2015年5月29日金曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 6


「永遠の死」─太宰の場合─


  前回、西田哲学における「絶対無の自覚」とか「宗教的意識」とかいったことについて、ちょっとだけ書いた。今回はその辺の話から。

「絶対無の自覚」は中期西田哲学の最も重要な概念の一つである。前回も取り上げた「絶対無」は、西田の哲学において言わば究極的実在あるいは絶対者とされるのであるが、一方でこの絶対無が自らを自覚すること、それが「絶対無の自覚」である。だが他方で、この絶対無は我々人間の自己の根底なのであり、我々がそのことを自覚することもまた「絶対無」の自覚でなのであって、われわれの自己の側からいえば、我々の自己の根底が絶対無であることを自覚することもまた、「絶対無の自覚」なのである。つまり、「絶対無の自覚」において、逆方向の自覚が同時になされるのである。そして我々の自己の側における自覚の方を、西田は「宗教的意識」とも呼んでいるのである。ちなみにさらに言えば、この自覚とは、前回少し論じた「絶対矛盾的自己同一」の自覚、つまり、一はどこまでも一でありながら、同時に自己否定的に多である、また、多はどこまでも多でありながら、同時に自己否定的に一であるということの自覚なのであって、一方では普遍であり一である絶対無が、自己を否定して個であり多である我々の自己(わかります?我々は「多」ですけど、我々は我という「個」が集まっている、ということです)となるのであり、他方では個であり多である我々の自己が、自己を否定して普遍であり一である絶対無となるのである、ということの自覚なのである。このような仕組みにおいて、人間と絶対無つまり神とは同一であるとされるのであるが、この仕組みを西田は「逆対応」と呼んでおり、これこそが西田の宗教思想(一種の「万有在神論」とされる)の骨子なのである。西田の宗教思想は高く評価されており、西田の哲学は本質的に宗教哲学であるとさえ言われることもあるほどである。そして西田の宗教思想の集大成と言えるものが、最晩年期に書かれた論文「場所的論理と宗教的世界観」である。以下、この論文において「逆対応」の思想が西田自身によってどのようなものとして論じられているか、その大よそのところを見ておこう。
西田によれば、人間は自らの悪を徹底的に自覚した時、自らに絶望せざるを得ない。このような発想は親鸞の思想によるところが大きいのであるが、このような自覚、絶望を、西田は「永遠の死」と表現し、次のように論じる。
 
自己の永遠の死を自覚すると云うのは、我々の自己が絶対無限なるもの、すなわち絶対者に対する時であろう。絶対否定に面することによって、我々は自己の永遠の死を知るのである。

  すなわち、我々人間は自らの「永遠の死」に直面することによって、逆説的に「永遠無限なるもの」、「絶対者」と出会う、というのであり、つまり「自己を成り立たしめているもの」に出会う、ということである。「斯く自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本的理由であるのである」。そして、我々人間の自己を成り立たしめているもの、あるいは自己存在の根本理由、つまり絶対者を、西田は次のように表現している。

絶対者は何処までも我々の自己を包むものであるのである、何処までも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、何処までも追い、之を包むのであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。

  そして、先に「絶対矛盾的自己同一」について論じたところからもわかるように、このようなものとしての絶対者は、我々人間の自己を超えたものでありながら、我々にとって他者なのではない。
 
我々の自己の底にはどこまでも自己を越えたものがある、而もそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこに我々の自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処に迷う。而も我々の自己が何処までも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見出す所に、宗教的信仰と云うものが成立するのである。                   

このような逆対応の思想は、さきにも述べたように西田の宗教思想の骨子を成すものであり、たとえば我が国の西田研究の権威の一人である小坂国継氏は、西田の宗教思想、なかでもこの逆対応について、次のように解釈し、評価しておられる。

ところで、この宗教的意識は道徳的な自己が行きづまって自己崩壊するところにあらわれる。道徳的な自己は「悩める魂」であって、自己の良心に従おうとすればするほど自己の罪悪を意識せざるをえなくなる。そして、このような矛盾がその極限に達したとき、われわれの自己は一転して自己を放棄し、自己を否定する。また、この否定的転換によって、自己の根底を見、真の自己統一を得るのである。それが回心と呼ばれる体験である。/したがって、われわれはここにも否定の論理を見ることができる。われわれはどこまでも自己を主張し自己を肯定しようとして行きづまり、深い自己矛盾を経験し、その極限において、一転して自己を否定するに至り、そこで安心を得るのである。自己を否定することによって自己を肯定し、自己を放棄することによってかえって真の自己を獲得するのである。(『西田幾多郎の思想』、講談社、2002年)

 なるほど。しかし、宗教って、本当にそういうものなのかねぇ……。

 いや、このように言ったからといって、私は何も「逆対応」の思想を頭から否定するわけでもないし、小坂氏の解釈や評価に異議を唱えようというのでもない。ただ、このシリーズの第一回目に述べたように、「西田幾多郎、なんだい、バカバカしい」という「不良少年とキリスト」の中の安吾の言葉を前提として西田を読んでいる私としては、特に宗教にかんする話になると、西田の説くところを素直に読むことが出来ないのである(困ったもんですな)。「特に宗教に関する話になると」というのは、「不良少年とキリスト」は、安吾による太宰への言わば追悼文なのであるが、そこでは太宰が作品を書く上で、そしてより良く生きてゆこうとする上で、キリスト教という「宗教」を「ひきあいに出した」ことへの、安吾の否定的な考え方が展開されているからである。太宰がキリスト教に深い関心を抱いていたことは良く知られている。その影響は、たとえば「駆込み訴え」等の傑作に現われている。安吾が言うところの、キリスト教を「ひきあいに出した」とは、一方ではこのようにキリスト教を手掛かりとした作品を書いたということを意味するのであるが、他方で、より良く生きてゆこうとする上でキリスト教を「引き合いに出した」とは、どういうことか。

 ということで以下、「文学と哲学」のうち、主に「文学」のお話。

  「不良少年とキリスト」において、安吾は太宰が生前抱いていた苦悩を、「フツカヨイ的」な「自責や追悔の苦しさ、切なさ」と表現している。実際に、「フツカヨイ的」ということと関連して、たとえば太宰は生前、弟子の堤重久に次のように語っている。

酒をのんで、家に帰ると、バタリと倒れて寝ちまうんだが、夜中の三時頃になると、かならず眼がさめる。するとね、こし方、行末、ありとあらゆるいやなことがわッと集ってきてね、その苦しさ、やりきれなさはひどいもんなんだ。遠くで暮している、知人たちの苦悩まで、どっと胸に流れこんできてね。あれだけはかなわんよ。

  太宰がこのように苦しむ現場を実際に目撃した人物もいる。太宰と親交のあった元新潮社の編集者で『回想 太宰治』の著者、野原一夫である。野原は、『饗應夫人』のヒロインのモデルである画家の桜井浜江のアトリエに太宰と一緒に泊まった際の出来事について、書いている。

私は夜なかに眼がさめた。月の明るい晩で、アトリエの大きなガラス戸から月の光がさしこみ、そこ青白い光のなかで、横に寝ていた太宰さんはぱっちり目をあけて天井を見ていた。そのうち、目をつぶり、呻いた。腹の底からしぼり出されてくるような獣に似た呻き声だった。私はあわてて寝たふりをした。太宰さんは寝返りをうち、また寝返りをうち、また呻いた。

 さらに、太宰自身が自分のこのような苦しみを、作品の中に表現している。「母」の中に、次のような件(くだり)がある。

ふと、眼をさました。眼をさました、といっても、眼をひらいたのではない。眼をつぶったまま覚醒し、まず波の音が耳にはいり、ああここは、港町の小川君の家だ、ゆうべはずいぶんやっかいをかけたな、というところあたりから後悔がはじまり、身の行末も心細く胸がどきどきして来て、突然、二十年も昔の自分の奇妙にキザな振舞いの一つが、前後と何の聯関も無く、色あざやかに浮んで来て、きゃっと叫びたいくらいのたまらない気持になり、いかん! つまらん! など低く口に出して言ってみたりして、床の中で輾転しているのである。泥酔して寝ると、いつもきまって夜中に覚醒し、このようなやりきれない刑罰の二、三時間を神から与えられるのが、私のこれまでの、ならわしになっているのだ。 

 自分の過去の様々な行いが「罪」として自覚される、そして深夜に酔いから醒めた際に、そういった罪に対する「やりきれない刑罰」が「神から」与えられる。太宰のこのような経験は、親鸞あるいは西田に言わせれば自らの悪の徹底的な自覚であり、自らへの絶望であって、「永遠の死」の経験であると言えよう。また、小坂氏の言葉を援用すれば、このような状況における太宰はまさに「道徳的な自己」であり「悩める魂」なのであって、罪悪の意識から逃れられない太宰の道徳心は崩壊寸前、良心と罪悪感の矛盾はその極限に達しようとしていたと言えよう。太宰の場合も、そのような苦悩は宗教的意識となっていった。だからこそ、太宰はキリスト教に深い関心を抱いたのである。だが太宰にとってのキリスト教は、西田の言うところの「何処までも我々の自己を包むもの」だとか「無限の慈悲」といったものとの出会いを太宰にもたらしはしなかったし、太宰はキリスト教を通じて小坂氏の言うような「真の自己を獲得」することもなかった(いや、こちらの方はそうとも言い切れないところもあり……まぁ、詳細は追々)。なぜならば、太宰はキリスト教の教えを、端的に言えば、誤解していたからである。
 たとえば、菊田義孝は『太宰治と罪の問題』において、太宰のキリスト教理解について、それが誤解あるいは曲解であったことを、次のように論じている。すなわち、たとえば「如是我聞」において太宰は、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』といふ難題一つにかかっていると言ってもいいのである」と言っているが、そもそも「福音」は「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」ということを「難題」として人々に課しているのではない。そうではなくて、福音はそのような難題からの解放を人びとに伝えるものなのであると、菊田は言うのである。人々に難題を課すのは福音ではなくて、むしろ旧約的・ユダヤ教的な「律法」である。つまり菊田によれば、太宰は福音を律法として捉えてしまっていたということになるが、このことは実は太宰自身が認めていることである。

キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。しかし己を愛する如く隣人を愛するということは、とてもやり切れるものではないと、この頃つくづく考えてきました。人間はみな同じものだ。そういう思想はただ人を自殺にかり立てるだけのものではないでしょうか。/キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよという言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別の意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理窟です。(「わが半生を語る」)

 ここに引いた件を読むと、太宰にとっては生きてゆく上でキリスト教という宗教を「引き合いに出す」ことが、自らに救いをもたらすことではなくて、むしろ自殺に追い込むこととなってしまったということなのかもしれない、と思わざるを得ないが、その点については後に論じるとして、同様の誤解あるいは曲解は、「人間失格」にも表現されている。

自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。

  太宰のこのような福音への誤解あるいは曲解を、太宰の創作活動との関連で、さらには太宰の人間性との関連で、むしろ積極的に解釈しようとすることも可能ではあるかもしれない。たとえば菊田は、太宰があくまでも己れの努力によって「キリストの戒め」を満たそうとしたのであり、「純粋、無報酬の行為、全く利己の心の無い生活」を生きようとしたのであって、「神の罰は信じられても、神の愛は信じられない」ところに太宰の「限界」があったにしても、太宰はその「限界」を「完全にあらわし切って死んだ」のであるとして、次のように述べている。

彼はすすんで己の「身も霊魂もゲヘナにて滅す」まで、人間への愛を徹底させた。それを終生求めつつ、しかも神の義も愛もついには否定せざるを得なくなるまで、己れの「優しい心」に生きぬいた。そのことによって、彼はむしろ裏側から、まことの神の存在を証ししたといえないであろうか。自らをあくまで赦さず、赦されることをも拒否することによって、逆に聖書の証言する「福音」の真理を、現代の世界の中に浮び上がらせたといえないであろうか。彼は自由を持たなかった。それは彼が死に至るまで徹底して己れの義あるいは愛に忠実であったがためである。

 また、佐古純一郎は『太宰治におけるデカダンスの倫理』において次のように述べる。

聖書を律法的に受けとろうとすればするほど、私たちは、それを行いへない自己の弱さとみじめさに目ざめざるをえないであろう。しかしその場合、そのみじめさは、ただみじめさで終わるのではなくて、律法の前で正しき者でありえない自己として自らが自覚されてくる。それが罪への目ざめなのである。太宰はそういう苦しみを自らの中に苦悩として深めた人であった。

 太宰がこのように生き、そして死んでゆかざるを得なかったことについて、たとえば西田ならば、結局のところ、太宰は宗教というものの何たるかを理解していなかったせいだと評するであろうか。ところで西田の宗教思想において、絶対者すなわち神とは「絶対無」であった。つまり、それは何ら具体的なものでも実体的なものでもないのである。しかし、まさに西田自身も言っているように、人間が宗教に関心を抱かざるを得ないのは、人間がより良く生きてゆこうとするものであるからだと考えるならば、まさにより良く生きてゆくために、何らかの具体的なものや実体的なものを人間が求めてしまうとしても、それは仕方がないのではないだろうか。太宰について安吾は言う、「フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった」、「太宰は……本当に、つつましく、敬虔で、誠実であったのである。それだけ、内々の赤面逆上は、ひどかった筈だ」、「太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいい、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ」(「不良少年とキリスト」)。「よりよく生きる」ために、「よい人間」になるために、具体的・実体的に自らを律するものとして太宰にとってキリスト教の教えは「福音」ではなくて「律法」でなくてはならなかった、そう考えることは出来ないだろうか。

 
 さてさて、例によって諸事情につき今回はここまで。太宰の話、安吾の話、もうちょっと続けます。次回予告的にほんのちょっとだけお話すると……西田の言うところの「何処までも我々の自己を包むもの」だとか「無限の慈悲」といったものと出会えない場合、あるいは、小坂氏の言うように「真の自己を獲得」することも出来ない場合、人どうすればよいのだろうか。色々な可能性が考えられるであろう。たとえば、宗教的な関心そのものを放棄してニヒリスティックに生きてゆくということも考えられよう(実は、太宰にはそういう傾向もあった)。だが、それとは真逆の可能性もある。それは自分自身が「無限の慈悲」をもった者になろうとすること、「真の自己」を自分自身で作り上げようとすることであり、最終的に太宰はそういった方向に向かったのであると、私は考えているのである。

2015年5月26日火曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 5

「全ての人間がワニに喰われる川」


  先日、こんな夢を見た。
 机の上に新聞が置いてある。その一面には大きな写真。川の中に、何頭もの大きなワニがいる。私は全く記事を読まずにその写真だけを見て、よくある動物愛護だの環境保護だのを訴える記事だろうと思った。だがその写真をながめていて奇妙なことに気付く。川の中、たくさんのワニとワニの間、白く光るものがいくつもある。その光るものは、大きさも、発する光の強さも、まちまちだ。なんだろうと思って、新聞を手に取ってよく見てみると……
 人間の顔だ。
 白く光る人間の顔が、頭部が、川の底から浮かび上がってきている。大きさや発する光の強さがまちまちなのは、川面からの距離、つまり、川底からどのくらい浮かび上がって来ているかによる違いらしい。「なんだこりゃ!?」、驚いた私はその写真の解説記事を読んでみた。記事によると、ある国(南米だかアフリカだか東南アジアだかオセアニアだか、その辺はわからない。とにかく、野生のワニがいそうな国)では、いまだに、人喰いワニを使った残虐な処刑が行われているとのこと。その記事を読んだ瞬間、夢の中の場面は、今まさに処刑が行われている場面へと移る。
私の目の前には、巨大なワニがウヨウヨいる川、そして川岸には、老若男女、未開人風の格好をしたたくさんの人々が、やはり未開人風の格好をした人々に取り押さえられて、川に突き落とされる順番を待っている。突き落された人々は、即座にワニに喰われ、喰われた人々の頭部が、ゆっくりと川面に浮かび上がってくる。延々と続くそんな場面を、非常に嫌な気分で私は眺めている。夢のありがちな展開としては、次はいよいよ自分が突き落される番だ、あるいは突き落されていよいよワニに食われる、というところで目が覚める、といったところであろうが、この夢の場合にはそんなことはなく、私はただ、川で展開される光景を見続けるだけで、嫌な気分がおそらくは頂点に達したところで、目が覚めた。

なんでこんな夢を見たのか、実は自分ではよくわかっている。最近、西田の「場所」だの「絶対無」だのといった概念について、毎日悩んでいるからだ。その悩みが反映されて、この夢では西田の哲学の概念が、実に様々なイメージとなって現われているようだ。
 まず、私はこの夢を、新聞という、おそらくは様々なイメージの充満した場所に於いて知る。そして次に夢の内容。川に突き落とされた人々が次々とワニに喰われてゆく、つまり、「無」になってゆく。西田の用語で言えば、この川は私にとっての「絶対無」のイメージ、ということなのであろう。『精神現象学』においてヘーゲルはシェリングの思想を「全ての牛が黒くなる闇夜」と表現しているが、私にとっての西田哲学とは「全ての人間がワニに喰われる川」ということになろうか。ところで人間が無になってゆくと言えば、私が安吾の作品の中で特に好きな二つの小説の最後で、いずれの主人公も「無」になってゆく。 
 一つは「桜の森の満開の下」。

彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 そしてもう一つは、「紫大納言」。

大納言は、てのひらに水をすくい、がつがつと、それを一気に飲もうとして、顔をよせた。と、彼のからだは、わがてのひらの水の中へ、頭を先にするりとばかりすべりこみ、そこに溢れるただ一掬の水となり、せせらぎへ、ばちゃりと落ちて、流れてしまった。

 これらの二つの場面と私の夢との違いは、私の夢の中では川に浮かび上がってくる顔、頭部が、川というこれもまた象徴に満ちた場所からの再生をイメージさせるということ、また、これら二つの場面を読んで読者が抱く感情は「哀しさ」や「切なさ」といったものであろうが、私が夢の中で感じたのは「嫌な感じ」、つまり何とも言えない嫌悪感だったとうこと、この二つだろうか。
 前者については、西田が「場所」について、経験や自覚や意志の働きがそこに於いて生じる、さらに一般的にいえば、一切の作用や存在を自己の内に於いて成立させ包み込んでいる、としているところから生じたイメージであろう。そしてごく簡単に言ってしまえば、そのようなものとしての場所の根底にあるものが「絶対無」である。だから、「絶対の無」といっても、消滅ということよりもむしろ生成の場所として西田は論じている(と、少なくとも私はそう考えている)のだが、「無」しかも「絶対の無」という言葉は、私にとってはたとえば「無に帰する」といったイメージを喚起するものらしい。私の夢の中でも、ご丁寧におそらくは再生のイメージとしてワニに喰われた人たちの顔や頭部が川面に浮かび上がってくるのであり、それは上に引いた安吾の描写のように「哀しさ」や「切なさ」を感じさせるものではないはずだし、ましてや「嫌な感じ」を抱かせるものではないはずである。ではなぜ私は「嫌な感じ」を、何とも言えない嫌悪感を抱いたのであろうか。
 ところで、上に引いた安吾の二つの作品の結末の描写を読んで、読者が「哀しさ」や「切なさ」を感じる理由として、それは読者が良くも悪くもある程度は感情移入をしてきた小説の主人公が、様々な台詞や行為を通じて読者が共感や反発を感じてきた主人公が、最後に「無」となってしまうということも大きいであろう。そして主人公と言えば、我々人間は誰もが、自分の思考や認識や行為の「主体 subject」として、自分の人生の主人公である、少なくとも通常はそう思っている。ところが西田の思想においては、我々は「主体」としてのsubjectではなく、我々自身を超えて我々自身を成立させて包み込んでいるものの「臣下」あるいは支配の「対象」としてのsubjectであるに過ぎないとされてしまう、どうやら私は、自分では意識せずに、そのように感じているようだ。そして私は主体性を失ってしまうことに対して、何とも言えない嫌悪感を抱いているのではないだろうか。それはつまり、私が自分では意識しないままに近代人として、たとえばデカルトのコギトに代表されるような近代的主体として生きている、ということであろう。こんなことを言うと「何を当り前のことを」と思われるかもしれないが、若いころに散々、「コギト批判」だの「ロゴス中心主義批判」だのといった「現代思想」に親しんできた身としては、実は結構なショックである。それに、人間というものは「当たり前のこと」の真相を知ることに対して嫌悪感を抱くものなのかもしれない(思わせぶりな言い方をして申し訳ない。ただ、フロイトがデカルトの見た奇妙な夢の解釈を拒否したというエピソードを、なんとなく思い出しまして……でも、これにかんしては今ちょっと詳しくは論じられないので、いつか別の機会に。また、二つの物語の最後に主人公を「無」とした安吾ですが、安吾自身は、薬物中毒と鬱病が原因で東大医学部附属病院神経科に入院した当初は、持続睡眠療法を受けることを拒否したのでした。睡眠中に自分の主体性が失われることを怖れたのだと言っていいてしょう。これについても詳しくはいつか別の機会に。)。

さて、西田の哲学についての私の誤った夢の話と、その誤った夢をめぐって私が抱いた誤った印象についての話はこのくらいにして(まぁ、誤ってるんでしょうけど、どうぞご勘弁を。何しろ、たかが夢から始まった話なので)、以下、この夢を題材にして「私」というものについて考えてみたい。というのは、西田は「私」を「場所」であると言っている、事物や出来事が「そこに於いてある場所」であると言っているからである。
 私が見たこの夢をめぐって、三つの「私」というものを想定できるのではないだろうか。すなわち、「新聞に載っている写真を見て、それから川に突き落とされた人々が次々とワニに食われてゆくのを見ている私」(「私1」)、「『嫌な気分』に耐えられなくなった私」(「私1↔2」)、「目覚めた私」(私2)。「私1」は完全に夢の中にいる私、「私2」は現実の私、つまり、「夢の世界の反対」という意味での「現実の世界」に生きている私である。ところで、「私1↔2」がよく分らないという人も、おそらくいるであろう(実は私もよく分っていない。「無知の自覚」!)。だが、嫌な気分を感じたのは「私1」なのだろうか「私2」なのだろうかと考えると、これがなかなか難しいようだ。というのは一方で、「嫌な気分」は目の前で展開されている場面を見ることによって引き起こされたのだから、「嫌な気分」を抱いたのは目の前で展開されている場面を見た私、つまり「私1」である、と言える。だが他方で、「嫌な気分」に耐えられなくて目覚めたのは、つまり、夢の世界から現実の世界に「戻ってきた」のは、現実の世界の住人である「私2」なのであるから、「嫌な気分」を抱いたのは「私2」であるとも言える。つまり、「私1↔2」というものは、「私1」と「私2」という二人の私にまたがる「私」なのである。そしてさらに言えば「私1」と「私2」は「私1↔2」に「於いて」ある、つまり西田的に言えば、「私1」と「私2」は「私1↔2」という「場所」の「自己限定」によって現われた「私」なのである……と、そうは言えないだろうか。「一即多・多即一」、「絶対矛盾的自己同一」、あるいは鈴木大拙の言う「般若即非の論理」、つまり、一はどこまでも一でありながら、同時に自己否定的に多である、また、多はどこまでも多でありながら、同時に自己否定的に一である……「私12」は「私12」としてどこまでも「私」として一でありながら、同時に自己否定的に「私1」および「私2」として多である。また、「私1」および「私2」はどこまでも多でありながら、同時に自己否定的に「私12」として一である。そしてさらに言えば、私がある場面を夢だと判断するか現実だと判断するか、そういった判断をする私は、言わば夢も現実も超えているのである……と、そうも言えないだろうか。
 こんなことを言うとただちに、たとえば、夢の中で自分が「夢を見ている」ということを意識することは可能なのだろうかという疑問が生じるかもしれない。でもね、可能でしょ?だって実際に、夢を見ながら、その夢の中で「これは夢だ」ってことが分っているという状況、誰でも経験あるでしょ?つまり、今現在の「私」が「私1」であるのか「私2」であるのか、それを判断することが「私」には出来るのであり、それが「私1↔2」だと、私は言いたいのである(こうやって事実を引き合いに出して説明されても、釈然としないという方も多いかもしれません。お気持ちはよくわかります。いや、実は私もそうなんです。しかしそれはようするに、夢というもの自体が、そもそもよく分らんものなので、とりあえずは仕方がない、ということで……)。だがもちろん、こう言われた途端に新たな疑問が生まれてくるであろう。たとえば、そういった判断が可能だとしても、なぜ人はそもそもそんな判断をしようとするのか、それを説明することは可能なのだろうか、つまりより一般的に言えば、なぜ人はそもそも何かをしようという意志を抱くのかということを説明することが出来るのだろうか、そういう疑問が生まれてくるかもしれない(「たとえば」とかさらっと言っておきながら大問題ですいません)。何やら西田の哲学を超えて、行為と動機だとか行為と意志だとかいった問題に発展しそうだが、この疑問については、永井均氏が、もしかしたらヒントになるかもしれないようなことを書いておられる(『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』、2006年、NHK出版)。
 永井氏は「雷鳴が響き渡っている」という事態を例にして論じる。すなわち、「私は雷鳴を聞いている」(主語的統一)と言えるに先立って、まずはまさに「雷鳴が響き渡っている」という事態そのものがなければならないのであり、それを表現するならば「雷鳴が響き渡っている─取り立てて言うなら私に於いて」(述語的統一)ということになるであろうと言うのである。

この「取り立てて言う」ことがすなわち(場所の)「自覚」で、(中略)それが「取り立てて言う」ことであることからもわかるように、もし取り立てて言われなければ、私など存在しない(無である)……。

 また西田の言う、「私」が事物や出来事が「於いてある場所」であるということいついて、次のように言われる。

これは、判断論の見地から言い換えるなら、私とは述語となって主語とはならないものだ、ということであり、さらに言い換えるなら、それに対してはさらに述語を付け加えることができない絶対無の場所であるということである。/述語となって主語とならないということは、言い換えれば、対象化されないということである。

 話をちょっと元に戻す。「私1」も「私2」も、「私1↔2」によって「対象化」されている。そして永井氏によれば、なぜ「私1↔2」がそのような対象化を行うかと言えば、そもそも対象化とは「取り立てて言う」という作業であるにすぎないということになるのであろう。そして「私1↔2」もまた、まさに「ここで論じられている」、つまり対象化されている。だから「私1↔2」を対象化する、さらに深い「私」=「場所」がなければならないということになろう。さて、そのさらに深い「私」=「場所」は、なぜ「私1↔2」を対象化するのであろうか(一応お断りしておく。「私1↔2」がまさに「ここで論じられている」、つまり対象化されているのは、今現にこの文章を書いている「私」が「論じている」、つまり対象化しているのであって、「今そこにいるお前で止まるじゃないか!」と思う方もいらっしゃるかもしれない。でもその発想においては、「今現にこの文章を書いている私」が対象化されているということなのである。つまり、そういう方向で考えると、延々と続いてしまうわけですね。実際に私を知っているそこのあなた、嫌でしょ?私が延々と現れたら……)。そこに何らかの動機や意志といったものを想定することは、おそらく永井氏的な方向ではないのであろう。だが、私はどうしてもそういった方向で考えてしまう。こう言うと何やら宗教じみた話になってくるが、実際に、西田自身が「絶対無の自覚」を「宗教的意識」と呼んでいるので、そういった方向で考えるのもとりあえず間違いではないのであろう。「幾千年来我らの祖先を孚み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものが潜んでいるのではなかろうか。我々の心はかくのごときものを求めてやまない……」(『働くものから見るものへ』)。「かくのごときものを求めてやまない」、「我々」とは誰のことなのか、そして、なぜ「求めてやまない」のか。
私の「私」の話に戻る。先にも述べたように、「私1↔2」が自己を限定して、一方では「夢の中の私」つまり「私1」として現われ、他方では「現実の中の私」つまり「私2」として現われる。さて、どちらとして自己を限定し、あるいは現われるのか、「私1↔2」は、それを自由に決めることは出来るのだろうか?永井氏の表現をお借りすれば、「私1↔2」はどこまで自由に自らを対象化できるのだろうか、あるいは「取り立てて言う」ことが出来るのであろうか?ところで、このシリーズのテーマは「文学と哲学」である。だから、夢を小説作品と置き換えてみよう。作家は小説を自由に書けるのだろうか。「またまたそんな当たり前のことを思わせぶりに……」などと思ってしまったそこのあなた、ごめんなさい。だが、もちろん大真面目である。小説を書くということは、実は非常に不自由な営みなのではないかと、私は思っているのです。

さて、「エッセイ」=「試み」の末に今回見出された課題。まず、「場所」や「絶対無」は、動機や意志の問題、つまり、文学にしろ哲学にしろ、考えたり書いたりすることの起源の問題と結びつくのであり、それはやはり、純粋経験や直接経験の問題にも結びつくであろう(起源の問題と言えば、今回最初の方で「哀しさ」や「切なさ」や「何とも言えない嫌悪感」といったことに触れたが、こういった「気分」の問題は、西田が哲学の動機とした「悲哀」の問題とも結びつく。そして文学の起源における「気分」については安吾も論じている。「文学のふるさと」である。「ふるさと」についての安吾の議論は、まさに「起源」の問題についての議論である)。また他方で、「私」の「自己限定」がどのように決まるのかという問いについて考えるためには、『働くものから見るものへ』以降の議論を追わなければならない。そしてさらに、この両側面を総合的に考えることは、初期西田の思想から「西田哲学」への思索の深まりを追う作業となるであろう。近々、本格的に始めますよ、近々、ね。でもその前にもうちょっと、あちらこちら寄り道。あちらこちら命がけで、寄り道。

 

2015年5月20日水曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 4


個人と歴史と、あるいは、歴史と個人と。

 

 さて、行為的直観、である。

我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する、それが行為的直観である。(「行為的直観の立場」)

  ここで単純に、「行為すること」を「働くこと」、「見ること」を「認識すること」とすれば、ここに引用した言葉からわかることは、「働くこと」が「認識すること」に先立つということであって、だから「働きの主体」である「身体」が問題になる。
 そして身体について、西田は述べる。

我々が行動するというには、我々は欲求を有たなければならない。欲求は何処から起るか。欲求というのは、唯意識から起るのではない。それは我々の身体の底から起るものでなければならぬ。無論、欲求というのは意識的でなければならない。しかし意識あって身体あるのでなく、身体あって意識があるのである。而して身体もまた歴史的に形成せられたものでなければならない。唯、我々の身体というのは、単に生物的身体ではない。人間の身体は歴史的身体でなければならない。故に意識的であるのである。意識というのは、我々の身体を越えたもの、或いは離れたものと考えられるかも知らぬが、意識は何処までも我々の身体的自己の自己肯定でなければならない。                          
                             (「論理と生命」)

私が此に身体というのは単に生物的身体をいうのでなく、表現作用的身体をいうのである、歴史的身体を意味するのである。(「行為的直観の立場」)

  また、行為する、つまり「働く」ということについては、「実践ということは、制作ということでなければならない」としたうえで、次のように言っている。

我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。
                           (「実践と対象認識」)

 西田のこのような言葉を承けて、藤田正勝氏は行為的直観を四つ要素の連関として説明している(『西田幾多郎 生きることと哲学』、岩波書店)。すなわち第一に、我々の身体から欲求が生じるがゆえに、我々に対して様々な物が、我々の欲求に応じるものとして現われてくる、つまり、言わば「表現的に」立ち現われてくる。そして第二に、表現的に立ち現われる物に対応して、我々の行為が呼び起こされる。さらに第三に、上に「実践と対象認識」から引いた文章において言われているように、「我々が働くということ」すなわち行為とは「物を作るということ」つまり「制作」である。そして最後に、我々は自らが作ったものを「見る」のであり、ここに「行為的直観」すなわち「行為によって物を見る」ということが成立するのである。そして、このようなことは我々の身体を通じて成立するのであるが、身体から欲求が生じるのは物が我々に対して「表現的に」立ち現われてくるからであり(あるいはその逆に、物が我々に対して「表現的に」立ち現れて来るから我々はその物に対して欲求を抱くのか、はたまた物が我々に対して「表現的に」立ち現れて来ることと我々がその物に対して欲求を抱くこととは同じ出来事の二つの側面ということなのか……この辺についてはとりあえず置いておく)、また、我々が身体を通じて何かを制作するということは、身体を通じて何かを「表現する」ことなのであるから、行為的直観において我々の身体は「表現的身体」であるとされるのである。さらに、西田がたとえば「人間的存在」において「バラスト」、つまり船が安定を保つために船底に積む砂・砂利などの重量物にたとえて論じているように、我々の身体はそれを現にあるようにした歴史を、言わば重荷を抱えこむかのように、前提として成り立っているのである。だから我々の身体は「歴史的身体」なのであって、我々の行為は歴史と無縁であることは出来ないのであるが、同時にまた、我々の行為を通じて歴史が形成されてゆく、つまり「歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現する」のであって「歴史的世界は我々の身体によって自己自身を形成するのである」のである(「論理と生命」)。
 以上のような議論が、「行為的直観」では、弁証法的運動として端的に次のようにまとめられて論じられている。

作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものということそのことが、否定されるべきものであることを含んでいるのである。しかし作られたものなくして作るものがあるのではなく、作るものはまた作られたものとして作るものを作って行く。これが歴史的実在の弁証法的運動である。

 
 さて、前回の最後に私は、「教祖の文学」で述べられている安吾の作家論が西田の「行為的直観」の概念を連想させる、と書いた。「連想」させるということは、たとえば安吾の作家論によって行為的直観の概念が完全に理解できるとか、あるいは逆に行為的直観の概念によって安吾の作家論が完全に理解できるとかいうことでは、もちろんない。似ていると思われる部分があると同時に、やはり相容れないのではないかと思われる部分もある。以下、とりあえず前者について見てゆこう。

 
小説は(芸術は)自我の発見だという。自我の創造だという。(中略)本当の小説というものは、それを書き終るときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ……。(「教祖の文学」)

  「自我を創造し、自我を発見する」とは、まさに小説の創作という「働き」あるいは「行為」の後に、創作された小説において小説家が自分自身を「見る」あるいは「認識」するということなのであり、小説家にとって小説を書くということはまさに「行為的直観」であると言えよう。そして言うまでもなく、小説を「書く」ということは身体的な営みなのであり、また、人間に特有の言語的営みなのであって、小説を書くという身体的な営みにおいてまさに人間の進化の「歴史」が「表現」されているのである。そしてこの歴史や表現は、小説の創作においてはまず作家個人の次元で問題となる。

自分というものをある限度まで知悉しない人間が、小説を書ける筈のものではない。一応自分というもの、又、人間というものに通じていなくて、小説の書けるわけはないのだ。尚、そのうえに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら、作家というものは、今ある限度、限定に対して堪え得ないということが、作家活動の原動力でもあるからだ。

 小説を創作するに先立ち、作家は「自分というもの」に通じている、つまり作家は個人としての自分が何者かということをある程度は把握しているのであり、また同時に「人間というもの」にも通じている、つまり進化の歴史の先端にあるものとしての自分をも含めて、人間というものについてもある程度は把握している、ということになろう。そして「ある程度」が「限度」として感じられた時、すなわち「ある程度」までしか把握出来ていないということが「堪え得ない」と感じられた時、そこに「作家活動の原動力」が、つまり小説を創作することへの欲求が生まれる、ということになろう。つまり、自分というものを「認識」することが自分というものを「表現」することへと向かわせるのであるが、そのようにして表現されたものは自分というものについての新たな認識をもたらすのであって、小説の創造もやはり弁証法的運動なのである。小説家というものは「常に一つの作品を書き終ったところから、新らたに出発する」、「一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己叛逆を起す」、そして「ふみとどまった時には作家活動は終り」なのである。ところで西田は、認識と表現について、次のように言っている。

対象認識ということは実在を映すということではなくして、表現作用的に表現することである。描き出されるものは、固定せる死物ではなくして、何処までも生きたものでなければならない。歴史的生命でなければならない。描き出されたものは、実在の影像ではなくして、生命の表現でなければならない。そこに知識の客観性があるのである。(「実践と対象認識」)

 作家が創造された小説において新たに見出された「限界」に「ふみとどまった時には作家活動は終り」であるということは、その作家にとってその作品は、さらに言えばその後に書かれた作品であってもそれがその作家の限界を越えるものでないならば、それらは「固定せる死物」であるということになろう。小説の創造は弁証法的運動であってはじめて「何処までも生きたもの」であり「歴史的生命」を保つのであって、そこに描き出されるものが「生命の表現」となるのである。
 このように見てみると、安吾の作家論あるいは創作論と西田の行為的直観の概念とは、非常に近いものを感じさせる。安吾が小林を気に食わなかったのは、前回も見たように、小林が安吾の言うところの「型」を通じてしか物や人間をとらえられなくなったからであり、それらは安吾に言わせれば「死んだ」物であり「死んだ」人間なのであった。安吾が小林を批判する際に用いる「型」や「公式」や「約束」という表現は固定された状態を連想させるものであり、だから西田の言葉で表現すれば小林がとらえていたものは「固定せる死物」であったとも言えよう。このように考えると、前回の「安吾vs西田・小林」という見方ではなくて「安吾・西田vs小林」という見方も出来るように思えてくる。しかしやはり、安吾と西田とではどうにも考え方が相容れないのではないか側面もある。それは、「歴史」というもののとらえ方である。ここで安吾の歴史観を確認しておこう。
 
生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まったく分らないのだ。現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だって生きてる時はそうだったのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などというものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。ただ歴史はすでに終っており、歴史の中の人間はもはや何事を行うこともできないだけで、然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫っていたのは、彼らが人間であった限り、まちがいはない。

 つまり一人の人間の個人的な歴史においても、人間全体の歴史においても、いずれにせよ「生きた人間」の営みから成り立っている、あるいは成り立っていた以上、「現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道」はない、これが安吾の基本認識である(安吾に言わせれば、小林は「型」を通じて無理矢理にそうした「必然の筋道」を「鑑賞」の対象として見出し続けた、ということになろう)。西田の表現で言いかえれば、「作られたもの」から「作るもの」へというプロセスには、それらは連続するにせよ、その連続は「必然の筋道」をたどるものではない、ということになろう。さらに安吾は、「必然の筋道」があったらそもそも文学は必要ないとまで言い切る。

人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのじゃないか。歴史の必然などという、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪えたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。

 だからたとえば、「行為的直観」において西田の言う「作られたものから作るものへという所に、因果的必然がある」だとか「我々の身体というものは歴史的に作られたものである。何処までも決定せられたものである」だとかいう考え方は、安吾にはとうてい受け入れられるものではない、ということになりそうだ。だが、完全にそうだと言えるだろうか。くり返しになるが、西田は確かに「作られたものから作るものへという所に、因果的必然がある」と言ってはいるがその逆は言っていない、つまり、「作るものから作られたものへという所」に因果的必然性があるとは言っていないし、また、「我々の身体というものは歴史的に作られたものである。何処までも決定せられたものである」と言った後に「しかしまた作るものである」とつけ加えている。だから西田の考え方は「現在こうだから次にはこうやるだろうという必然の筋道は生きた人間にはない」という安吾の考え方に近いとも言えそうだ。いずれにせよ、これから創作を開始しようとする人間を中心とした考え方である、つまり安吾の場合には「今ある限度、限定に対して堪え得ない」作家を中心とした、西田の場合には「作るもの」を中心とした、考え方であることは間違いない。その点と関連して、私は西田の「個性」についての考え方に注目したい(なお「個性」と先に見た「バラスト」との関連も論じたいところだがそれに関してはまた別の機会に)。

我々人間が行為的直観的に物を見るということは、その根柢において我々は個性的に自己自身を構成し行く世界の個性的要素として物を見ることである。個性的なるものを媒介として物を見ることである。(「行為的直観」)

歴史的・社会的個としての我々の行為は、表現的でなければならない。表現作用ならざる個性的作用というものはない。(同書)

 また、個性ということが、我々人間の側からだけでなく、世界の側から、歴史の側からも論じられる。

私のメタモルフォーゼというのは、かかる個性的なものから個性的なものへの動きをいうのである。世界が個性的に自己自身を構成すると考えられる所に、文化が現れる。文化とは、自己自身を限定する世界の個性的内容である。そこには世界歴史的なるものが働くのである。(同書)

 ここでまた安吾の言葉を見てみよう。次の文章中の「万人のもの」と「芸術」を、西田の言う「文化」と置き換えてみると、安吾と西田の違いがよく分るのではないだろうか。

物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。

 つまり、西田と比較した場合、安吾には個人を超えた歴史という観点が欠けていた、ということになろうか。そういうことにして片付けてしまってもいいのかもしれない。だが私はどうしても、そう片付けてしまっただけでは何やら割り切れないものを感じてしまう。というのは一方で、太平洋戦争後に安吾を一躍有名にした「堕落論」は、ある意味で個人を超えた歴史についての議論が展開されたものなのであるが、やはり安吾の歴史観が西田のそれと異なる理由として、原爆投下いう未曽有の殺戮とあまりにも無残な敗戦という事実があるのではないかと、私は思うのである(西田はどちらにも立ち会うことなく亡くなった)。また他方で、そういった外的な事情とは別に、二人の「動機」における類似性とその後の方向の違いという、内在的な観点からも考えてみたい。すなわち、良く知られているように、西田は哲学の動機が人間の「深い悲哀」になければならないとしたのであり、また安吾の文学の動機は「人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなってしまうのだから」という人間観であったと言ってよいであろうが、このように似た動機から出発しながらも、言うまでもなく西田は哲学に向かい、安吾は文学へ向かったのである(もっとも、西田は歌を愛し、多くの作品を残しているという点も興味深い)。
 以上、「試み」の末に、「エッセイ」の最後に、またしても大きな問題に出会ってしまったところで、今回はここまで。

 ところで……今回から仮名遣いを現代仮名遣いに直してみました。いかがでしょう?

 

2015年5月19日火曜日

ローカルな、あまりにローカルな。

 最近、なんだかすっかり西田ばっかりでちょっと疲れてきたので(というか、「文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─」というタイトルが三つも並んでいるのを見て気持ち悪くなったので……苦笑)、今回は違う話題を。まずは引用から。

 

これまで、本来の意味での「南北の対話」はまったくなかったし、北(西欧諸国)が新しい基礎と、新しいメンタリティにもとづいて、南と対話しようとしたこともなかった。というのも一方通行のものは「対話」ではないからであり、南は北の言語によって語ることを強いられてきたからである。自分たち南方人は北の言語、文化、音楽、料理などを学び、それらに親しむ努力をしてきた上で、植民地主義からの独立や解放のために戦ってきた世代である。だが、われわれの世代に失望している南の新しい世代は、もはや北に対してコンプレックスを持っていない。真の革命は精神的な革命でなければならない。もしも北が世界の問題をあくまで西欧的価値にのっとって考え続けるならば、南はイスラム原理主義のような運動に訴えざるを得ないだろう。現在、世界中には106000万のイスラム教徒がいるが、35年後にはこの地球上の3分の1は、イスラム教徒になるだろう。それは勢力をなし、しかも増えていかざるを得ないのである。

 

中村雄二郎氏『宗教とはなにか とくに日本人にとって』(2003年、岩波書店)の中の文章であり、氏の友人でありモロッコ王立アカデミーの主要メンバーであるマーディ・エルマンジャラ氏が書いた「南北の溝」という文章の、邦訳である。中村氏のこの本自体はもうずいぶん前に読んでいたのだが、今回、西田幾多郎の哲学について考えるにあたって、日本人の宗教観といったものについてもあらためて考える必要性を痛感して読み直していたところ、出会った文章である。19915月に『フューチュリブル』という雑誌に掲載されたそうだが……さて、この文章が発表されてから24年後の現在、世界全体のイスラム人口は15.7億人、地球上の人口の4分の1弱の22.9%を占めているとも言われている。あと11年後にはエルマンジャラ氏の予測の通りにこの数字は増え続けるのかどうか。少なくとも、ある種の日本の経済学者が毎年書いている、たとえば、やれ『2014年世界大恐慌がやってくる!』だとか、やれ『2015年日本経済総崩れ!』だとか、そういう「ノストラダムスの大予言」的な予測なんかよりは、はるか~~~に信憑性があるのではないかと思います(というよりも、そういった類の本と比較すること自体、エルマンジャラ氏に失礼かもしれませんが)。

この文章中のエルマンジャラ氏の予測にかんして、リアリティを感じさせるのはイスラム教徒の人口推移についてだけではない。「われわれの世代に失望している南の新しい世代は、もはや北に対してコンプレックスを持っていない。真の革命は精神的な革命でなければならない」、この件(くだり)など、まさにISILの台頭を予測していたかのようではないか。その上で、ふと気になったのだが、エルマンジャラ氏のこの文章をはじめ、イスラム教徒の人々の言葉は、西欧諸国ではどのくらい真剣に受け止められてきたのだろうか?恐らく、「世界の問題をあくまで西欧的価値にのっとって考え続ける」人々は強く反発してきたか、あるいは明確に無視してきたであろうし、そうでない人々もいわゆるポリティカル・コレクトネスな表現でもってやんわりと受け流してきたのだろうと、そんな気がする。つまり、アレオパゴスでのパウロのような扱いを受けてきたのではなかろうか、と(「使徒言行録」17.16-33)。

……。

……。

……。

いや、今、ですね、「ここで私の言う『西欧諸国』には、価値観を共有しているという意味では日本も含まれる」と書こうとして、ちょっと考え込んでしまいました。いや、西欧諸国に日本が含まれるかどうか、ということについて悩んだわけではない。日本では、なんというか、反発や無視で応じるにしろ、ポリティカル・コレクトネスで応じるにしろ、そういう応じ方とは全く異質な応じ方がされているように思えて仕方がないのである。ちなみに、今さっき調べてみたところ、マーディ・エルマンジャラ氏の名前は「マフディ・エルマンジュラ」と表記されて、2000年代初頭に日本でも何冊か翻訳が出版されているようだ。だからエルマンジャラ氏の主張について、もしかしたら知っている日本人は少なくないのかもしれない(私が2000年代初頭に翻訳が出ていたことを知らなかったのは……仕方ないじゃないっすか!?絶対者だの現実性だの人格性だの、ヘーゲルで頭が一杯だったんすよ、当時は!……と、一応言い訳をしておく)。だが、問題はそういったことではない。たとえば、反発や無視といった姿勢で応じるにせよ、そこには少なくとも「他者」というものに対する意識がある。たとえそれが「他者」を「同一性」へと取り込もうという暴力的な姿勢であるにせよ(念のため言っておくが、私が言っているのはイスラム教徒の側の暴力ではない。そもそもイスラム教徒の側からの暴力を惹起した「北」の「暴力」である)。少なくとも「他者」というものに対する意識があれば、「この人たちは我々がきちんと聞かなければならないことを言っていて、しかもそれはとても大切なことなのかもしれない」といった姿勢に立つ可能性も開かれているのであって、それこそ「使徒言行録」(17.34)のようなこと、あるいはそれに近いようなことも起こり得るからだ。だが、日本の場合には、どうだろう。

たとえば、シャルリー・エブドの諷刺画やISILによる人質問題等、イスラム教徒のことが話題になった際、どれだけ「他者」ということが日本人の意識に上っただろうか。私は決して海外のジャーナリズムに詳しいわけではない。しかし、私がどうにも変だと思ってしまうのは、日本でイスラム教徒について論じられる際、ジャーナリズムの表舞台に登場する知識人が、そもそも日本人ばかりだということである。池上彰氏だの佐藤優氏だの、内田樹先生もそうかな。で、日本人であっても、イスラム教の立場の人、あるいはイスラム教に近い立場の人たちは、あっと言う間に退場させられる。そして、日本人の知識人たちが何を語るのかというと……要するに、日本について語るだけなのだ。人質問題での日本政府の対応がどうのこうのと、場当たり的な対応についての場当たり的な議論が盛り上がる、まぁ、それは仕方がない。私が地味に問題だと思うのは、たとえば池上氏や佐藤氏が、世界における宗教の分布だとか力関係だとか、その中でのイスラム教の位置づけだとかを論じて、そして最終的には、日本がその中で取るべき立ち位置のようなことについて論じる、結局それだけなのだ。そしてさらに、私がそういう議論の怖いところだと思うのは、そういう議論って、「いや~イスラム教徒って怖いですね」とか「イスラム教徒を怒らせてはいけませんね」とか、時には暗に時には明に、そういう誤解や偏見を伝えてしまう、ということだ。いや、特に佐藤優氏については、凡庸な知識人と同列に論じてはいけないとは思う。佐藤氏ご自身が学生時代に宗教を深く学んだ方で、イスラム教について論じる場合にも宗教の本質的なところから話を始めて、しかも宗教としての(「政治勢力としての」ではない!)イスラム教については、むしろ誤解を解くための大変丁寧な議論を展開なさっているので。しかし一般的に言えば、特に日本のジャーナリズムの世界では、知識人がどうしようもなく偏った見解を述べることが期待される傾向は、やはりあると思う。そしてそういった見解が、日本の知識人にフィードバックされて……。たとえば実際にこんなことがあった。私がある大学で担当している宗教の授業で、ちょうどイスラム教が話題になった時期に、イスラム教に対する誤解や偏見を解くための話をしたところ、学生から「他の先生が『イスラム教は怖い宗教だ』とか『イスラム教徒には気を付けろ』とか言ってるけど、先生(私のこと)の話を聞いて偏見だってわかりました」とかいう感想が寄せられた。まったく、文字通り頭を抱えてしまった。つまり、何が問題かと言うと、世界規模で大問題となっていることであっても、日本ではどうしようもなくローカルな問題に変換されて論じられてしまう、ということである。

問題はイスラム教についてだけではない。たとえば、シャルリー・エブドの諷刺画に端を発してヨーロッパがテロの危機に襲われた際、表現の自由を支持する人々によって「Je suis Charlie」というスローガンが掲げられた。で、それをもじって日本のテレビ番組のコメンテーターが「I’m not Abe.」とか言い出した。いや、これは、なんと言うか……一応英語で言われてはいる、だが、この意味が通じるのは、日本だけであろう、多分。日本や日本語のことなんか何もしらない外国人には、一体何を言っているのやら全くわからないだろうし、多少知的な外国人であっても、そうだな、たとえば……「なに?『私はABEではない』?ふむふむ。ところで『ABE』ってなんだ?冠詞がついてないから、固有名詞だな?で、前置詞もないから地名ではないな?ってことは……わかった!人の名前だな!?そうかそうか!君は『エイブ』って名前じゃ、ないんだね?わかったよ、じゃ、なんて名前なの?」せいぜいこんな風にしか受け取られないのではないだろうか。このコメンテーターのこの発言を知った時には、正直、コメントして金もらうんだったら、もうちょっと頭ひねれよ、とか思ったものだが……。この人、どうやら相当悲壮な覚悟でこの発言をしたようで、その後この番組を降板させられたとのこと。だが、今となっては、なんとなくこの人の気持ちもわかるような気がする。日本のジャーナリズムとそれを取り巻く環境があまりにもローカルなゆえに、どんなに下らないことであってもむしろ発言するためには相当な勇気と覚悟が必要なのであろう、多分。降板をめぐっては政府から圧力があったとかなかったとか言われたようだけど、いや、もしも政府から圧力があったにしても、この発言自体が問題とされたわけではないと思う。問題は、この、それ自体としてはユーモアもない諷刺にもなっていない発言を、反政府の象徴としてまつり上げようとした人たちが意外に多かった、というところにあるのだと思う(それにしても、この「I’m not ABE」については、いまだにネット上などで話題になってるのを見かけますがね。みなさん、そもそも「Je suis Charlie」だとかテロ事件だとか、そっちは覚えてますか?まだそんなに昔のことではない、というか、とっても最近のこと、なんですよ、実は?苦笑)

ローカルな問題と言えば……そうそう、安倍首相の米国議会での演説をめぐって、やっぱり話題はとってもローカルなものに変換されてしまっている。とっても象徴的だったのは、誰だったか、民主党の議員センセイのツイッターの炎上騒ぎ。安倍首相の英語がまるで中学生レベルだとか何とか……。まぁ、なんとしてでも首相に文句を言いたいのであろうが。この民主党の議員センセイがアメリカに対してどういう立場なのか、どういう感情を抱いているのかは、私は存じ上げない。だがしかし、そもそも英語の上手い下手を問題にするなんて、それこそアメリカへのコンプレックスが丸出しではないか。それから、安倍首相の演説については、歴史認識云々ということが日本では問題になっているようだけれども……。この点にかんしては、安倍首相の演説内容がアメリカで高く評価されたという話を、きちんと検討しないといけないと思う。こんなことを言うと、それこそ「右翼め!」だとか「歴史修正主義者め!」とか言われてしまいそうだけれども、実際には、やっぱり高く評価されたような気がする、というよりもむしろ、そう捉えることによってしか見えてこない、その先にある大きな問題があるのではないだろうか。あくまでも事の良し悪しはともかくとして、もしかしたら、歴史の修正ということ自体が、日本で論じられているのとは全く違った仕方で、世界では論じられているのかもしれない。だってそうでしょ?一方でアメリカの国力が相対的に低下して、他方で中国という新勢力が台頭してきている、要するに、世界の秩序そのものが変わるかどうかという瀬戸際なわけだ。だとしたらこの辺りで一度、これまで世界が共有してきた「物語」を検討してみようという方向に話が流れているとしても、別に不思議でも何でもないではないか。集団的自衛権だとか憲法改正だとか、そういったことについても、やっぱりローカルな観点を脱して議論しないとヤバい状況になっているようなそんな気が……おっと、諸々の事情のため、今回はここまで。ただ最後に一言、念のために言っておく。「ローカルな観点を脱して」と言っても、アメリカにしろ中国にしろ、とっとと追従先を選ばなきゃダメだとか、そういうことを言っているのでは、もちろん、ない。国際的な次元で、あるいはこう言ってよければ普遍的な次元で議論されなければ事の良し悪しが全く見えてこない問題というものがあって、イスラム教の問題、そして集団的自衛権の問題や憲法改正の問題などはまさにそういう問題だということ、それから、私自身が、日本という国に引きこもり続けながら、なぜだかどうしても日本という国において展開されている議論の仕方に、どうにも息苦しさを感じてしまう、そういうことが言いたかったのだ。

2015年5月16日土曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 3


「純粋経験」という「型」


 小林秀雄は世阿弥の言葉について論じた「当麻」の中で次のように述べている。有名な件(くだり)なので、ご存知の方も多いのではないかと思う。

それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無理な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確めた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。

 私がここで小林のこの言葉を引いたのは、一方ではここに述べられていることが西田幾多郎の「純粋経験」の概念を連想させるからであり、他方では坂口安吾が「教祖の文学」において、この文章を言わばダシにして小林を批判しているからである。

 まず、西田の純粋経験の概念について、西田自身の言葉を読んでみよう。

経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(『善の研究』)

純粋経験においては未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立は我々の思惟の要求より出でくるので、直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見らるる客観もない。恰も我々が美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声のみなるが如く、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我々は已に真実在を離れているのである。(同書) 

 「全く自己の細工を棄てて」だとか「毫も思慮分別を加えない」だとか「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」だとか説明されているところから、西田の説く純粋経験は、世阿弥の言うところの「物数を極めて、工夫を尽して後」に得られるものとは、一見全く逆のもののように思われる。だがそうではない。我々が通常「経験」としているものには、常に既に「何らかの思想を交えている」、つまり「知情意の分離」や「主観客観の対立」を前提としているのであり、我々はそこにおいて「実在の真景を離れて反省し思惟する」のである。ヘーゲル流に言えば、我々の経験は常に既に媒介を含んでいるのである。だから「実在の真景」あるいは「真実在」を直接的に経験しようとすれば、そういった前提あるいは媒介を、「物数を極めて、工夫を尽して」取り払わなければならない、フッサール流に言えば「現象学的還元」を実行しなければならないのである。

 さて、安吾である。「美しい『花』がある。『花』の美しさといふ様なものはない」、安吾には小林のこの表現が気に食わない(ちなみに「教祖の文学」の中で、安吾はこの表現を三度引用している)。「私は然しこういう気の利いたような言い方は好きでない。本当は言葉の遊びじゃないか」。だが、安吾は小林のこのような考え方自体を否定しているわけではないのであり、むしろ基本的には同意しているのである。安吾が気に食わないのは、小林がこのような考え方を「鑑賞」のための一つの「型」にしてしまった、ということなのである(つまり、安吾はここで「デカダン文学論」において「型の論理」や「論理の定型性」といった概念を通じて展開した知識人への批判を、小林に対しても展開しているのである。なお、詳しくは当ブログの以前の投稿記事「倫理という『スキル』?2」を参照されたい。http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/04/blog-post_19.html)。
 
 
 安吾のこのような批判は、「純粋経験」の概念をめぐっての一つの重要な問題を指摘するものでもある。つまり、前提や媒介を取り払って純粋にあるいは直接に物事を経験するためには、まさに前提や媒介を取り払うための前提や媒介が、安吾の言うところの「型」が、さらに必要なのである。では、安吾は純粋経験や直接経験といったこと自体を否定するのであろうか。決してそんなことはないのであるが、このことについては後に論じるとして、今は「教祖の文学」における安吾の小林批判をさらに見てゆくことにする。

  「常に物が見えている。人間が見えている。見えすぎている」、安吾は小林を評してこう言う。だがそこで見られた物にしても人間にしても、それらは「型」を通じて見られたものなのであり、世阿弥の目に映った、あるいは西田の言う純粋経験においてとらえられる、「生きた」物や「生きた」人間なのではなく、「死んだ」物であり「死んだ」人間なのである。安吾は小林のこのような態度を、小林が泥酔して水道橋駅のプラットホームから落ちたというエピソードを皮肉って、次のように言う(ちなみに「教祖の文学」はこのエピソードの紹介から始まっており、また、この作品の言わば「オチ」も、このエピソードを踏まえている。こういった辺り、この作品は安吾のエッセイの上手さを味わえる作品である)。

彼は天性の公式主義者であり、定石主義者であり、保守家であり、常識家であって、死人はともかく死んでおり、もう足をすべらして墜落することがないから安心だが、生きた奴とくると、何をしでかすか分らず、教祖の如く何をしでかす魂胆がなくとも、足をすべらしてプラットホームから落っこちる、どこに伏兵がひそんでいるか分らない。実にどうも生きるということはヤッカイだ。

生きている人間などは何をやりだすやら解ったためしがなく鑑賞にも観察にも堪えない、という小林は、だから死人の国、歴史というものを信用し、「歴史の必然」などということを仰有る。

 生きている人間というものは「何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例ためしがあつたのか」(「無常といふこと」)。安吾もこのことは認める。だが、安吾と小林では、その事実を認めることに基づく態度の、言わばベクトルが真逆なのである。

生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まったく分らないのだ。現在こうだから次にはこうやるだらうという必然の筋道は生きた人間にはない。(中略)人間に必然がない如く、歴史の必然などというものは、どこにもない。 

そして、安吾はこの事実を自らの文学の出発点としていたのであり、さらには哲学や宗教といった諸々の思想というものもまた、この事実を出発点としなければならないと考えていたのである。このことにかんしての安吾の言葉を、多少長くなるが引用しておく(安吾らしさがあふれる名文であるとも思うので)。

人間というものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当り、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想というものがそこから生れて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。 

 「自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない」、そんな人間が「あらゆる矛盾」、「不可決」、「不可解」に直面する、安吾に言わせればそれが人間の純粋経験というものなのであり、それを「自分の事」として表現したものが文学なのである、ということになろう。またさらに言えば、そのような人間の在り方をそのままに受けとめることもまた純粋経験なのであり、それを「他人の事」として論じたものが批評なのである、ということになろう。だが純粋経験を「鑑賞」のための一つの「型」としてしまい、今や「どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ」という、言わば境地に達してしまった「教祖」である小林は、たとえば西行や実朝や兼好のまなざしを小林自身の「型を通した」まなざしと重ね合わせて彼らの作品を鑑賞するにすぎない、つまり彼らの純粋経験を共有することもなければ、彼らの作品に接した際の小林自身の純粋経験を表現することもないのである。安吾は小林のこのような態度への言わばアンチテーゼとして、宮沢賢治の遺稿である「眼にて言ふ」を引用する。ここでも引用しておこう(いや、話の流れからすれば引用する必要もないのだけれども……まぁ、ここは私のブログであって字数制限もないし、それに私自身が好きな詩なので、まぁ、いいでしょう)。


だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いてゐるですからな

ゆふべからねむらず

血も出つゞけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみぢの嫩芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがつて湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば

これで死んでもまづは文句もありません

血がでてゐるにかゝはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

たゞどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やつぱりきれいな青ぞらと

すきとほつた風ばかりです

 
 「半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だ」、つまりこれは、死の瀬戸際にある賢治の、どんな状況にあっても何をしでかすかも何を感じるかも何を見るかもわからない人間の、純粋経験の表現である、ということになろう。そして「徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたという物の実相」、つまり小林が兼好の目に自分の目を重ね合わせたて見たもの、あるいは「型」としての「純粋経験」を通して見たものと、「この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風」とは「まるで品物が違う」、つまり、賢治の純粋経験の、賢治自身による表現であるこの詩を読むこともまた、一つの純粋経験になるはずだ、ということになろう。「思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青ぞらやすきとおった風などは見ることができないのである」。

 さきに私は安吾が純粋経験や直接経験といったものを否定しているわけではないと言った。むしろ安吾は、純粋経験や直接経験の可能性が人間の本性に本来的に備わっているはずであると、それこそ純粋に、そして理論的にではなく直接的に知っていた(そしてそれをいかにして表現するかということが、安吾の文学上の生涯の課題であったとも言えるかもしれない)。だからこそ、小林のように「型」を媒介とした見方に対して苛立ちを覚えたのであろう。

人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ(人間の本性 論者)。(中略)美というものは物に即したもの、物そのものであり(つまり世阿弥の言葉を安吾も肯定しているのである 論者)、生きぬく人間の生きゆく先々に支えとなるもので、よく見える目というものによって見えるものではない。/美は悲しいものだ。孤独なものだ。無慙なものだ。不幸なものだ。人間がそういうものなのだから。

  「小林はもう悲しい人間でも不幸な人間でもない」、安吾は、小林の水道橋のプラットホームからの「墜落」を、飛行中に川辺で洗濯をする女のふくらはぎを見て神通力を失い落下した伝説の久米仙人の「墜落」ぶりとくらべて、小林の墜落を「ただもう物体の落下にすぎん」と評する。人間の本性に本来的に備わっている純粋経験や直接経験の可能性を言わば封印してしまったという点において、安吾に言わせれば小林はもはや生きた人間ではないのであり、そのような小林に比べれば久米仙人の方が、仙人でありながらはるかに人間らしいのである。思わず神通力まで失ってしまうほどの女のふくらはぎの美しさこそが久米仙人の純粋経験であり、さらにまた、仙人といえども女のふくらはぎを見たことが原因で神通力を失ってしまうものだということを知ることも純粋経験であり得るのだ。

まことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。(中略)落下する久米の仙人はただ花を見ただけだ。その花はそのまま地獄の火かも知れぬ。(中略)人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。

 死の瀬戸際で血を吐き続ける賢治の姿は、傍から見れば地獄の苦しみを味わう姿に見えるかもしれず、また、神通力を失って墜落する仙人の姿は、傍から見れば地獄に堕ちる姿に見えるかもしれない。だが賢治が目に映ったものはきれいな青空と透き通った風という「花」だったのであり、仙人の目に映ったものは女の美しいふくらはぎという「花」だったのである。人間は、そして仙人でさえも、どんな状況にあろうと、何をしでかすか、何を感じるか、そして何を見るか、わからない。だが安吾に言わせれば純粋経験とはそういったところにこそ成立するものなのであり、そのわからなさを知ることもまた純粋経験である、ということになろう。

 さて、安吾の小林への批判は、西田にも同じように当てはまるのであろうか。このことについて考えるために、安吾の立場をより具体的に検討してみたい。だがその前に、「教祖の文学」で述べられている安吾の作家論を、次回、検討してみたい。なぜならばそれは、西田の「行為的直観」の概念を連想させるからである。

  ちなみに純粋経験については、「場所」だとか「絶対無」だとかの話も関連してくる……ような気がするので、ちゃんと論じるのはまだもうちょっと先になりそうです。