2017年5月29日月曜日

2017年5月18日木曜日

「第二十二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記

「第二十二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 
513日、「第二十二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。

テーマは「空気って、読めますか?」

参加者はマスターと私を含めて17名。

比較的大人数、そして、初めて参加してくださった方々もおられましたが、いつもと違った雰囲気の中、とても活発な、充実した対話となりました。

応援していただいた皆さま、ご参加いただいた皆さま、心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。

 
今回のテーマは、ある常連さんの参加者の方からご提案をいただいて決めました。

この時期、新しい職場や学校などで上手くコミュニケーションをとることが出来なくて悩んでいる人も多いのではないか、そして、コミュニケーションをとるうえでやっかいなことの一つに、「空気を読む/読めない」ということがあるのでではないか、といった問題意識からのご提案でした。


対話は、「空気を読めない」ことによってどのような困ったことになるのか、といったことについて語り合うことからはじまりました。ですが他方で、「空気を『読めない』」のではなくて、あえて「空気を『読まない』」ことが必要な場合もあるのではないかと、対話はいわば「弁証法的」に展開してゆきました(ちなみに「弁証法」は英語ではdialecticですが、そもそもは「対話」という意味です!)。

そして後半は、「空気を読む/読めない/読まない」といった表現が注目された場面もありました。これにかんしては……

・ある人が他の人に「何を伝えるか/伝えないか」、「どのように伝えるか/伝えないか」、そういったことはその人の感性や考え方、それまでの経験など、複雑にからみあった多くの要素によって決められるのであって、伝えられる側もまた、伝える側のそういった多くの要素も含めて伝えられたことを受け止めなければならない、特に、大切なコミュニケーションとは本来、そのように行なわれてきたはずである。しかしながら、「空気が読めない」だとか「空気を読め」だとかいった表現によって、そういった複雑な要素が切り捨てられてしまうのであって、その結果としてコミュニケーションが浅はかなものになってしまっていて、人々は十分な意思疎通が出来なくなってしまっているのではないか。そしてさらに悪いことに、十分な意思疎通が出来ないがゆえに心を病んでしまう人がいる、といったことも実際にあるのではないか(この点、「いい人」をめぐって行われた前回の対話ともつながる問題でした)。

・そもそもなぜ、「空気」という言葉が使われるのだろうか?「流れ」や「風潮」など、他にも似たような表現があるにもかかわらず、なぜ「空気」なのだろうか?


他にも、参加者の皆さんのユニークな観点からの数多くのご発言があり、いつもにも増して、時間が許せばいつまでもずっとずっと語り合いたいと想ってしまうような、そんな対話となりました。


前回に引き続き、コミュニケーションが私たちの心に与える深刻な影響、といったことが問題として浮かび上がってきたように想います。これはいつか、コミュニケーション全般の問題をテーマとした対話をしてみたいところですね……が、しかしながら、次回のテーマは……
 

「悪魔って、どこにいるんですか?」


です(笑)。

このテーマもまた、ある常連の参加者の方からのご提案で、決めさせていただきました。

次回、第二十三回「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は、610日に開催予定です。

次回もたくさんの方々のご参加を、お待ちしております!

 

今回ご紹介した本です。(Amazonアソシエイト(アフィリエイト))

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(高橋勇夫訳、2003年、ちくま学芸文庫)
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