんで……同業者の方々、今日のところは……以下省略)。これもまたごく簡単に言えば、たとえばヘーゲルの場合、我々の世界把握は対象を「有る」ととらえるところからはじまり、さらに「それは何であるか」つまりその対象の「本質」をとらえるようになり、はては対象を「絶対者」との関連においてとらえるまでになるのである(この辺について詳しく話し始めるとたちまちヘーゲルの話に……以下省略)
 では、西田哲学の固有性とはどのようなものか。戸坂は述べる。

西田哲学の方法にとっての第一のそして終局の問題は、如何にして存在なるものを考え得るかである、と云っていい。ここですでに注意しなければならないのは、存在が何であるか─例えば物質であるか精神であるかそれとも両者の合一未分のものであるか等々─ではなくて、どう考えたならば存在というものを考えることが出来るかが問題なのである。存在自身ではなくて存在という範疇が、存在という概念が、いかにして成り立つかである。ここは根本的に大事な点である。

 
 「如何にして存在なるものを考え得るか」、「どう考えたならば存在というものを考えることが出来るか」、「存在自身ではなくて存在という範疇が、存在という概念が、いかにして成り立つか」、これが西田の問題であるというのである。つまり、たとえば上に見たヘーゲルの場合とくらべて、西田の場合は問題意識がはるかにラディカルであるということになる。ヘーゲルの論理学の場合には「有」つまり「存在」から弁証法の運動が始まるのであるが、西田の場合にはより根本的に、「有」=「存在」という概念あるいは範疇(カテゴリー)がそもそもいかにして成立するのかというところから出発するのであり、そして「有」=「存在」が、たとえばヘーゲルの論じる弁証法(過程的弁証法)の出発点である以上、西田による弁証法の議論は、そもそもいかにして弁証法が可能になるのかということを問うものなのである。

戸坂は、西田が存在という概念あるいは範疇の成立過程を論じた「一般者の自己限定」の議論に注目する。すなわち西田は、「存在を判断における限定の関係から把握しようとする」のであり、「存在」と考えられるものがすべて「一般者の自己限定でなければならない」とするのである(「判断」と「限定」についてはそのうちに詳しく論じます)。西田の議論において、判断的一般者、自覚的一般者、行為的一般者等、様々なレヴェルで一般者の自己限定について論じられるのであるが、要するに肝心なのは戸坂によって次のように論じられる点である。

上にある一般者は底にある一般者の自己限定と考えられるわけであるが、それでは、最後の底にある一般者は何の一般者の限定であるか。最後の一般者と雖も一般者と考えられ得る以上限定されたものであり、ある処のものである、それは最後の有である。だがそういう有の一般者が限定である限り、之を限定するものが考えられねばならぬ。処でそれは最後の有より一枚彼岸にあるのだから、もはや有ではあり得ない。底には何もない、何も無くて而も限定しなければならぬから、無にして限定する無の自己限定が考えられなければならない。場所とは無の場所だったのである。

 無の自己限定、「無にして限定する」ということそが、西田の言うところの「自覚」あるいは「意識」であると、戸坂は言う(ところでそもそもなぜこのような「自覚」が成り立つのかと言えば……http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_26.html)。「自覚・意識は一方に於て無の限定であり、他方に於て併しながらそれであるが故に初めて有(存在)であることが出来たのだから、同時に二つの面を直接に重ねて持っているわけで、前者を西田はノエシス面、後者をノエマ面と呼び慣わしている」。「意識は常になにものかについての意識である」(フッサール)と言われる場合の意識の働きが「ノエシス面」、「なにものか」が「ノエマ面」というわけである。このように、自覚において無が限定されることによって、言いかえれば自覚のノエマ的側面として、「存在」=「有」の概念あるいは範疇(カテゴリー)をはじめとして様々な概念あるいは範疇(カテゴリー)が成立することになる。このようにして「一切の存在の諸範疇は、『無の自覚的限定』として、組織づけられ体系づけられねばならならぬことになる」のであって「之が実質から云って西田哲学の体系となるべきもの」であると、戸坂は言う。先に見たように、ドイツ観念論の哲学者たちの系譜に位置付けて見れば、西田がこのような方向に向かうであろうと考えるのは、当然であろう(このことについても、いずれ詳しく論じることになると思うが、西田は実際にこのような方向に向かおうとするのであるが、その試みははっきり言って成功しているとは言い難いようである)。

  ところで西田はなぜそもそも「無の論理」といったものを考えなければならなかったのか。戸坂は西田の、言わば「言い分」を、次のようにまとめる。すなわち、「従来の哲学の大抵のものは、何かの片手落ちや無理をして来ているのであるが、西田哲学は相反する凡ゆる哲学的要求を素直に受け入れ、夫々の間の撞着・矛盾を、結び付き得ない筈のものを、あり態に暴露する」、さらに西田は考える、「結び付き得ないものは結び付き得ない筈のものである(例えば主観と客観・未来と過去・歴史とイデア・等々)、それが永久に結びつかないことこそそれの本性なのだ。だがそれは事実としては結び付いているのであって、(従来の哲学の大抵のものは 論者)ただどうしてもその結び付きが考え得られないという困難に陥っているにすぎない」。なぜか、「それは考え方が悪いのだ」、つまり、「存在を在るもの・有から出発して考えるからで、有の論理を以って考えようとするからである」。だからこそ、「在るもの・有から出発して考える」のではなく、西田のように「無にして限定するものを考えることが必要になってくる」のである。「存在は無の限定として、無から出発して考えられねばならぬ、そうしなければ一般に凡そ存在なるものは考えられぬ、救うべからざる矛盾に陥って了う他はない」、だからこそ、必要なのは「有の論理」ではなく「無の論理」である、と。

戸坂は、西田がこのように論じる「無」が、「決して何か神秘主義的な」ものではないとし、それが「吾々の自覚・意識の事実に於て、その直接な拠り処と出所とを」もっているとして、「無の論理」を「自覚的論理」であるとする。そして西田の論じる「矛盾」を、先に見た自覚あるいは意識に備わるノエシス面およびノエマ面という二つの側面との関連で論じる。「従来、矛盾は何かノエマ的に成り立つかのように仮定されていた」、つまり、矛盾は、先に見たように自覚あるいは意識の働きのノエマ的側面である存在あるいは対象の側に成り立つかのように仮定されてきた。しかしながら、「ノエマ的につかまれ得るものは単なる変化や対立や反対ではあっても、本当の矛盾ではあり得ない」、つまりここで矛盾とされている事態は、ノエマ的に限定されて成り立っているあるものと、同じように限定されて成り立っている他のものとが、変化、対立、反対等の関係にあるとして、言わば外的にとらえられるに過ぎない。そうではなくて、「矛盾はいつでも内部矛盾であるべき」である、つまり、ノエマ的に限定されて成り立つものは、そもそも限定された時点で矛盾を内的に含んでいるのであって、矛盾とはそもそも内的矛盾なのであり、そういったものとしての矛盾、言わば「本当の矛盾」とされるに値する矛盾とは「ノエシスの側に於てしか成り立たない筈」なのである。だから「本当の矛盾」を言わば原動力として展開するはずの「本当の弁証法」は、「有が直ちに無に裏づけられている、生即死、死即生という点にしか考え得られない」ということになる。そしてさらに、矛盾は無が自覚において限定されることによって成り立つのだから、「無の論理によってしか弁証法は考えられない」、ということにもなり、また、弁証法はそのように自覚において成り立つ矛盾を原動力として展開するのであるから、「弁証法は自覚に依ってしか考えられない」ということになる。

 西田の議論をおおよそこのように把握したうえで、戸坂は言う、「ここでいう弁証法・自覚の弁証法なるものは、要するに弁証法の自覚でしかない」、これが戸坂による西田批判の骨子である。西田のように、そしてまた戸坂自身もそうであるように、弁証法を「存在の根本法則」と考えようとするならば「存在と存在の意識とをあくまで区別する必要がある」、また従って「弁証法そのものと弁証法の意識(自覚)とを区別することがあくまでも必要なのである」、ところが「西田哲学で問題になるのは、弁証法の自覚・意識でしかなくて、弁証法それ自身ではない」のであり、西田の場合には「弁証法なるものは如何にして意識され得るか─考え得られるか─という弁証法の意味(それは無論意識・観念されたものである)だけが問題であって、弁証法それ自身は問題にならない」と、戸坂は言うのである。たしかに、西田の議論によって「弁証法というものの意味が成立する場所はなる程意識・自覚─それは要するに無によって裏づけられる─」ということは示されている、しかしだからと言って、「弁証法そのものの成立する場所が意識や自覚だということにはならない」と、戸坂は言うのである(傍点は中畑による)。

 先にも述べたように、戸坂のこのような批判は「唯物弁証法的論理こそ本当に唯一の存在の論理であり、従って又本当の論理なのである」とする戸坂の立場からなされたものなのであって、戸坂の思想において、弁証法とはあくまでも実在的な世界、さらに言ってしまえば、我々がその中で生きていて現に頑として成り立っている客観的な現実のあり方を決める確固たる法則でなければならないのであって、意識だの自覚だのといったたんなる観念的なものの中でのみ成立するにすぎないものであってはならないのである。

 さて今回、戸坂の西田哲学論について論じ始める際に、私は戸坂による西田哲学を評する言葉、「西田哲学の方法は……弁証法を説明する処の或る他の一つの方法でしかない」だとか、無の論理が「存在そのものを考えることは出来ない」だとか「ただ存在の『論理的意義』だけをしか考え得ない」といった言葉を挙げた。このことにかんして、ここで簡単に論じておこう。まず、「西田哲学の方法は……弁証法を説明する処の或る他の一つの方法でしかない」という批判について、これは西田に言わせれば、我々が世界を把握する際にそれが弁証法的な把握でしかあり得ないとすれば、それはそもそもどのように成り立っているのかが説明されなければならないのである、ということになろう。また、無の論理が「存在そのものを考えることは出来ない」だとか「ただ存在の『論理的意義』だけをしか考え得ない」とった批判についても、西田に言わせれば、存在そのものについて考え始める時、我々はすでに論理の中にいるのであって、存在そのものについて考えるということがいかにして成り立っているのかということを、あるいは論理というものがいかにして成り立っているのかということを、我々は理解しなければならないのである、ということになろう。くり返しになるようだが、戸坂はあくまでも西田を批判するためにこのように論じているのである。だがむしろ、戸坂が批判した点においてこそ、西田の哲学を積極的に評価できないだろうか、つまり戸坂の言う、存在の論理的意義だとか弁証法の意味だとか意義だとかいうものの指摘を、西田による発見として積極的に評価することはできないだろうか。そのようにとらえるために、戸坂が存在の論理的意義だとか弁証法の意味だとか意義だとかいうものについてどのように論じているのか、詳しく見てみたいと思う……次回以降に。

2015年6月13日土曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 8

右に天皇、左に観音

 

 このシリーズで前回取り上げた安吾の「不良少年とキリスト」は、無頼派の盟友太宰に向けての安吾による言わば追悼文なのであるが、安吾は同じく無頼派の織田作之助の死に際しても追悼文を書いている(「大阪の反逆」)。さらにその間、かつて「風博士」を絶賛して安吾を文壇に言わば送り出した牧野信一をモデルとした主人公(三枝庄吉)の死を描いた短編「オモチャ箱」において、牧野の死について改めて論じている。「改めて」と言うのは、安吾はすでに「牧野さんの祭典によせて」や「牧野さんの死」といったエッセイにおいて牧野の死について論じていたからである。ただし、それらのエッセイにおいては牧野の死が好意的に論じられているのに比べて、「オモチャ箱」における安吾の論述は手厳しい。そしてその手厳しさは、「大阪の反逆」、「不良少年とキリスト」にも通ずるものである。これら三つのエッセイに共通する安吾の関心は、織田、牧野、太宰が、ものを考えてゆくうえで、作品を創造するうえで、そして生きてゆくうえで、各々何を「ひきあいに出した」のか、というところにある。すなわち、織田の場合は大阪という「ふるさと」であり、牧野の場合は「ファム・ファタール」つまり「運命の女」としての妻であって、太宰の場合は前回も見たように「キリスト教」であった。三人の各々が「ひきあいに出した」ものをこのように指摘した上で、安吾は、それらが「ひきあいに出す」に値するものではないということを、さらには、何かを「ひきあいに出す」ということ自体が、三人の各々のいわば「限界」であったということを、手厳しく批判しているのである(「教祖の文学」における小林秀雄批判も、このような文脈に位置付けることが出来るかもしれない。というのは、安吾に言わせれば作品を批評しあるいは鑑賞する際に、その作品の中に「必然の筋道」を見出すことしかしなくなったことが小林の「限界」だったからである。ちなみに次のページをご残照下さいませ。http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_20.html)。太宰については前回見たので、ここでは織田と牧野について安吾の論じているところを見ておこう(太宰については後で少しだけ戻ります)。

   織田の可能性の文学は、ただ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の   
   具としているまでの如くであるけれども、然し、織田の論理の支柱となっている感  
   情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢
   にそういふ対立の感情的な低さがある。(中略)織田は、日本の在来文学の歪めら
   れた真実性というものを否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対す
   る大阪の地盤から、そういう地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱として論
   理を展開してしまった。(中略)織田は悲しい男であった。彼はあまりにも、ふる
   さと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定さ   
   れてしまった。                                          (「大阪の反逆」)

 彼の人生も文学も、彼のこしらえたオモチャ箱のようなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与えた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存していたのである。/私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひっくりかえり、こわれてしまったのだと思っている。(中略)庄吉だって知っていた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与えた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだろうし、メカケにもなろう、淫売婦にもなるであろう、ということを。/彼の鬼の目はそれぐらいのことはチャンと見ぬいていた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、ただ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらわれ、彼が死んでしまえば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果ててしまっていたのだ。(中略)私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなったんじゃないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんということだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。/私は、あなたの実に下らぬ死を思い、やるせなくて、たまらなかったのだ。
                                                          (「オモチャ箱」)

  このように手厳しい言葉が並んでいるのであるが、安吾のこのような言葉は、たんに織田や牧野に向けられた批判であるだけではない。これらの言葉は同時に、安吾の自己批判でもあるのだ。つまり安吾は、織田の、牧野の、そして後に見るように太宰のあり方に自分自身のあり方を見出していたのである。というのも、安吾自身がかつて、ものを考えるうえで、そして作品を創造するうえで、「ふるさと」を「ファム・ファタール」を「ひきあいに出した」からである。安吾が「ふるさと」を「ひきあいに出した」というとたちまち異論が出るかもしれない。というのも、安吾において「ふるさと」といえば「文学のふるさと」で論じられるように、たとえば織田にとっての大阪のような文字通りの「ふるさと」を指すものではなく、倫理や道徳の、そして創作活動の、言わば原点や起源を指す概念だからである。だが他方で安吾は、たとえば「石のおもい」等の自伝的作品において文字通りの「ふるさと」である新潟へのアンビバレントな想いを論じ、また、「吹雪物語」では、現実のファム・ファタールであった矢田津世子への想いを言わば清算するために、「ふるさと」である新潟を舞台とした物語を描いたのであった。そしてそのようにして書かれた「吹雪物語」は、少なくとも安吾自身にとっては失敗作であった。
 何かを「ひきあいに出す」ことを自らに禁じ、それでもものを考え、作品を書き続けなければならないとすれば、何が必要か。ドーピングである。アスリートが薬物を使用することによって自らの肉体を限界を超えて強化するように、安吾は薬物によって精神を、思考を、高揚させることによって限界を超えなければならなかったのであり、また逆にその反動として、さらに薬物やアルコールによって精神を、思考を、鎮めなければならなかった。ヒロポンやアドルムといった薬物やアルコールの濫用は安吾にとってそのような意味をもっていた……というのは、私の思い込みが過ぎようか。それはともかく、安吾は薬物の濫用が原因で精神に異常を来し、1949年(昭和24年)223日、東京大学医学部附属病院神経科に入院することになる。

 安吾は「精神病覚え書」において、入院中に思ったことを語っているが、中でも入院中に目にした同じ入院患者の印象を述べた文章が非常に面白い。

   精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理 
   想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、
   と。(中略)患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、む
   しろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、という
   ことを。/彼らは、自分の悩んでいるものを知っているのである。ただ人に言わな
   いだけだ。そして、人に縋ったところで、どうにもならないということを悟り、そ
   ういうところから厭人的になり、やがて、神経が消耗してしまう。(中略)彼らは
   徳義上の内省については普通人よりも考えあぐね、発作の時期でなければ、むしろ
   行い正しく、慎しんでいるのが普通であり、精神病院の看護婦などが、患者に親切
   で、その仕事に愛着をもつようになるのも、患者らの本性の正直さや慎ましさが自
   然にそうさせるのではないかと思った。

 ここで「自我の理想的な構成」を求める患者たちの姿に、我々は前回見た太宰のあり方を見出すことは出来ないであろうか。前回見たように「よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈」(「不良少年とキリスト」)の太宰もまた「自我の理想的な構成」求めていたのであった(そしてそれをもたらすもの、あるいはもたらすはずであったものは、太宰にとっては「キリスト教」であった)。そして安吾もまた、「患者としての僕が痛切に欲しているものは、ただ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった」と言っているように、それは安吾にしても同じことなのであって、安吾は患者たちの姿に、そして太宰のあり方に、自分自身のあり方を見出したのであった。そしてさらに、「自我の理想的な構成」と関連して(と、私には思われるのだが)、安吾は一人の特異な患者について、興味深いことを語っている。

服装から判断して、農家の主婦であったかも知れない。彼女は膝と足を紐と手拭様のもので二ヶ所縛られ、その夫と思われる者、又、も一人の肉親の一人と思われる青年の二人に抱かれて外来室へ運びこまれてきた。/彼女は幻視を見ているのである。右に天皇が見え、左に観音が見え、彼女はただ拝みつだけているだけで、医者の問いに返答せず、返答するのは夫と思われる男であり、その度に、彼女は怒って、夫を手で振りはらうようにした。(中略)こういう患者をめぐって、ある種の宗教が発生しているに相違ない。それらの教祖は別として、その信徒は何者なのだろう。何者でもなく、人間なのだろうか。いったい、精神病者とは、何者であるか。

 この患者もまた「自我の理想的な構成」を求めているのだとすれば、この患者にとってそれをもたらすもの、あるいはそれをもたらす「はず」のものは、天皇であり仏教である、ということであろう。だが、そのように現実的にあるいは具体的に示され得るものがありながら、なぜこの患者は精神に異常を来したのか。それはおそらく(というか、たぶん間違いなく、と私は思うのだが)、敗戦後、天皇が神であることが否定され、仏教を含めてあらゆる宗教が相対化されたからであろう。そしてこの特異な患者の場合には分かりやすすぎるほど分かりやすいケースであるに過ぎないのであって、おそらく、さきの引用で見た「自我の理想的構成」を求める一般的な(?)患者にしても事情は同じであろう。そして、くり返しになるようだが、太宰の場合にはそれが天皇でも仏教でもなく、キリスト教だったわけである……多分。つまり、安吾は入院中に、日本が戦争に負けるまで日本人が程度の差はあれ、自我を理想的に構成するために、つまりよりよく生きてゆくために、意識的にあるいは無意識的に「ひきあいに出していた」ということを発見した、より正確に言えば、患者たちにその「痕跡」を見出したのである。そして安吾はそのような発見を通じて、何ものをも「ひきあいに出す」ことなく、現実を、そして人間を見るための可能性に気が付いた……と私は考えているのであるが、これは私の安吾論の、とってもとっても大きなテーマの一つなのでここでさて置き、現時点では詳しいデータを知らないので何とも言えないが、もしかしたら敗戦後の新興宗教の台頭と精神を病んでしまった人々の数の増加との関連を指摘することも出来るかもしれない。

 それはともかく……さて、少しだけ西田。

 西田に対する批判として、西田が戦争中に天皇制や皇道や国体といったものを正当化したということが挙げられる。西田自身の言葉を見てみよう(ちょっとがんばって読んでみて下さい)。

神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。/我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。(「世界新秩序の原理」)

 つまり、日本の歴史において「絶対矛盾的自己同一」的なものが、「超越的にして内在的なもの、内在的にして超越的なもの」が、国体や皇室といったかたちで具体的・現実的なものとして存在しつづけたと、西田は言っているのである。このような観点から、西田は日本の歴史を具体的にとらえている(ちょっと長いけれども、面白いので引いておく)。

何千年来皇室を中心として生々発展し来った我国文化の迹を顧みるに、それは全体的一と個物的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと何処までも作ると云うにあったのではなかろうか。全体的一として歴史に於て主体的なるものは色々に変った。古代に於て蘇我氏の如きものがあり、それより藤原氏があり、明治維新に至るまでも、鎌倉幕府を始として足利徳川と変った。併し皇室は此等の主体的なるものを超越して、主体的一と個物的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する世界の位置にあったと思う。(中略)我国の歴史に於ては、如何なる時代に於ても、社会の背後に皇室があった。源平の戦は氏族と氏族との主体的闘争であろう。併し頼朝は以仁王の令旨によって立った。最も皇室式徴と考へられるのは足利末期であろう。併し毛利元就が陶晴賢を討つに当って勅旨を乞うた。我国の歴史に於て皇室は何処までも無の有であった、矛盾的自己同一であった。それが紹述せられて明治に於て欽定憲法となって現れたのであろう。故に我国に於ては復古と云うことは、いつも維新と云うことであった。(中略)蘇我氏藤原氏以来我国歴史に於て主体的なるものは、それぞれの時代に於てそれぞれの時代の担い手の役目を演じたのであろう。併し作られて作るものとして、如何なる主体ももはや環境に適せない、即ち社会形態が行詰る時が来なければならない。歴史が生きたものであるかぎり、然らざるを得ない。(中略)我国ではそれがいつも皇室に返ると云うことであった、復古と云うことであった。そしてそれはいつも昔の制度文物に返ると云うことでなく、逆に新なる世界へ歩み出すと云うことであった。明治維新と云う如きものが最も之を明にして居ると思う。(「日本文化の問題」)

 つまり具体的に言えば、蘇我、藤原、足利、徳川といった各々の時代の政治的主体を超越するものとしての西田の言う「無の場所」を、西田は理論の中で皇室や天皇制として実体化してしまったのである、本来ならば「実体」化され得ないはずの「無」を実体化してしまったのである、とも言えよう。
 西田の「絶対矛盾的自己同一」とは、有限と無限、相対と絶対、時間と永遠とが絶対的に矛盾しつつ同一であるということを言うのであるが、西田はそれをそのまま相対的な現実の領域に見出してしまった、戦後展開された西田への批判をこのようにまとめることもできるであろう。たとえば鈴木亨はそのことを「西田の致命的欠陥である」とさえ言っている(『西田幾多郎の世界』)。
 また、西田の哲学「心の論理」であるということがよく言われる。ちなみに西田自身は「心の論理」について、「事物の論理」と対比させるかたちで次のように論じている。

私は仏教論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われるものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを擁するのである。(「日本文化の問題」)

 西田は、国家や歴史といった具体的な実在を論じるための「事物の論理」と「心の論理」を混同してしまった、あるいは前者を後者の中に無理に取り込もうとしてしまった、といった批判も可能かもしれない。

しかし本当にそうであろうか。西田は、本当に、間違っていたのだろうか。

宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。(中略)今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。(「絶対矛盾的自己同一」)

 安吾が入院中に見た特異な患者のことを考えれば、我々はむしろ西田のこのような言葉が正しかったと考えざるをえないのではないだろうか。西田は「宗教の問題は個人的安心にあるのではない」と言っている、しかしこれは、宗教と道徳と国家との結びつきを強調するために言われていると考えるべきであって、もちろん、宗教の目的は個人的救済とも無縁ではないのであり、宗教の問題は個人的安心とも大いに関係するのである。安吾の見た特異な患者は、まさに天皇や仏教といった宗教を失うと同時に、倫理的実体を失ったのであり、国家の問題と宗教の問題が、まさに「心の問題」であったのであり「心の論理」によって論じられなければならない問題であったのだということを、彼女の病は我々に教えていると、そのように考えられないだろうか。そしてそれは当時の日本人にとって程度の問題に過ぎなかったのであって、彼女ほど分かりやすくはなかったにせよ、安吾が病院で見た一般的な患者たちもまた同様の問題を抱えていたのであるとも考えられよう。さらに言えば、「天皇陛下にささぐる言葉」等において安吾も批判的に論じているように、敗戦後すぐに天皇への崇拝が復活したという事実もまた、国家や宗教、そして倫理や道徳といったものをめぐる日本人のあり方を示しているのだと言えよう(そして、天皇崇拝の復活の他方で続いた共産主義への熱狂的支持もまた、安吾に言わせれば一種の宗教であったと言えよう)。
 つまり、西田は正しかったのである。日本人は良くも悪くも常にそういう国民なのであった。安吾もまた、批判的にではあるが、たとえば「堕落論」や「続堕落論」において、日本人をそのようなものとして批判的に論じた。そして現在の知識人たちは、一方で西田の哲学を批判し、他方で安吾の思想を「健全」であると言う。しかし、敗戦後、現在に至るまでに、日本人は一体どれほど変化したのだろうか。先日、日本思想を専門とする友人と話をする機会があったのだが、その際に彼は、日本人の「御上(おかみ)意識」は今も昔も変わらない、というようなことを言っていた。その通りなのだろうと思う。敗戦後、日本の知識人たちは、一方で民主主義や共産主義等外来の思想を輸入することに、そして他方で敗戦までの日本のそして日本人のあり方を徹底的に否定することにばかり力を入れてきた(なんだか言い古されたような月並みな表現でごめんなさいね)。だがもちろん、いくらそんなことをがんばってみたところで日本人の本質そのものが急に変わるわけではない。敗戦後の日本の知識人たちは、西田や安吾が論じた日本のそして日本人のあり方から出発して、日本および日本人が進み得る最善の道を模索しなければならなかったのではないか。現在、知識人たちは現政権の暴走を批判し、さらにはそのような暴走を止められなかったのは国民の意識の低さが原因であると言って国民を非難しはじめている。冗談ではない。そもそもこんな事態を招いたのは知識人の怠慢が原因なのである。……と、これ以上書いても多分同じことの繰り返しになるだけであろうし、そんなことをしても私としては確実に胸糞が悪くなるだけなので、今回はここまで。

2015年6月3日水曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 7

「永遠の死」─太宰の場合─ 2

  
 さて前回の続き。

  前回、安吾が太宰を、キリストを「ひきあいに出した」と評したと書いた。それは「不良少年とキリスト」において、安吾が太宰を不良少年にたとえる文脈で語られる。以下、関連する箇所を、多少長くなるが引用する(内容についてのくどくどした解説はいらないと思う。というか、わかっていただきたい文章です)。

太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。……太宰は親とか兄とか、先輩、長老というと、もう頭が上らんのである。だから、それをヤッツケなければならぬ。口惜しいのである。然し、ふるいついて泣きたいぐらい、愛情をもっているのである。こういうところは、不良少年の典型的な心理であった。……不良少年は負けたくないのである。なんとかして、偉く見せたい。クビをくくって、死んでも、偉く見せたい。……四十になっても、太宰の内々の心理は、それだけの不良少年の心理で、そのアサハカなことを本当にやりやがったから、無茶苦茶な奴だ。/文学者の死、そんなもんじゃない。四十になっても、不良少年だった妙テコリンの出来損いが、千々に乱れて、とうとう、やりやがったのである。

 不良少年は、ただ「負けたくない」という気持ちから「何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする」、そして、太宰が「ひきあいに出した」ものの一つが「キリスト」であったのだと、安吾は言うのである。

 ところで「不良少年とキリスト」において、安吾は太宰の創作活動を、フロイトの言ういわゆる「誤謬の訂正」、つまり「我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとする」試みにたとえている。すなわち、「太宰は、これを、文学の上でやった」、「彼は、その小説で、誤謬の訂正をやらかした」。

思うに太宰は、その若い時から、家出をして女の世話になった時などに、良家の子弟、時には、華族の子弟ぐらいのところを、気取っていたこともあったのだろう。その手で、飲み屋をだまして、借金を重ねたことも、あったかも知れぬ。 

「フツカヨイ的に衰弱した心には、遠い一生のそれらの恥の数々が赤面逆上的に彼を苦しめていたに相違ない」、前回引用した伝記的記述に見られるように太宰を苦しめていたのはここに言われているような「恥の数々」よりもずっと重い罪の意識だったわけであるが、それはともかく、安吾によれば太宰は苦しみから逃れたいがために、フロイトの言う誤謬の訂正と同じように「誤謬を素直に訂正することではなくて、もう一度、類似の誤謬を犯す(つまり、現在の自分を苦しめている過去の行いを作品において再現する 論者)ことによって、訂正のツジツマを合せようと」したというのである。安吾が具体的に太宰のどの作品を念頭に置いてこのようなことを言っているのかはわからない。だが確かに、上に引いたイメージは、太宰という人物の典型的なイメージであるようにも思われ、また、太宰作品の登場人物の典型的なイメージのようにも思われる。

ところで安吾は、太宰の自殺の原因を、一方では太宰の「フツカヨイ」的な苦しみにあったとし、また他方で、太宰の肉体的な「虚弱」にあったとしている。だがこの二つの要因はどちらか一方が主であって他方が従である、というような単純な関係にあるものではない。

率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力を、太宰はやらなかった。/彼は、やりたかったのだ。そのアコガレや、良識は、彼の言動にあふれていた。然し、やれなかった。そこには、たしかに、虚弱の影響もある。然し、虚弱に責を負わせるのは正理ではない。たしかに、彼が、安易であったせいである。(中略)然し、なぜ、安易であったか、やっぱり、虚弱に帰するべきであるかも知れぬ。

デカルトがどんなにその証明に苦労したにしても、というか証明できなかったにしても、誰もが経験的に知っているように、やはり我々の肉体と精神は結びついているのであって、肉体的なコンディションは精神的な活動に大いに影響を及ぼす。太宰の場合、肉体的な虚弱のために「率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力」が出来ず、「誤謬の訂正」の安易さに流されて作品を書く、そして、そういった作品をたとえば志賀直哉などに批判されると、またしても太宰はフツカヨイ的な「赤面逆上的混乱苦痛」に苦しみ、「誤謬の訂正的発狂状態」に陥る。つまり安吾は、典型的な「太宰的」イメージの人物が登場する太宰の作品は「虚弱」と「誤謬の訂正」へと逃げる安易さとの悪循環において書かれた、というのである。

 さて、ここでちょっとだけ西田。太宰が陥っていたこのような悪循環と、このブログでも以前に論じた西田の「行為的直観」とを重ね合わせて考えてみよう。
 行為的直観と創作活動の関係について、私は、小説家にとって小説を書くということは「行為的直観」なのであって、小説の創作とは作家個人の「歴史」の「表現」なのである、といった趣旨のことを書いた。そしてさらに、小説家自身が自己認識に満足出来ない時、その時点での自己認識は小説家にとっての「限度」と感じられるのであり、そこに「作家活動の原動力」が、つまり小説を創作することへの欲求が生まれる、ということも書いた。以前も引用した文章だが、安吾によれば、「一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己叛逆を起す」、そして「ふみとどまった時には作家活動は終り」なのである。太宰にとって、自分の小説で表現される歴史とは、上に見た「誤謬の訂正」をめぐる悪循環であった。もちろん、太宰にも常にそれは「限度」として感じられたであろうし、安吾も言うように、太宰はその限度を「善なる建設への積極的な努力」によって乗り越えたかったであろう。だが太宰はある時点で遂に、悪循環によってもたらされる苦しみを安易な誤謬の訂正によって耐えることが出来なくなってしまった。つまり、遂に「限度」を乗り越えることが不可能であると思ってしまった。その時に太宰が書いた作品が「人間失格」だったのではないだろうか。つまり、「人間失格」は、太宰にとって最後の「発見創造」だったのではないだろうか。

 前回、西田の「逆対応」の概念について考える際に引用した小坂氏の表現にあるように、太宰はまさに、誤謬の訂正によって「どこまでも自己を主張し自己を肯定しようとして行きづまり、深い自己矛盾を経験」した、そして「その極限において」、どうしても罪の意識から逃れられない主人公を描くことを通じて、「一転して自己を否定する」に至った。小坂氏の言うような「安心」を、そこで太宰は決して得たわけではないであろう。だが少なくとも、「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じている」と言い、信仰を「ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事」だと言う主人公を描くことを通じて、太宰は菊田氏の言うように自らの「限界」(安吾の言うところの「限度」)を完全にあらわし切った、少なくともあらわし切ろうとしたとは言えるであろう。さらに、このことを「行為的直観」と関連させて言えば、誤謬の訂正による安易な自己正当化が「限度」に達した時、罪の意識から逃れられない主人公を書くことによって、太宰は新たな自己認識を得たのである……と思う。「斜陽」の終り近くで、かつての主人公を知る女性が主人公を評して「神様みたいないい子でした」と語る場面がある。たとえばこういった場面に、太宰のナルシシズムを感じる読者も多いが(私も長い間そう感じていた)、別に「神様みたいないい子」が、太宰が「斜陽」を執筆するという「行為的直観」を通じて発見した自己であったわけではない。そうではなくて太宰は、「神様みたいないい子」となるためには、これまでのように誤謬の訂正によって安易に罪の意識から逃れようとするのではなく、むしろ自らが描いた主人公のように、決して罪の意識から逃れようとしてはならないのだ、ということを発見したのであった……と思う。そのような意味で、「斜陽」執筆という行為的直観において、小坂氏による逆対応の表現にあるように、太宰は「自己を否定することによって自己を肯定し、自己を放棄することによってかえって真の自己を獲得」したと言えるだろう……と思う。

  ところで安吾は、「不良少年とキリスト」において、ドストエフスキーに言及している。

ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。

 今の私には『カラマーゾフの兄弟』について語る準備は出来ていないし、太宰へのドストエフスキーの影響について語ることも出来ない。だが、ここに引いた安吾の言葉を手掛かりとして「斜陽」について簡単に考えてみたい。まず、キリスト教に非常に影響を受けた太宰が、神の愛だとか罰だとか信仰だとかといったキリスト教的な概念を論じているこの作品において、キリスト教に直接言及することは一度もない。そのような意味では、「斜陽」においてはもはや、太宰はキリストを「ひきあいに出す」ことはしていない。そして罪の意識から逃れようとしない主人公を、「神様みたいないい子」を創造することによって、「キリストをこしらえ」た。そしてさらに、罪の意識から逃れようとしない主人公のあり方を、自らのあるべきあり方として発見したのであれば、太宰も「自分がキリストに」なった……というのは言い過ぎか。「死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ」、これもやはり、太宰にも当てはまる。

今回はここまで。ただ「斜陽」について少しだけ言っておきたい。ここでほんのちょっとだけご披露した「斜陽」論は、私が「斜陽」について考えていることのほんの一部に過ぎません。言わばもっと「メタな」観点から、いずれきちんと書きます。また、安吾のドストエフスキー論についても、太宰と関連させて、いずれきちんと書きます(やっぱり太宰はドストエフスキーじゃないんでしょうね、安吾に言わせれば……)。

それからもう少し。小説創作という行為的直観において、「真の自己を獲得」した(あるいは少なくともそう思ってしまった)作家は、その後何をしたら良いんでしょうかね。色々な可能性があるとは思いますが、中には猛烈な虚無意識にとらわれる作家もいることでしょう。そういった作家が自ら無に帰そうとしても、別に不思議ではないのではないでしょうか。たとえば、太宰が玉川上水に入水自殺したように……あ、今気が付いたんですけど、「川」ですね。まぁ、ワニはいないとは思いますが……。