2015年4月27日月曜日

ナカハタ式・反ヘイト 1


 いわゆる現代詩について、そして現代詩人について、私は決して多くを知らない。ただ、いくつかの作品が、何人かの詩人が、強く印象に残っていて、たまに思い出したように鑑賞する、といった程度である。そういった詩人の一人に、岩田宏がいる。岩田宏の「住所とギョウザ」という作品は、私に最も強い印象を与えた現代詩の一つである。その岩田宏が、昨年(2014年)の暮れに亡くなっていたということを、つい最近になって友人に教えられた。そこで、追悼文というわけではないけれども、「住所とギョウザ」をめぐって私が考えたことなどをここに書き残しておきたい。まず、全文を引用しておく。

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「住所とギョウザ」  岩田宏

 
大森区馬込町東四ノ三〇

大森区馬込町東四ノ三〇

二度でも三度でも

腕章をはめたおとなに答えた

迷子のおれ ちっちゃなつぶ

夕日が消えるすこし前に

坂の下からななめに

リイ君がのぼってきた

おれは上から降りて行った

ほそい目で はずかしそうに笑うから

おれはリイ君が好きだった

リイ君はおれが好きだったか

夕日が消えたたそがれのなかで

おれたちは風や帆前船や

雪のふらない南洋のはなしした

そしたらみんなが走ってきて

綿あめのように集まって

飛行機みたいにみんな叫んだ

くさい くさい 朝鮮 くさい

おれすぐリイ君から離れて

口ぱくぱくさせて叫ぶふりした

くさい くさい 朝鮮 くさい

 
今それを思いだすたびに

おれは一皿五十円の

よなかのギョウザ屋に駈けこんで

なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって

たべちまうんだ

二皿でも三皿でも

二皿でも三皿でも!
 
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 いかがであろうか。

 この詩自体について、私はここであれこれ細かく語ることはしない。いや、語りたいことは多いのだけれども、私は自分にそのような資格があるとは思わない。ただ一点。この詩で直接描かれることは、地名や個人名といった個別的なことであり、特殊な状況である、にもかかわらず、国籍や人種を超えた子ども同士の交流、子どもの(あるいは人間そのものの?)残酷さ、そして、自己嫌悪や悔恨の念といった普遍的なものをありありと、この詩は読む者の前に「現前」させている。このように、個別、特殊、普遍、それらを一挙に表現できるというところに、詩という表現形式に独特の力があるのではないだろうか。少なくとも、哲学的な文章においてはこういったことはほぼ不可能だ。それはたとえば、ヘーゲルや西田幾多郎の苦労を考えればよくわかる。また、こういったことは小説という形式においても難しいのではないだろうか。

だが、日本において詩というものは、そして詩人というものは、不遇である。詩という表現形式においてしか表現できないことがあるにもかかわらず、である。たとえば「詩とは何か」といったことがきちんと研究されることもなければ、教育の場で教えられることもない、いやむしろ、なんでも書きたいことを思いついた言葉で表現すればそれが詩だ、などと言われてきたものだから、今では下手をすると詩とはせいぜいやたらと改行が多い散文、といった程度にしか考えられないし、実際、そのようなものが詩と称されることも多い(いや、確か太宰が書いたものだったか、やたらと改行の多い散文云々といったような批判をどこかで読んだ記憶があるので、こういう状況は何も今に始まったことではないのかもしれない)。それから、日本においていかに詩人が不遇であるかということは、たとえばノーベル文学賞を受賞した詩人の中に大学の教員がいかに多いかということを見てもわかる。日本の大学の先生に、どれだけいるだろうか、詩人が?もっとも日本には、和歌や俳句の強い伝統があるので、詩や詩人が不遇であるのはその辺の事情とも関連しているのかもしれないが。

 さて、一読してわかるように、「住所とギョウザ」はいわゆる在日の人々を、あるいは在日の人々との関係をテーマとした作品である。在日といえば、一時期ずいぶんとメディアを賑わしたヘイト・スピーチやヘイト・デモについて、最近はあまり聞かなくなったような気がするのだが、実際のところはどうなのだろう。ヘイト・デモが以前ほど行われなくなっているのか、あるいは世間の関心が薄れてきたということなのか。やれ「死ね」だのやれ「気ちがい」だの、そういった言葉が声を大にして叫ばれる様子は、はじめの頃こそ人々の間で興味本位的に話題になったものの、やはりそういう乱暴な表現に対しては大多数のまともな人間は耳を覆うようになってきたので、デモに集まる人々も減っており、報道されることもなくなってきたのだ……ということだと、思いたい。そしてヘイト・スピーチやヘイト・デモについては、法による規制をするべきか否かをめぐって議論がなされていたように思うが、結局、どういう方向に話が進んでいるのであろうか。

  法規制、しないとダメなのかねぇ……。

  無粋であることを承知で、一応言っておく。「しないとダメなのかねぇ……」という私の表現には、私の複雑な想いが込められている。で、今回の拙文の意図は、その複雑さについて語ることだったのだが、例によって諸事情により、今回はここまで。ただ、少しだけ言っておくと……物事は常に具体的に考えられなければならない。私にはいわゆる在日の大切な仲間が、私自身にとっての「リイ君」が、何人もいる。そういった「リイ君」たちとのかかわりの中で考えてきたことなどを手掛かりとして、次回、続けようと思う。

2015年4月19日日曜日

倫理という「スキル」?2

倫理という「スキル」?2

 
 さて、前回の続き。
 
 フィリピンでいわゆるわいせつな行為を繰り返していたという中学校だか高校だかの元校長先生の事件をネタにしたお話、でしたね。前回の最後に書いたように、この元校長先生が言ったとされる「倫理観のタガ外れた時、解放感味わえた」という言葉が、私にはどうにも引っかかったのでした。それは、なぜか。
 
  ところで、「タガが外れる」という言い回しの中の「タガ」ですが、これは漢字では「箍」と書きます。もともとは、桶の枠組みを固定するための、輪のかたちをした道具のことなんだってね。転じて、「タガ」とは、何かを外側から締め付けて、その何かをきちんとした状態に保つものを意味することになって、「タガが外れる」とはそういった外側から締め付けるものが無くなって、無茶苦茶な状態になってしまうことを、意味するようになったんだね。この言い回しが出来た根っこには、人間というものは外側から何らかの力を加えることで変わるのであって、その何らかの力というのは、たとえばあたかも「箍」という道具のように取り外し可能なんだっている発想があるみたいだね。そして話題の元校長先生にとっては、「倫理」だの「倫理観」だのというものも、そういう取り外し可能な道具のようなものだったと、そいうわけだね。
 
 こんな風に考えた時、私が連想したのは、ある種のTVゲーム(RPG系とか)の、キャラクター育成でした。以下、そんなにマニアックなレベルの話でもないけれども、全然わからない方々、ごめんなさい。ゲームでキャラを使っていくと、キャラのレベルが上がります。でも、レベルが上がったからと言って、そのキャラがどんなキャラであるのかが決まるわけでも、変化するわけでも、ない。つまり、そのキャラの本質が決まるわけでは、ないんだね。HPやMPが増えたり、それまで行けなかった場所に行けるようになったり……ようするに人間で言えば、ただ年齢を重ねるというだけで、図体がデカくなったり行動範囲が広がったりするだけで、別にその人間そのものが本質的に立派になるわけではない、みたいな。で、そのキャラがどんなキャラであるのかを決める、あるいはそのキャラを変化させるのは、いわゆる「スキル」だったり「魔法」だったりするわけだ。たとえばあるスキルを覚えさせると「遠距離攻撃系」のキャラになったり、またある魔法を覚えさせると「回復系」のキャラになったり、とかなんとか……。で、このスキルや魔法というのは、言ってみれば「取り外し可能」なわけです。つまり、ゲーム中でキャラが覚えられるスキルの上限数というのが、たいていのゲームでは、決まっているんですよ、たとえば三つとか四つとか。でも、たいていのゲームではストーリーが進むにつれてもっと多くの様々なスキルが登場するわけで、そうなると、それまで覚えていたスキルを外して、その代わりに新しいスキルを覚えることになるわけです。そんな風にして、スキルや魔法を外側から着けたり外したりして、ゲームのキャラがどんなキャラであるのかが、決まってゆくわけだ。話題の元校長先生にとって、「倫理」だの「倫理観」だのというものも、こういう取り外し可能なスキルや魔法のようなものだったのかねぇ。そのへんのところがね、どうにも私には引っかかって仕方がないんですよ。繰り返しになるけれども、ゲーム内のキャラはレベルが上がっても、そのキャラ自体が本質的に変化するわけではない、それと同じように、人間の場合だって、外付けのスキルのようなものとして何らかの知識を身に着けたって、その人間自体が本質的に変化するわけではないのです。極端な話、この元校長先生は、これまでの人生の中で人間自体が変化する、あるいは成長するという経験をすることなく、ただその時々の必要に応じて、様々な知識をスキル的に身につけることによって何とか凌いできた、で、倫理だの倫理観だのいうものも、そうやって何とか凌いでゆくためのスキルの一つにすぎなかった、と。でもね……
 
 倫理とは、そういうものではありません。
 
  そういえば坂口安吾が「デカダン文学論」で島崎藤村の「新生」という作品を批判しつつ、日本における倫理だの道徳だというものについて、論じております。藤村の「新生」という作品は、藤村が自分の姪との、言わば「不適切な関係」(古いなぁ……みなさん覚えてらっしゃいますか、こんな表現?)を告白した作品なのだけれども、この作品を、そして藤村の態度をこき下ろすにあたって、安吾は「型の論理」だとか「論理の定型性」だとかいうことを言っております。「型の論理」あるいは「論理の定型性」とは、世間一般において「道徳とか正しい生活などと称せられるものの基本をなす贋物の生命力」だって、安吾は言うんだね。そしてさらに「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは例外なしに贋物と信じて差支えはない」とまで、言い切っているんですよ。そして、藤村をはじめとした「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというもの」がやっていることは、この「型の論理」や「論理の定型性」にしたがってものを考えて、そして自分の言動をそういったものに当てはめようとすることにすぎない、と言うんだね。まず、世間一般において「正しい」と認められている道徳的なあるいは倫理的な態度、つまり「型」や「定型」がある。で、さらに、そういう「型」や「定型」に自分のしたことや言ったことを当てはめる、そしてその「当てはめる」という作業そのものもまた、道徳的に倫理的に正しい態度の現われだとされるんだね。つまり、藤村の場合にしても、姪との不適切な関係が世間一般では不道徳であり不健全なものとされているにしても、それを反省して、というか「ああ、反省してるんだな」と世間一般に認められるようなかたちで告白してしまえば、告白したということ自体が立派に倫理的・道徳的に健全なこととして世間一般に受け入れられてしまうんであって、さらに藤村ほどの著名人の場合には「謹厳なる道徳家」だの「健全なる思想家」だのとしてのメンツまで保たれてしまうんだね。ところでここで安吾の言う「型」とか「定型性」って、「タガが外れる」と言われる場合の、「タガ」を連想させませんか?
 
 要するに、「こうすればこう思われるだろう」とか「こう言えばこう思われるだろう」という、多分日本人に特有の「お約束」があって、そのお約束にしたがうことによって、日本では我が身が守られる、というわけだ。たとえば、中学校とか高校とかで、やたらと反省文を書くのが得意だった悪ガキがいたでしょう?そういう悪ガキのことなんか思い出したら、分かり易いんじゃないかな。そういう悪ガキどもは、たとえば「大人は子どもがこういうことを言えばこう受けとめる」とかいうお約束を、十分に分かっているから反省文を書くのが得意なんだね。今回の元校長先生にしても同じことで「倫理観のタガが云々」とか言えばそれこそ倫理的に許されるって、その程度のつもりで、いや、「つもり」とかなんとか、そんな風に自覚することも微塵もないままに、ごくごく自然に、こういう発言をしたんだろうね。もしかしたらこの元校長先生、それこそ中学だか高校だかの教員時代に、悪ガキどもに反省文の書き方なんか、指導していたのかもしれないね。だとしたら、それがこの人の倫理教育だったわけだ。でもね……
 
倫理とは、そういうものではありません。

このブログにも何度かご登場いただいているエマニュエル・レヴィナスは、倫理学こそが第一の哲学である、つまり、倫理学こそが哲学の出発点であり哲学的思考の大前提であると、主張しています。伝統的に西洋の哲学では、そのようなものとして最優先されてきたのはいわゆる存在論でした。存在論、つまり、ものすごく乱暴にまとめてしまうと、人間も含めて、石ころから神様に至るまで存在するありとあらゆるものをまさに「存在するもの」として考える、そういう態度です。「人類みな兄弟」ならぬ「存在するものみな兄弟」、そこではありとあらゆるものが、まさに「存在するもの」として「同じ」、つまり「同一」なわけで、世界は「同一者」で溢れかえっているわけです。レヴィナスに言わせれば、そうじゃ、ないんだね。人間が哲学しようとすれば、つまり、人間について、世界について、人間が何ごとかを考えようとすれば、その始まりには「存在するとは別の仕方」においてある、何ものかがかかわってくる、あるいは、哲学は「存在するもの」という同一者の群れの向こう側で、つまり「存在することの彼方」で始まると、レヴィナスは言うんだね。「存在するとは別の仕方」においてある、何ものか、そして、「存在することの彼方」で人間が出会うもの、それをレヴィナスは「他者」と呼ぶわけです。我々の理解を超えた他者、同一者の群れに解消され得ない他者、そういうものに直面した時に、我々はそういうものを同一者の群れの中に暴力的に解消しようとしてはならないのであって……いや、ちょっと大げさかつ物騒な言い回しですね、我々はそういうものを無理矢理に理解したつもりになってはいけないのであって、むしろその逆に、理解を超えたものを理解を超えたままに、言ってみればそのままに尊敬し尊重する、つまり倫理的でなければならないんだって、レヴィナスは言うんだね。だからレヴィナスに言わせれば倫理とは、世間一般などという、我々に先立つ、そして我々にとって言わば外的な「お約束」などが成立している世界、言いかえれば「他者なき世界」で問題になることでは、そもそもないのです。またそれは、我々にとって外側から取り外し可能なタガでもスキルでもありません。哲学しようとする人間の、人間や世界についてなにごとかを考えようとする人間の、態度を、あり方を、本質的に決定するような、そういうものなのです。
 
 でもまぁ、こんな話、だんだんとだんだんと、どうでもいい話になってゆくんだろうネ。たとえば学校での道徳教育の強化なんてことが言われているけれども、最近ではそもそも教育全般においてスキルの習得が重視され優先されるようになってきているわけで、倫理や道徳も、そういう扱いを受けるように、なってゆくのかねぇ。無力です、こういう流れに対して、一人のフリーター無頼派(なんとも「頼り無い」という意味で)非常勤講師にすぎない私などは、あまりにも無力すぎます。でもまぁ、嘆いていても仕方ないので、とりあえずがんばりますよ、ええ、「命がけ」で。
 

2015年4月12日日曜日

倫理という「スキル」? 1

 

倫理という「スキル」?


 ちょっと前に、中学校の元校長がフィリピンでいわゆる「わいせつな」行為を繰り返したって、問題になったね。最初に言っておきます。私は別にこの事件の性質について云々するつもりは、ありません。ただ、法の定めるところに従ってそれこそ「粛々と」事件が処理されれば良い、あえて言えばその程度の関心しかありませんよ。しかしなんだね、この手の事件が起きると、本当にマスコミって奴は、元気になるね。「口にするのもけがらわしい」ような「わいせつな」行為を繰り返したとかなんとか、連日のようにそれこそ「口にする」んだね。そういえばちょっと前に、誰だったか野党の国会議員のセンセイが、いわゆる「わいせつな」場所のことを、「口にするのもけがらわしい」って、国会の答弁で、わざわざマイクを通して「口にして」たっけね。だいたいね、「わいせつな」って表現自体が、何やらとっても「わいせつ」な雰囲気のする表現だって、私は想うんだけど、如何。で、見出しにこういう表現を使って、「口にするのもけがらわしい」とか言いながら、「わいせつな」行為や場所や人物について、口を極めて罵倒するわけだ。で、連日のように報道されるってことは、そういう報道を求める人たちが多いってことなんだろうね。まったくねぇ、「口にするのもけがらわしい」んなら、そもそも口にしなきゃいいだろうに、それに、「口にするのもけがらわしい」事柄は、やっぱり「耳にするのもけがらわしい」んだろうから、そんな話が始まったら耳を塞ぎたくなるはずなんじゃないかねぇ……。でもまぁ、そう単純にいかないのが、人間というやつなんですな。性の問題というのは、典型的な「スキャンダル」なんだね。スキャンダル、「躓きの石」、キリスト教の概念です。といっても、別にむずかしいことじゃあ、ない。好意と同時に嫌悪感を抱かせる、あるいは、嫌悪感を抱かせると同時に好意を抱かせる、そういうもののことをいいます。「魅力的なんだけどけがらわしい」と感じさせると同時に「けがらわしいんだけど魅力的だ」と感じさせる、みたいな。たとえば今度の事件にしても、その内容自体はわいせつでけがらわしいんだけども、人々が話題にしたがるという意味では、やっぱり魅力的なんだね。このスキャンダルというやつには、どうにも人間には有効な対抗手段が、なかなか見つからないのかもしれません。くり返しくり返し、いつまでもいつまでも、スキャンダルに踊らされて……どうにも人間というやつは、その精神面においては、大して進歩してないらしいやね。

 
 そうそう、キリスト教の概念ということで思い出しましたよ。もう去年のことになるのか。ローマ法王が韓国を訪問した際に、韓国の人々が「倫理的に生まれかわることを望む」と発言したことが報じられましたね。あらかじめお断りしておきますが、私これ、勘違いしてたんですよ。この発言の前だったか後だったか、法王が韓国の元慰安婦を訪問したことが報じられたもんで、私はてっきり、法王が元慰安婦たちに向けてこの発言をしたもんだと、思い込んでいたんです(いや、そうではなくて、いわゆる愛国系のニュースサイトでそのような誤報を読んで信じ込んでしまったのかもしれません……恐ろしいね、ネットって)。で、さきほど色々と調べていて、自分の思い込みが誤りだったと気が付いた次第。でもね、そう思い込んでいた私は、ローマ法王は流石だ、と思ったものです。また、こんなこと言えるのはローマ法王しかいないだろう、とも思いましたよ。慰安婦の問題って、まさに性に関わる問題なわけで、何度も言うように典型的なスキャンダルなんだね。しかるに、たとえばアメリカのいくつかの土地には慰安婦像なるものが設置され、今後も世界各地に設置される計画があるという。そういうことになったら、その土地に住む人々は日々の暮らしの中で、スキャンダルを思い出させられることになるね。ローマ法王はこういう事態を懸念して、倫理的に云々という発言をしたんではないか、私はそんな風に思い込んでいたわけです。実際、こんなことが言えるのは、ローマ法王しかいないでしょう。まさかまさか日本人にはこんなこと言えないし、他の国の政治家がこういう発言をしたとしても、どうせ背後に国際関係上の意図があるんだろうとかなんとか言われて終り。そして発言の内容。別に「慰安婦像を設置するな」とか「慰安婦のことを問題にするな」と言ったわけでは、ないんだね(何度も言うように、これ、私の思い込みにもとづいた話、誤解していた当時の私が考えた話、ですからね、念のため)。あの戦争という狂気の中、あってはならないことが、あった。だから、そういうことはきちんと後世に伝えられなければならない。きちんと伝えつつ、なおかつスキャンダルに踊らされてはならない。でも、そういう伝え方、いったいどうすれば可能なのか……その答えを見つけることが困難である現状の人間、何か言おうとすれば、倫理的に云々と言うしか、ないではないか。そして繰り返すように、そんなことが言えるのは、スキャンダルの恐ろしさを知る(はずの)カトリック・キリスト教徒の長であるローマ法王以外に、いないではないか。さてさて、念のため念のため、繰り返しておきますよ。ここに書いたことは、私の思い込みに基づく話、誤解していた当時の私が考えていた話です。本当は、この法王の発言、セウォル号の事件を受けて、ツイッター上でなされたものなんだってね。最近、東大の入学式での式辞が話題になったことだし、一応、くどいほどお断りをしておきます。

 
 そして、ちなみに言っておきます。私自身は、最近よく耳にする、慰安婦の問題なんて存在しないといった趣旨の考え方(いや、さすがにそこまで極端な主張は、ないかな。まぁ、話を分かり易くするために、ね。)に与するものでは、断じてありません。戦争なんですよ、狂気なんですよ、何があってもおかしくはないんです。むしろ、慰安婦の問題等以外にだって、平和に暮らす我々には想像もつかないような狂ったことが行われていた可能性だってある、そういうことです。私の立場は極めて単純です。狂気の中で人間はとんでもないことをしでかすものだということは伝えられなければならない、そして何より、戦争反対、それだけです。でもまたまたちなみに、反面、日本人でありながら、慰安婦の問題をめぐって日本をそして日本人を堂々と誇らしげに糾弾する人々のことも、私には理解できませんね。こういう人、マスコミや偉いセンセイがたに多いようですけど。こういう人たちは、いったいどういう立場にいるつもりなんだろうか。狂気の中にある人間の所業、人道に対する罪悪、そして、スキャンダルに抗うために人間に可能な術(すべ)……この問題、そういう普遍的な問題として考えられなければいけないと、私などは思うのだけれど、こういう人たちは、自分達がこの問題を、ある特定の時代にある特定の場所で起こったあくまでも特殊的な個別的な、ローカルな問題に矮小化してしまいかねないっていう風には、思わないのかね。いやいや、あくまでも個別的な具体的な問題として解決されないかぎり、問題が解決されたとは言えない、ということもあり……いけませんいけません、混乱してまいりましたので、そういうことはさて置き、偉いセンセイがたをスパイにたとえるようで失礼極まりないかもしれませんけどね、敵対する国なり地方なりにおいて、味方の内部にいながら敵に与するような連中こそが、どちらからも一番信頼されないものだって、昔から相場が決まっているね。かえすがえすも失礼な言い方かもしれませんがね、韓国の人たちから見たら、こういう立場のセンセイがたの方が、日本の右翼や保守の人々よりも、もしかしたらずっとずっと、奇妙に見えるんじゃないかねぇ。でもまぁ、こういう風に対立を前提とする考え方はいつまでも対立という発想から逃れられないものであって、こういう私の考え方もまた、良くないね。

 
「然し、どうも、まア、よそうや。」(安吾「オモチャ箱」)

 
 話を中学校の元校長の事件に戻します。この事件のニュースをネット上で見た時、「倫理観のタガ外れた時、解放感味わえた」というこの元校長なる御仁の言葉が、気になった。というよりもむしろ、ちょっと腹が立った、いや、ちょっと不安がよぎった……。おっと、諸事情により本日はこれまで。本当は今回の記事、その怒りだとか不安について書くのが目的だったんだけどね。タイトルの「倫理という『スキル』?」というのも、その辺と関係します。今日アップした記事の内容は、あんまりそれとは関係ないかも……。ということで、続きは近日中に。

2015年4月5日日曜日

「はじめ女房が聞きたがり……」

 毎月一回、地元で友人がやっているバーにて、落語のイベントが開催されている。毎回、春風亭吉好という二つ目の噺家さんと、それからゲストが一人。この吉好さんという方、ユニークな創作落語が人気で、ある時期にはCDの売上が、某ランキングの落語部門で一位になったそうな(ちなみに、どのくらい売れているのかイメージするために……吉好さんの一位になった時の二位は、談志師匠のCDだったとか)。で、吉好さんが毎回、創作を一本、古典を一本、話すのだけれども、前回の古典が「天狗裁き」。これが実に面白かった。
 お話は、だいたいこんな感じ(以下、Wikipediaよりコピペコピペ……)


 家で寝ていた八五郎が妻に揺り起こされる。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」 八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えるが、妻は納得せず、隠し事をしているのだと疑う。「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう」と押し問答になり、夫婦喧嘩になってしまう。
 長屋の隣人が夫婦喧嘩に割って入るが、経緯を聞いた隣人も夢の内容を知りたがる。「そもそも夢は見ていないので話しようがない」と八五郎は言うが隣人は納得せず、またも押し問答から喧嘩になってしまう。
 今度は長屋の大家が仲裁に入った。大家もやはり八五郎の夢について知りたがる。八五郎は「夢を見ていない」と弁解するが大家には信じてもらえず、「隠し事をするような奴はこの長屋から出て行け」と言われてしまう。
 八五郎が立ち退きを拒否したため、奉行所で詮議されることとなった。奉行は八五郎に好意的だったが、やはり八五郎の夢に興味を持ち、見た夢を聞き出そうとする。八五郎は「夢は見ていない」と答えるが奉行の怒りを買い、縛り上げられて奉行所の庭木に吊るされてしまう。
 吊るされた八五郎が途方に暮れていると、突風が吹いて八五郎の体が宙に浮く。気が付くと山奥にいて、目の前には大天狗が立っている。奉行所の上空を飛翔中、理不尽な責苦を負わされている八五郎に気が付いたので、助け出したのだと大天狗は言う。大天狗もまた八五郎の夢のことを聞きたがる。「夢を見ていないので話しようがない」と八五郎は今まで同様に弁解するが、やはり信じてもらえない。大天狗は怒り出し、八五郎の喉元につかみかかる。首筋に大天狗の長い爪が食い込み、八五郎は苦しみ悶える。
 気が付くと八五郎は家で寝ていて、妻に揺り起こされていた。うなされていたようだ。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」


 ようするに、ヘーゲルです。人は他者の欲望を欲望する、ってやつですね。コジェーヴ経由で、多くのフランスの思想家が同じようなことを言っているわけだし、R・ジラールの思想の根っこにあるのもこの発想なわけだね。あーいやいや、私は別に「落語って、哲学や思想のテーマにもなるんですね」ということが言いたいわけではないです。
 むしろその逆。

 西洋の哲学や思想の世界ではヘーゲルだのなんだの引き合いに出さなければ語れないことが、日本ではすでに江戸時代に、しかも庶民の間で知られており、また、語られていた、という事実。

 「知識人と大衆」ということが、ここ何年かの私の研究テーマの一つなわけだけれども、日本では特に、大衆の知識人嫌いというのが顕著なわけです。そういう事情の背景の一つにはこういった、日本に特有の庶民的な知、という伝統があるのではないかと。わざわざ偉いセンセイがたに教えていただかなくとも……というわけですな。いや、世界中どこに行っても、どんな時代でも、庶民とか大衆とか呼ばれる人々には独特の知恵があるんじゃないか、という意見もあるだろう、というかそう考える方が当たり前なんだろう。でも、私としてはちょっとこだわってみたい(あ、別に右寄りとか保守的とか、そういうことじゃないですぞ、念のため)。なんとなく日本は別なような気がするなぁ、いや、なんとなく、だけどね。漠然とした言い方になるけれども、現代の事情は置いといて、伝統的に日本って、庶民だとか大衆だとか呼ばれる人たちがありがたがるものと、社会の上位に位置する人々がありがたがるものとの間に、とっても大きな断絶があったんじゃないかと、そんな風に思うわけです、なんとなく、ね。
 で、このことは、最近何かと話題の「反知性主義」について考える際にもヒントになりそうな気がします。ちなみにこの問題について語られる際、全世界的規模で進行中の問題として論じられることが多いようだけれども、私としてはちょっと待て、と言いたい。似て非なる、というやつだ。日本の反知性主義については、少なくともさしあたっては、もうちょっとローカルな問題として考えておいた方がいいような気がする。で、さらにちなみに言っておくと、日本におけるこの問題の根っこにあるのは、やっぱり日本特有の知識人のあり方にあると思ってます。まぁ、この話はいずれまた。

 以上、落語家ならぬ落伍者による、落語についての一考察でした。

 なお、落語イベントに関心のある方はご覧ください。  

http://bar-bamboo.com/information.html

 ちなみに次回は2015年4月9日 、21:00からです。

 おあとがよろしいようで……。