2014年9月6日土曜日

童話的エクリチュール─木村裕一『きむら式 童話のつくり方』を読んで─

私はまったく存じ上げなかったのだけれど、著者は日本を代表する童話・絵本作家の一人だそうです。で、その著者によると「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」そうな。いや、だからといって私の場合は、なにも童話作家に転職すべくこの本を手にとったわけではありません(笑)。私はある大学の倫理学系の授業で、神話やら童話やらといったお話をネタにしているんだけれども、そのネタ探しというのが、実は意外と難しい。たとえば分量の問題。どんなに内容が良くて語りがいのあるお話であっても、短かすぎて授業の間(ま)がもたなかったり、逆に長すぎて下手をすると学生にお話を聞かせるだけで丸々一授業を使ってしまったりする、そういったおそれがあるんですよ。そんなわけで、いっそのこと自分でネタ用の童話を作ってしまおうかと思ったわけです。とりあえずハウツー本的なものに手を出そうという発想、我ながら安直だとは思いますが……(苦笑)。
ところがところが、この本、ただのハウツー本なんかではありません。実に様々な「顔」をもつ本です。もちろんメインの顔は、童話作家になることのススメであり、童話作家を目指す人への啓発なのですが、本書で展開される啓発は、童話に限らずものを書くという営み全般への、さらには仕事や生活全般への啓発にもなっています。さらにはそのまま哲学的な話題になるようなこともたくさん書かれています。その他にもさまざまな読みかたが出来る本なのですが、そういったことがすべて、やさしい言葉で書かれています。「易しい言葉」と「優しい言葉」で書かれています。

私が特に感心したのは、いわばコミュニケーション論としての童話論、という顔。帯にも載っている次の文は名文だと思う。

「安っぽいお子様ランチをつくるつもりでつくったら、童話はいいものは書けない。書いているのは大人なのだ。大人のボクが自分の日常の中で、真剣に感動したり発見したりしたもの、それらに正面から取り組んでお話をつくり、最後にそれを子供にもわかるような文字と文を探して表現する。
 それは本物のいいステーキを、子供の口に合うように小さく切ってあげるようなものだ。本物のステーキの味をちゃんと子供に与えるのが、本来の童話だと思う。」

 この文を読んで真っ先に思ったのは、この人、エマニュエル・レヴィナスを知っているのだろうか、ということ。フランスでリセの教育課程から哲学をなくそうではないかという議論があった時、レヴィナスは、いくらステーキが美味しいからといって赤ん坊にステーキを食べさせてはいけない、赤ん坊に必要なのはミルクだ、というようなことを言ったそうな。もちろんこれは皮肉であって、レヴィナスは学びの主体である生徒たちを挑発することによって、逆にリセでの哲学教育を守ろうとしたのである(このエピソードについては内田樹がどこかで詳しく書いていたように思う)。さて、哲学や倫理学(レヴィナスによれば「第一の哲学」)というステーキを、どうやって子供の口に合うように小さく切ってあげるか、それを工夫することが教員の仕事の一部だとすれば、童話作家も哲学や倫理学の教員も、その仕事の本質的な部分では変わらない、ということになる。

さて、子どもにステーキを食べさせるかのような「語り」というものを、「童話のエクリチュール」と呼ぶことが出来ると思う。エクリチュールって、例の、ロラン・バルトの、あれです。で、エクリチュール論っていうのはどういうお話かというとですね、え~っと……ごくごく簡単に言ってしまえば、「優しい言葉を使えば優しい人になる、乱暴な言葉を使えば乱暴な人になる」っていう、そういう考え方です。で、この童話のエクリチュールという発想、童話や哲学教育に限らず、いろいろとデリケートな問題にアプローチするための、一つの有力な方法なのではないかと思う。私がそういう方法について考え始めたのは、つかこうへいの『娘に語る祖国 『満州駅伝』─従軍慰安婦編』(1997年、光文社)を読んだのがきっかけ。彼はこの本についてのあるインタビューの中でこう語っている、「人間の業(ごう)というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るような優しい口調で一つひとつ説いていかなければ伝えられない」。つまりつかは「娘へのエクリチュール」とでもいった仕方で、この本を書いたのである。慰安婦の問題に限らず、エクリチュールの選択を間違ったせいで、なんら問題の解決には寄与しない、あるいはかえって問題を悪化させる、そういった言論が多すぎるように思う。そうそう、たとえば現在進行形で問題となっている朝日新聞の慰安婦報道にしても、「謝罪しなければならない」だとか「賠償するべきだ」といった規範強要的エクリチュール、さらには戦闘的エクリチュール(要するに喧嘩腰な発言)での言説を繰り返しているうちに朝日新聞(と、その報道に乗っかってしまった政治家や知識人の方々)は引っこみがつかなくなってしまって、で、社長さんも謝罪できずにいる、案外そういうことなんじゃなかろうか。で、そういった朝日新聞の姿勢に対して現在、やはり規範強要的エクリチュールや戦闘的エクリチュールによる攻撃が展開されている、という……トホホ。

話をもどします。

 私がその執筆を本職としている学術論文というものは、当然ながら学術的エクリチュールとでもいうべき語り口で書かれるわけですが、それ、残念ながら規範強要的エクリチュールや戦闘的エクリチュールにとっても近いんです。私自身が書く場合にも、無意識的にそんな書き方になってしまうことが多々ある、というか、ありすぎる。でもねぇ、正直、しんどいんですよ、そういう書き方って。そういう書き方で書くにしても、そういう書き方で書かれたものを読むにしても、しんどいんです。たとえば自分で書く場合には「この問題はもっと広い射程のもとで考えられなければならない」だとか「テクストを丹念に読むという研究の原点に立ち戻るべきである」なんて御大層な書き方をしている一方、このように書いている私に向かって「で、お前は何様なの?」と胡散臭そうに問いかけるもう一人の私がいたりする。で、そういう書き方が多用されているひと様の論文を読んでいると、どうにも表現の不快さが先回りして、内容がなかなか頭に入ってこない。と、なんとも精神衛生上よろしくないのです。ところが、童話的エクリチュールというのはですね、楽しいんですよ!その楽しさを、この本は存分に伝えてくれます。この本自体が、童話的エクリチュールで書かれていると言ってもいいのではないかと思います。思えば、学術的エクリチュールと童話的エクリチュールの根っこには、各々、相手を言葉によって「打ち負かそう」という姿勢と言葉によって相手を「喜ばそう」という姿勢があるわけで、後者の方が楽しさに、そして自分自身の喜びにも結びつくのは、当然なんでしょうけどね。いや待てよ、相手を議論によって「打ち負かす」ことに至上の喜びを感じる人々もいるけど……学問的営みって、闘争なんですかね?そう思っている学者さんたちには、今すぐに学問研究など辞めて格闘家にでも転向していただいて、そうだな……とりあえず、東京ドームの地下闘技場にでも向かっていただきたい。
 
 話をもどします。


 本書は、読者を楽しませながら、「童話、書いてみようかな」とか「童話、書いてみたいな」とか、そういう風に思わせてくれる、易しくて優しい本です。また、最初にも書いたように、様々な場面での考え方のヒントになるようなことも、たくさん書かれています。さぁ、私も童話を書かなければならない、書くべきだ……いや、書いてみようかな。



 

2014年9月1日月曜日

授業アンケートへのコメント

 遅ればせながら、ブログ開設!イェイ!
 とは言うものの、まったく何の予備知識が無いままにとりあえず開設してしまったので、しばらく試行錯誤を続けることになるかと思います。
 で、テストを兼ねて最初の記事。
 某大学で行われている授業アンケートの結果に対する、担当教員からのコメント文。
 一応毎年、コメントを集めた小冊子が作られて、これは全教職員、全学生が読めます。
 まぁ、ほとんど誰も読んでいないようですがね……

 しかぁ~し!

 何年か前、なんとまぁ、小冊子を読んで興味をもっただとかで、オイラの授業を履修してくれた学生さんがおりました、感謝!
 そんなわけで、やはり読んでくれる人がいる可能性がある以上、一応、毎年手を抜かずに、新しい文章を書くことにしています。どんな文でも一生懸命、ええ、なにしろ命がけですんで。

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 この授業アンケート、私の授業は幸いにも毎回比較的評価が高い。まったくもって寛大な諸君のおかげである、感謝!だがちょっと考えて欲しい。諸君の「本当の」評価は果してどのくらい公開された評価に反映されているだろうか。たとえば(これは大いにありそうなことだが)、諸君の中に私に対して何とも言えない不快感を抱いている者がいたとする。だがそういった不快感を示すためのアンケート項目などはない。そのために自由記述欄があるのだという考え方もあるが、こういった嫌悪感はまさに「何とも言えない」のだから、それを言葉で表現することは不可能なのである、言いかえれば、そういったものは諸君の語彙を越えているのである。そこで人文学の出番である。私の授業の大きな目標の一つは、諸君が語彙を広げること、「何とも言えない」ことを言葉にできるようになることである。諸君がこのような能力を得たならば、私の授業をより正しく評価・批判することも可能になるのである(この話の流れには実は根本的な大問題が隠されているのであるが……まぁ、詳しくは私の「哲学」の授業にて)。……まぁそんなことは別にしても、悪くないもんですよ、語彙が広がるって。がんばって下さい。