2015年6月13日土曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 8

右に天皇、左に観音

 

 このシリーズで前回取り上げた安吾の「不良少年とキリスト」は、無頼派の盟友太宰に向けての安吾による言わば追悼文なのであるが、安吾は同じく無頼派の織田作之助の死に際しても追悼文を書いている(「大阪の反逆」)。さらにその間、かつて「風博士」を絶賛して安吾を文壇に言わば送り出した牧野信一をモデルとした主人公(三枝庄吉)の死を描いた短編「オモチャ箱」において、牧野の死について改めて論じている。「改めて」と言うのは、安吾はすでに「牧野さんの祭典によせて」や「牧野さんの死」といったエッセイにおいて牧野の死について論じていたからである。ただし、それらのエッセイにおいては牧野の死が好意的に論じられているのに比べて、「オモチャ箱」における安吾の論述は手厳しい。そしてその手厳しさは、「大阪の反逆」、「不良少年とキリスト」にも通ずるものである。これら三つのエッセイに共通する安吾の関心は、織田、牧野、太宰が、ものを考えてゆくうえで、作品を創造するうえで、そして生きてゆくうえで、各々何を「ひきあいに出した」のか、というところにある。すなわち、織田の場合は大阪という「ふるさと」であり、牧野の場合は「ファム・ファタール」つまり「運命の女」としての妻であって、太宰の場合は前回も見たように「キリスト教」であった。三人の各々が「ひきあいに出した」ものをこのように指摘した上で、安吾は、それらが「ひきあいに出す」に値するものではないということを、さらには、何かを「ひきあいに出す」ということ自体が、三人の各々のいわば「限界」であったということを、手厳しく批判しているのである(「教祖の文学」における小林秀雄批判も、このような文脈に位置付けることが出来るかもしれない。というのは、安吾に言わせれば作品を批評しあるいは鑑賞する際に、その作品の中に「必然の筋道」を見出すことしかしなくなったことが小林の「限界」だったからである。ちなみに次のページをご残照下さいませ。http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_20.html)。太宰については前回見たので、ここでは織田と牧野について安吾の論じているところを見ておこう(太宰については後で少しだけ戻ります)。

   織田の可能性の文学は、ただ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の   
   具としているまでの如くであるけれども、然し、織田の論理の支柱となっている感  
   情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢
   にそういふ対立の感情的な低さがある。(中略)織田は、日本の在来文学の歪めら
   れた真実性というものを否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対す
   る大阪の地盤から、そういう地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱として論
   理を展開してしまった。(中略)織田は悲しい男であった。彼はあまりにも、ふる
   さと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定さ   
   れてしまった。                                          (「大阪の反逆」)

 彼の人生も文学も、彼のこしらえたオモチャ箱のようなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与えた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存していたのである。/私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひっくりかえり、こわれてしまったのだと思っている。(中略)庄吉だって知っていた筈だ。彼の女房のイノチは実は彼がオモチャ箱の中の彼女に与えた彼の魔力であるにすぎず、その魔力がなくなるとき、彼女のイノチは死ぬ。そして彼が死にでもすれば、男もつくるだろうし、メカケにもなろう、淫売婦にもなるであろう、ということを。/彼の鬼の目はそれぐらいのことはチャンと見ぬいていた筈なのだが、彼は自分の女房は別のもの、女房は別もの、ただ一人の女、彼のみぞ知る魂の女、そんなふうな埒もない夢想的見解にとらわれ、彼が死んでしまえば、女房なんて、メカケになるか売春婦になるか、大事な現実の根元を忘れ果ててしまっていたのだ。(中略)私はあなたの女房のサンタンたる姿を眺めたとき、庄吉よ、これを見よ、あなたはなぜこれを見ることを忘れたのか、だからあなたはあんなに下らなく死んだのだ、バカ、だから女房が実際こんなにあさましくもなったんじゃないか、あなたは負けた、この女房のサンタンたる姿に。なんということだ、あんな立派な鬼の目をもちながら。/私は、あなたの実に下らぬ死を思い、やるせなくて、たまらなかったのだ。
                                                          (「オモチャ箱」)

  このように手厳しい言葉が並んでいるのであるが、安吾のこのような言葉は、たんに織田や牧野に向けられた批判であるだけではない。これらの言葉は同時に、安吾の自己批判でもあるのだ。つまり安吾は、織田の、牧野の、そして後に見るように太宰のあり方に自分自身のあり方を見出していたのである。というのも、安吾自身がかつて、ものを考えるうえで、そして作品を創造するうえで、「ふるさと」を「ファム・ファタール」を「ひきあいに出した」からである。安吾が「ふるさと」を「ひきあいに出した」というとたちまち異論が出るかもしれない。というのも、安吾において「ふるさと」といえば「文学のふるさと」で論じられるように、たとえば織田にとっての大阪のような文字通りの「ふるさと」を指すものではなく、倫理や道徳の、そして創作活動の、言わば原点や起源を指す概念だからである。だが他方で安吾は、たとえば「石のおもい」等の自伝的作品において文字通りの「ふるさと」である新潟へのアンビバレントな想いを論じ、また、「吹雪物語」では、現実のファム・ファタールであった矢田津世子への想いを言わば清算するために、「ふるさと」である新潟を舞台とした物語を描いたのであった。そしてそのようにして書かれた「吹雪物語」は、少なくとも安吾自身にとっては失敗作であった。
 何かを「ひきあいに出す」ことを自らに禁じ、それでもものを考え、作品を書き続けなければならないとすれば、何が必要か。ドーピングである。アスリートが薬物を使用することによって自らの肉体を限界を超えて強化するように、安吾は薬物によって精神を、思考を、高揚させることによって限界を超えなければならなかったのであり、また逆にその反動として、さらに薬物やアルコールによって精神を、思考を、鎮めなければならなかった。ヒロポンやアドルムといった薬物やアルコールの濫用は安吾にとってそのような意味をもっていた……というのは、私の思い込みが過ぎようか。それはともかく、安吾は薬物の濫用が原因で精神に異常を来し、1949年(昭和24年)223日、東京大学医学部附属病院神経科に入院することになる。

 安吾は「精神病覚え書」において、入院中に思ったことを語っているが、中でも入院中に目にした同じ入院患者の印象を述べた文章が非常に面白い。

   精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理 
   想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、
   と。(中略)患者たちが悩んでいる真実のものは、潜在意識によってではなく、む
   しろ、激しい祈念と反対の現実のチグハグにある、と見るのが正しいのだ、という
   ことを。/彼らは、自分の悩んでいるものを知っているのである。ただ人に言わな
   いだけだ。そして、人に縋ったところで、どうにもならないということを悟り、そ
   ういうところから厭人的になり、やがて、神経が消耗してしまう。(中略)彼らは
   徳義上の内省については普通人よりも考えあぐね、発作の時期でなければ、むしろ
   行い正しく、慎しんでいるのが普通であり、精神病院の看護婦などが、患者に親切
   で、その仕事に愛着をもつようになるのも、患者らの本性の正直さや慎ましさが自
   然にそうさせるのではないかと思った。

 ここで「自我の理想的な構成」を求める患者たちの姿に、我々は前回見た太宰のあり方を見出すことは出来ないであろうか。前回見たように「よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈」(「不良少年とキリスト」)の太宰もまた「自我の理想的な構成」求めていたのであった(そしてそれをもたらすもの、あるいはもたらすはずであったものは、太宰にとっては「キリスト教」であった)。そして安吾もまた、「患者としての僕が痛切に欲しているものは、ただ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった」と言っているように、それは安吾にしても同じことなのであって、安吾は患者たちの姿に、そして太宰のあり方に、自分自身のあり方を見出したのであった。そしてさらに、「自我の理想的な構成」と関連して(と、私には思われるのだが)、安吾は一人の特異な患者について、興味深いことを語っている。

服装から判断して、農家の主婦であったかも知れない。彼女は膝と足を紐と手拭様のもので二ヶ所縛られ、その夫と思われる者、又、も一人の肉親の一人と思われる青年の二人に抱かれて外来室へ運びこまれてきた。/彼女は幻視を見ているのである。右に天皇が見え、左に観音が見え、彼女はただ拝みつだけているだけで、医者の問いに返答せず、返答するのは夫と思われる男であり、その度に、彼女は怒って、夫を手で振りはらうようにした。(中略)こういう患者をめぐって、ある種の宗教が発生しているに相違ない。それらの教祖は別として、その信徒は何者なのだろう。何者でもなく、人間なのだろうか。いったい、精神病者とは、何者であるか。

 この患者もまた「自我の理想的な構成」を求めているのだとすれば、この患者にとってそれをもたらすもの、あるいはそれをもたらす「はず」のものは、天皇であり仏教である、ということであろう。だが、そのように現実的にあるいは具体的に示され得るものがありながら、なぜこの患者は精神に異常を来したのか。それはおそらく(というか、たぶん間違いなく、と私は思うのだが)、敗戦後、天皇が神であることが否定され、仏教を含めてあらゆる宗教が相対化されたからであろう。そしてこの特異な患者の場合には分かりやすすぎるほど分かりやすいケースであるに過ぎないのであって、おそらく、さきの引用で見た「自我の理想的構成」を求める一般的な(?)患者にしても事情は同じであろう。そして、くり返しになるようだが、太宰の場合にはそれが天皇でも仏教でもなく、キリスト教だったわけである……多分。つまり、安吾は入院中に、日本が戦争に負けるまで日本人が程度の差はあれ、自我を理想的に構成するために、つまりよりよく生きてゆくために、意識的にあるいは無意識的に「ひきあいに出していた」ということを発見した、より正確に言えば、患者たちにその「痕跡」を見出したのである。そして安吾はそのような発見を通じて、何ものをも「ひきあいに出す」ことなく、現実を、そして人間を見るための可能性に気が付いた……と私は考えているのであるが、これは私の安吾論の、とってもとっても大きなテーマの一つなのでここでさて置き、現時点では詳しいデータを知らないので何とも言えないが、もしかしたら敗戦後の新興宗教の台頭と精神を病んでしまった人々の数の増加との関連を指摘することも出来るかもしれない。

 それはともかく……さて、少しだけ西田。

 西田に対する批判として、西田が戦争中に天皇制や皇道や国体といったものを正当化したということが挙げられる。西田自身の言葉を見てみよう(ちょっとがんばって読んでみて下さい)。

神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。/我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。(「世界新秩序の原理」)

 つまり、日本の歴史において「絶対矛盾的自己同一」的なものが、「超越的にして内在的なもの、内在的にして超越的なもの」が、国体や皇室といったかたちで具体的・現実的なものとして存在しつづけたと、西田は言っているのである。このような観点から、西田は日本の歴史を具体的にとらえている(ちょっと長いけれども、面白いので引いておく)。

何千年来皇室を中心として生々発展し来った我国文化の迹を顧みるに、それは全体的一と個物的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと何処までも作ると云うにあったのではなかろうか。全体的一として歴史に於て主体的なるものは色々に変った。古代に於て蘇我氏の如きものがあり、それより藤原氏があり、明治維新に至るまでも、鎌倉幕府を始として足利徳川と変った。併し皇室は此等の主体的なるものを超越して、主体的一と個物的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する世界の位置にあったと思う。(中略)我国の歴史に於ては、如何なる時代に於ても、社会の背後に皇室があった。源平の戦は氏族と氏族との主体的闘争であろう。併し頼朝は以仁王の令旨によって立った。最も皇室式徴と考へられるのは足利末期であろう。併し毛利元就が陶晴賢を討つに当って勅旨を乞うた。我国の歴史に於て皇室は何処までも無の有であった、矛盾的自己同一であった。それが紹述せられて明治に於て欽定憲法となって現れたのであろう。故に我国に於ては復古と云うことは、いつも維新と云うことであった。(中略)蘇我氏藤原氏以来我国歴史に於て主体的なるものは、それぞれの時代に於てそれぞれの時代の担い手の役目を演じたのであろう。併し作られて作るものとして、如何なる主体ももはや環境に適せない、即ち社会形態が行詰る時が来なければならない。歴史が生きたものであるかぎり、然らざるを得ない。(中略)我国ではそれがいつも皇室に返ると云うことであった、復古と云うことであった。そしてそれはいつも昔の制度文物に返ると云うことでなく、逆に新なる世界へ歩み出すと云うことであった。明治維新と云う如きものが最も之を明にして居ると思う。(「日本文化の問題」)

 つまり具体的に言えば、蘇我、藤原、足利、徳川といった各々の時代の政治的主体を超越するものとしての西田の言う「無の場所」を、西田は理論の中で皇室や天皇制として実体化してしまったのである、本来ならば「実体」化され得ないはずの「無」を実体化してしまったのである、とも言えよう。
 西田の「絶対矛盾的自己同一」とは、有限と無限、相対と絶対、時間と永遠とが絶対的に矛盾しつつ同一であるということを言うのであるが、西田はそれをそのまま相対的な現実の領域に見出してしまった、戦後展開された西田への批判をこのようにまとめることもできるであろう。たとえば鈴木亨はそのことを「西田の致命的欠陥である」とさえ言っている(『西田幾多郎の世界』)。
 また、西田の哲学「心の論理」であるということがよく言われる。ちなみに西田自身は「心の論理」について、「事物の論理」と対比させるかたちで次のように論じている。

私は仏教論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われるものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを擁するのである。(「日本文化の問題」)

 西田は、国家や歴史といった具体的な実在を論じるための「事物の論理」と「心の論理」を混同してしまった、あるいは前者を後者の中に無理に取り込もうとしてしまった、といった批判も可能かもしれない。

しかし本当にそうであろうか。西田は、本当に、間違っていたのだろうか。

宗教は道徳の立場を無視するものではない。かえって真の道徳の立場は宗教によって基礎附けられるのである。(中略)今日往々宗教の目的を個人的救済にあるかに考え、国家道徳と相容れないかの如く思うのも、宗教の本質を知らないからである。宗教の問題は個人的安心にあるのではない。今日かかる撞着に迷うものは、絶対他力を私していたものに過ぎない。真に絶対に帰依したものは真に道徳を念とするものでなければならない。倫理的実体としての国家と宗教は矛盾するものではない。(「絶対矛盾的自己同一」)

 安吾が入院中に見た特異な患者のことを考えれば、我々はむしろ西田のこのような言葉が正しかったと考えざるをえないのではないだろうか。西田は「宗教の問題は個人的安心にあるのではない」と言っている、しかしこれは、宗教と道徳と国家との結びつきを強調するために言われていると考えるべきであって、もちろん、宗教の目的は個人的救済とも無縁ではないのであり、宗教の問題は個人的安心とも大いに関係するのである。安吾の見た特異な患者は、まさに天皇や仏教といった宗教を失うと同時に、倫理的実体を失ったのであり、国家の問題と宗教の問題が、まさに「心の問題」であったのであり「心の論理」によって論じられなければならない問題であったのだということを、彼女の病は我々に教えていると、そのように考えられないだろうか。そしてそれは当時の日本人にとって程度の問題に過ぎなかったのであって、彼女ほど分かりやすくはなかったにせよ、安吾が病院で見た一般的な患者たちもまた同様の問題を抱えていたのであるとも考えられよう。さらに言えば、「天皇陛下にささぐる言葉」等において安吾も批判的に論じているように、敗戦後すぐに天皇への崇拝が復活したという事実もまた、国家や宗教、そして倫理や道徳といったものをめぐる日本人のあり方を示しているのだと言えよう(そして、天皇崇拝の復活の他方で続いた共産主義への熱狂的支持もまた、安吾に言わせれば一種の宗教であったと言えよう)。
 つまり、西田は正しかったのである。日本人は良くも悪くも常にそういう国民なのであった。安吾もまた、批判的にではあるが、たとえば「堕落論」や「続堕落論」において、日本人をそのようなものとして批判的に論じた。そして現在の知識人たちは、一方で西田の哲学を批判し、他方で安吾の思想を「健全」であると言う。しかし、敗戦後、現在に至るまでに、日本人は一体どれほど変化したのだろうか。先日、日本思想を専門とする友人と話をする機会があったのだが、その際に彼は、日本人の「御上(おかみ)意識」は今も昔も変わらない、というようなことを言っていた。その通りなのだろうと思う。敗戦後、日本の知識人たちは、一方で民主主義や共産主義等外来の思想を輸入することに、そして他方で敗戦までの日本のそして日本人のあり方を徹底的に否定することにばかり力を入れてきた(なんだか言い古されたような月並みな表現でごめんなさいね)。だがもちろん、いくらそんなことをがんばってみたところで日本人の本質そのものが急に変わるわけではない。敗戦後の日本の知識人たちは、西田や安吾が論じた日本のそして日本人のあり方から出発して、日本および日本人が進み得る最善の道を模索しなければならなかったのではないか。現在、知識人たちは現政権の暴走を批判し、さらにはそのような暴走を止められなかったのは国民の意識の低さが原因であると言って国民を非難しはじめている。冗談ではない。そもそもこんな事態を招いたのは知識人の怠慢が原因なのである。……と、これ以上書いても多分同じことの繰り返しになるだけであろうし、そんなことをしても私としては確実に胸糞が悪くなるだけなので、今回はここまで。