2015年4月12日日曜日

倫理という「スキル」? 1

 

倫理という「スキル」?


 ちょっと前に、中学校の元校長がフィリピンでいわゆる「わいせつな」行為を繰り返したって、問題になったね。最初に言っておきます。私は別にこの事件の性質について云々するつもりは、ありません。ただ、法の定めるところに従ってそれこそ「粛々と」事件が処理されれば良い、あえて言えばその程度の関心しかありませんよ。しかしなんだね、この手の事件が起きると、本当にマスコミって奴は、元気になるね。「口にするのもけがらわしい」ような「わいせつな」行為を繰り返したとかなんとか、連日のようにそれこそ「口にする」んだね。そういえばちょっと前に、誰だったか野党の国会議員のセンセイが、いわゆる「わいせつな」場所のことを、「口にするのもけがらわしい」って、国会の答弁で、わざわざマイクを通して「口にして」たっけね。だいたいね、「わいせつな」って表現自体が、何やらとっても「わいせつ」な雰囲気のする表現だって、私は想うんだけど、如何。で、見出しにこういう表現を使って、「口にするのもけがらわしい」とか言いながら、「わいせつな」行為や場所や人物について、口を極めて罵倒するわけだ。で、連日のように報道されるってことは、そういう報道を求める人たちが多いってことなんだろうね。まったくねぇ、「口にするのもけがらわしい」んなら、そもそも口にしなきゃいいだろうに、それに、「口にするのもけがらわしい」事柄は、やっぱり「耳にするのもけがらわしい」んだろうから、そんな話が始まったら耳を塞ぎたくなるはずなんじゃないかねぇ……。でもまぁ、そう単純にいかないのが、人間というやつなんですな。性の問題というのは、典型的な「スキャンダル」なんだね。スキャンダル、「躓きの石」、キリスト教の概念です。といっても、別にむずかしいことじゃあ、ない。好意と同時に嫌悪感を抱かせる、あるいは、嫌悪感を抱かせると同時に好意を抱かせる、そういうもののことをいいます。「魅力的なんだけどけがらわしい」と感じさせると同時に「けがらわしいんだけど魅力的だ」と感じさせる、みたいな。たとえば今度の事件にしても、その内容自体はわいせつでけがらわしいんだけども、人々が話題にしたがるという意味では、やっぱり魅力的なんだね。このスキャンダルというやつには、どうにも人間には有効な対抗手段が、なかなか見つからないのかもしれません。くり返しくり返し、いつまでもいつまでも、スキャンダルに踊らされて……どうにも人間というやつは、その精神面においては、大して進歩してないらしいやね。

 
 そうそう、キリスト教の概念ということで思い出しましたよ。もう去年のことになるのか。ローマ法王が韓国を訪問した際に、韓国の人々が「倫理的に生まれかわることを望む」と発言したことが報じられましたね。あらかじめお断りしておきますが、私これ、勘違いしてたんですよ。この発言の前だったか後だったか、法王が韓国の元慰安婦を訪問したことが報じられたもんで、私はてっきり、法王が元慰安婦たちに向けてこの発言をしたもんだと、思い込んでいたんです(いや、そうではなくて、いわゆる愛国系のニュースサイトでそのような誤報を読んで信じ込んでしまったのかもしれません……恐ろしいね、ネットって)。で、さきほど色々と調べていて、自分の思い込みが誤りだったと気が付いた次第。でもね、そう思い込んでいた私は、ローマ法王は流石だ、と思ったものです。また、こんなこと言えるのはローマ法王しかいないだろう、とも思いましたよ。慰安婦の問題って、まさに性に関わる問題なわけで、何度も言うように典型的なスキャンダルなんだね。しかるに、たとえばアメリカのいくつかの土地には慰安婦像なるものが設置され、今後も世界各地に設置される計画があるという。そういうことになったら、その土地に住む人々は日々の暮らしの中で、スキャンダルを思い出させられることになるね。ローマ法王はこういう事態を懸念して、倫理的に云々という発言をしたんではないか、私はそんな風に思い込んでいたわけです。実際、こんなことが言えるのは、ローマ法王しかいないでしょう。まさかまさか日本人にはこんなこと言えないし、他の国の政治家がこういう発言をしたとしても、どうせ背後に国際関係上の意図があるんだろうとかなんとか言われて終り。そして発言の内容。別に「慰安婦像を設置するな」とか「慰安婦のことを問題にするな」と言ったわけでは、ないんだね(何度も言うように、これ、私の思い込みにもとづいた話、誤解していた当時の私が考えた話、ですからね、念のため)。あの戦争という狂気の中、あってはならないことが、あった。だから、そういうことはきちんと後世に伝えられなければならない。きちんと伝えつつ、なおかつスキャンダルに踊らされてはならない。でも、そういう伝え方、いったいどうすれば可能なのか……その答えを見つけることが困難である現状の人間、何か言おうとすれば、倫理的に云々と言うしか、ないではないか。そして繰り返すように、そんなことが言えるのは、スキャンダルの恐ろしさを知る(はずの)カトリック・キリスト教徒の長であるローマ法王以外に、いないではないか。さてさて、念のため念のため、繰り返しておきますよ。ここに書いたことは、私の思い込みに基づく話、誤解していた当時の私が考えていた話です。本当は、この法王の発言、セウォル号の事件を受けて、ツイッター上でなされたものなんだってね。最近、東大の入学式での式辞が話題になったことだし、一応、くどいほどお断りをしておきます。

 
 そして、ちなみに言っておきます。私自身は、最近よく耳にする、慰安婦の問題なんて存在しないといった趣旨の考え方(いや、さすがにそこまで極端な主張は、ないかな。まぁ、話を分かり易くするために、ね。)に与するものでは、断じてありません。戦争なんですよ、狂気なんですよ、何があってもおかしくはないんです。むしろ、慰安婦の問題等以外にだって、平和に暮らす我々には想像もつかないような狂ったことが行われていた可能性だってある、そういうことです。私の立場は極めて単純です。狂気の中で人間はとんでもないことをしでかすものだということは伝えられなければならない、そして何より、戦争反対、それだけです。でもまたまたちなみに、反面、日本人でありながら、慰安婦の問題をめぐって日本をそして日本人を堂々と誇らしげに糾弾する人々のことも、私には理解できませんね。こういう人、マスコミや偉いセンセイがたに多いようですけど。こういう人たちは、いったいどういう立場にいるつもりなんだろうか。狂気の中にある人間の所業、人道に対する罪悪、そして、スキャンダルに抗うために人間に可能な術(すべ)……この問題、そういう普遍的な問題として考えられなければいけないと、私などは思うのだけれど、こういう人たちは、自分達がこの問題を、ある特定の時代にある特定の場所で起こったあくまでも特殊的な個別的な、ローカルな問題に矮小化してしまいかねないっていう風には、思わないのかね。いやいや、あくまでも個別的な具体的な問題として解決されないかぎり、問題が解決されたとは言えない、ということもあり……いけませんいけません、混乱してまいりましたので、そういうことはさて置き、偉いセンセイがたをスパイにたとえるようで失礼極まりないかもしれませんけどね、敵対する国なり地方なりにおいて、味方の内部にいながら敵に与するような連中こそが、どちらからも一番信頼されないものだって、昔から相場が決まっているね。かえすがえすも失礼な言い方かもしれませんがね、韓国の人たちから見たら、こういう立場のセンセイがたの方が、日本の右翼や保守の人々よりも、もしかしたらずっとずっと、奇妙に見えるんじゃないかねぇ。でもまぁ、こういう風に対立を前提とする考え方はいつまでも対立という発想から逃れられないものであって、こういう私の考え方もまた、良くないね。

 
「然し、どうも、まア、よそうや。」(安吾「オモチャ箱」)

 
 話を中学校の元校長の事件に戻します。この事件のニュースをネット上で見た時、「倫理観のタガ外れた時、解放感味わえた」というこの元校長なる御仁の言葉が、気になった。というよりもむしろ、ちょっと腹が立った、いや、ちょっと不安がよぎった……。おっと、諸事情により本日はこれまで。本当は今回の記事、その怒りだとか不安について書くのが目的だったんだけどね。タイトルの「倫理という『スキル』?」というのも、その辺と関係します。今日アップした記事の内容は、あんまりそれとは関係ないかも……。ということで、続きは近日中に。