2015年4月27日月曜日

ナカハタ式・反ヘイト 1


 いわゆる現代詩について、そして現代詩人について、私は決して多くを知らない。ただ、いくつかの作品が、何人かの詩人が、強く印象に残っていて、たまに思い出したように鑑賞する、といった程度である。そういった詩人の一人に、岩田宏がいる。岩田宏の「住所とギョウザ」という作品は、私に最も強い印象を与えた現代詩の一つである。その岩田宏が、昨年(2014年)の暮れに亡くなっていたということを、つい最近になって友人に教えられた。そこで、追悼文というわけではないけれども、「住所とギョウザ」をめぐって私が考えたことなどをここに書き残しておきたい。まず、全文を引用しておく。

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「住所とギョウザ」  岩田宏

 
大森区馬込町東四ノ三〇

大森区馬込町東四ノ三〇

二度でも三度でも

腕章をはめたおとなに答えた

迷子のおれ ちっちゃなつぶ

夕日が消えるすこし前に

坂の下からななめに

リイ君がのぼってきた

おれは上から降りて行った

ほそい目で はずかしそうに笑うから

おれはリイ君が好きだった

リイ君はおれが好きだったか

夕日が消えたたそがれのなかで

おれたちは風や帆前船や

雪のふらない南洋のはなしした

そしたらみんなが走ってきて

綿あめのように集まって

飛行機みたいにみんな叫んだ

くさい くさい 朝鮮 くさい

おれすぐリイ君から離れて

口ぱくぱくさせて叫ぶふりした

くさい くさい 朝鮮 くさい

 
今それを思いだすたびに

おれは一皿五十円の

よなかのギョウザ屋に駈けこんで

なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって

たべちまうんだ

二皿でも三皿でも

二皿でも三皿でも!
 
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 いかがであろうか。

 この詩自体について、私はここであれこれ細かく語ることはしない。いや、語りたいことは多いのだけれども、私は自分にそのような資格があるとは思わない。ただ一点。この詩で直接描かれることは、地名や個人名といった個別的なことであり、特殊な状況である、にもかかわらず、国籍や人種を超えた子ども同士の交流、子どもの(あるいは人間そのものの?)残酷さ、そして、自己嫌悪や悔恨の念といった普遍的なものをありありと、この詩は読む者の前に「現前」させている。このように、個別、特殊、普遍、それらを一挙に表現できるというところに、詩という表現形式に独特の力があるのではないだろうか。少なくとも、哲学的な文章においてはこういったことはほぼ不可能だ。それはたとえば、ヘーゲルや西田幾多郎の苦労を考えればよくわかる。また、こういったことは小説という形式においても難しいのではないだろうか。

だが、日本において詩というものは、そして詩人というものは、不遇である。詩という表現形式においてしか表現できないことがあるにもかかわらず、である。たとえば「詩とは何か」といったことがきちんと研究されることもなければ、教育の場で教えられることもない、いやむしろ、なんでも書きたいことを思いついた言葉で表現すればそれが詩だ、などと言われてきたものだから、今では下手をすると詩とはせいぜいやたらと改行が多い散文、といった程度にしか考えられないし、実際、そのようなものが詩と称されることも多い(いや、確か太宰が書いたものだったか、やたらと改行の多い散文云々といったような批判をどこかで読んだ記憶があるので、こういう状況は何も今に始まったことではないのかもしれない)。それから、日本においていかに詩人が不遇であるかということは、たとえばノーベル文学賞を受賞した詩人の中に大学の教員がいかに多いかということを見てもわかる。日本の大学の先生に、どれだけいるだろうか、詩人が?もっとも日本には、和歌や俳句の強い伝統があるので、詩や詩人が不遇であるのはその辺の事情とも関連しているのかもしれないが。

 さて、一読してわかるように、「住所とギョウザ」はいわゆる在日の人々を、あるいは在日の人々との関係をテーマとした作品である。在日といえば、一時期ずいぶんとメディアを賑わしたヘイト・スピーチやヘイト・デモについて、最近はあまり聞かなくなったような気がするのだが、実際のところはどうなのだろう。ヘイト・デモが以前ほど行われなくなっているのか、あるいは世間の関心が薄れてきたということなのか。やれ「死ね」だのやれ「気ちがい」だの、そういった言葉が声を大にして叫ばれる様子は、はじめの頃こそ人々の間で興味本位的に話題になったものの、やはりそういう乱暴な表現に対しては大多数のまともな人間は耳を覆うようになってきたので、デモに集まる人々も減っており、報道されることもなくなってきたのだ……ということだと、思いたい。そしてヘイト・スピーチやヘイト・デモについては、法による規制をするべきか否かをめぐって議論がなされていたように思うが、結局、どういう方向に話が進んでいるのであろうか。

  法規制、しないとダメなのかねぇ……。

  無粋であることを承知で、一応言っておく。「しないとダメなのかねぇ……」という私の表現には、私の複雑な想いが込められている。で、今回の拙文の意図は、その複雑さについて語ることだったのだが、例によって諸事情により、今回はここまで。ただ、少しだけ言っておくと……物事は常に具体的に考えられなければならない。私にはいわゆる在日の大切な仲間が、私自身にとっての「リイ君」が、何人もいる。そういった「リイ君」たちとのかかわりの中で考えてきたことなどを手掛かりとして、次回、続けようと思う。