2016年9月23日金曜日

宣伝です(笑)


宣伝です(笑)



私が書いたヘーゲル関係の文章を掲載していただいた本が出版されたので、宣伝です(もう、ちょっと前から右側の「自著紹介」にアマゾンへのリンクだけは貼ってありますが 笑)。

『ヘーゲル講義録入門』(法政大学出版局)「第七章 歴史哲学講義」(p.135-149を執筆しております。

ヘーゲルのテクストといえば、たとえば岩波書店の『ヘーゲル全集』が全20巻から成っているように、一般的にはそこそこのボリュームがあると思われているかもしれません。しかし実際は、ヘーゲル自身が書いたものは、あまり多くはないのです(そういう意味では、だれそれの「テクスト」という表現、便利ですね 笑)。さらに、ヘーゲルの生前に出版されたものは、たったの四作品(『精神現象学』、『大論理学』、『エンチクロペディー』、『法の哲学』)しかありませんでした。現在刊行されているヘーゲルのテクストの中で大部分を占めるのは、何といってもヘーゲルの「講義録」、つまり、ヘーゲルの授業を聴いた学生たちのとったノートを中心に、ヘーゲルが授業の準備のために書いた文章(講義草稿)なども加えてまとめられた、講義の記録であり、講義を再現したもの、です。

ただ、これまで刊行されてきた講義録には、大いに問題がありました。たとえば、ちょっと考えればわかるように、講義の聴き手である学生の関心によって、講義がどのように聴かれたか、また、講義のどの部分が重点的に記録されたか、といった点に、いわばバラつきがあるわけです。また、ヘーゲルは同じテーマを何年かにわたって講義していたのですが、ヘーゲルはどのテーマも探究することを止めなかった人だったので、たとえばある年の講義の内容と、その前年あるいは翌年に行われた同一テーマの講義とでは、その内容に大きな違いがあった、ということもあり得るわけです(いやぁ~、真面目ですね!この点、学生に何年も、ヘタをするとウン十年も、一切改定のない教科書を買わせて、授業中に延々と読み上げることで講義とし、しかもテストにはその教科書のみが持ち込み可とする、つまり単位を金で売っている某国の大学教授様たちとは、大違い……いえいえ、なんでもありませんなんでもありません^^;)。ところが、現在刊行されている講義録の多くが、ヘーゲルの死後、たとえば、講義の記録にしてもそれがどの年のどの学期に行われた講義の記録なのかといったことが、また、ヘーゲルの講義草稿にしてもそれがいつ頃書かれたものなのかといったことが、配慮されずにごちゃまぜにされて編集されてしまった、ということもあるのです。つまり、講義録を読んでもヘーゲルの考えていたことが必ずしも正しく伝わらない、あるいは理解できない、という危険があったのでした。

ところが最近、本場ドイツで、新たに発見された講義のノートや講義草稿を手がかりとして、新しい講義録が刊行されました。その新しい講義録を手がかりとしてヘーゲル哲学について分かりやすく論じたものが、本書『ヘーゲル講義録入門』なのであります。


さて、私の執筆した箇所についてですが……まぁ、ご関心のある方は本書を手にとっていただくとして(笑)、ほんのちょっとだけお話を。

まず、ヘーゲルの歴史哲学といえば、一般的にあまり評判が良いとは言えないようですね。ヘーゲルの歴史観については、ヨーロッパを頂点とした楽観的な進歩史観だとか、いわゆる「大きな物語」の典型である、といった評価が一般的にはほぼ定着しているようであります。ところが、私が本書で論じた歴史哲学(世界史の哲学)講義の新しい版を読むと、ヘーゲルが決してそういった単純な発想をしていたわけではなく、むしろ、ヨーロッパの先行きが困難であることをしっかりと意識しており、また、危機意識さえ抱いていたことがわかります。それから、歴史における「海」の意義についての文章を読むと、ヘーゲルって、現代的な意味で「男のロマン」が溢れる人物だったのではないかという気がしてきます(笑)。

それからそれから、今回は「入門」ということで、ヘーゲル哲学を論じる際にはどうしても避けて通ることの出来ないヘーゲル哲学に固有の概念・考え方について、出来るだけ理解しやすいように噛み砕いて書くことを心がけました。結果は……う~ん、ちょっと、噛み砕き足りなかったかもしれません。それでも、他の執筆者の方々の、アカデミックな雰囲気溢れる力作の中、私書いた箇所は、もしかしたら「浮いてる」かもしれません^^;

でもでも……売れるといいなぁ~(笑)

そうそう、今回、アマゾンに初めて、私の略歴が載りました。よろしかったら、そちらだけでもご覧ください(アマゾンの商品ページの「商品の説明をすべて表示する」をクリックしてください)。

『ヘーゲル講義録入門』(法政大学出版局、2016年)

http://amzn.to/2cRqqom
アマゾン・アソシエイト(アフィリエイト)

2016年9月21日水曜日

KUMAMON around the World! from Dominica.

 
Now, our Kumamon enjoys his days in Dominica, like in a paradise!
 



If you are interested in this project, please check the link below.
http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2016/07/kumamon-around-world.html

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十五回開催情報


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十五回開催情報


 
「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

 
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竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 

第十五回 テーマ 「どんな『欲』がありますか?」

開催日時 2016108日(土) 17:00頃〜(19:30頃までを予定)

開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp

料金 1000円(1drink付き)

 

基本ルール

1 人の話はちゃんと聞く

2 「人それぞれ」は禁止

3 「偉い人」には頼らない

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「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第十五回目のテーマは……

 
「どんな『欲』がありますか?」

 
です。

今回、我らがマスターが、フライヤーをデザインしてくれただけでなく、素晴しい文章も書いてくれましたので、掲載いたします。

……念のために申し上げておきますが、主催者中畑の職務怠慢、といったことではございませんので、誤解のないようにお願いいたします^^;

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貴方が持っているものが貴方を意味するなら、

もし貴方が持っているものを失ったら、

 貴方はいったい誰なんだろう?

 

皆さんにはどんな「欲」がありますか?

どんな「欲」が大切ですか?

 

 「欲」って良い事?悪い事?

 「欲」ってコントロール出来る?

 「欲」と「欲望」って違うの?

 

さっきから僕の後ろで、

 猫が可愛く鳴いているのです。

 猫の「欲」を満たす事で、

 僕の「欲」を満たします。

 

 今回も多くの方々のご参加を、お待ちしております!

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もちろん、主催者中畑も……

今回も多くの方々のご参加を、お待ちしております!(笑)
 
 
                                                          (by the master of the bar bamboo)
 

2016年9月16日金曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 二年目を迎えて(後篇)


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 二年目を迎えて(後篇)



 
だいぶ回り道をしてしまったが、先に箇条書きにした、某先生が哲学カフェに感じたという四つの「危うさ」について検討してゆく。が、その前に、ここでもうちょっと回り道……な~んてことを言うと、そろそろ「いい加減にしろ!」だとか「いつまでひっぱるつもりだ!?」などといったお怒りの声が聞こえてきそうですが、これからさせていただく回り道を経ることによって、この四つの「危うさ」について、より深く検討することができるようになるのでありますよ、たぶん。さらに、これからさせていただく回り道の中で、私が自分自身の主催する哲学カフェ・竹林茶話会を、どのような集いにしてゆきたいのか、どのような集いにしてゆこうとしているのか、といったことにも、言及されるでしょう。そしてそのような観点からもまた、四つの「危うさ」について、より深く、また、私自身の立場から、検討することが可能になるのでありますよ、たぶん……このようにもったいぶった書き方をしていると、今回はなにやら大きな話になってしまうような気もしますが……まぁ、いいでしょう?なにしろ、前回、今回と、竹林茶話会・発足一周年の「記念」の文章なので(笑)。


ということで、回り道開始。

これまで哲学カフェを主催してみて、そしていくつかの哲学カフェや哲学対話に参加してみて、そこに集まる人たちには大きく分けて三つのタイプの人がちがいる、ということに気がついた。


.哲学研究を専門とする人たち(私も含めて。いわば「業界人」(笑))

.哲学を学んだことのある「つもり」の人たち

.哲学にまったく、あるいは、ほとんど縁がないと思っている人たち。


以下、Bが話の中心になるので、AやCについてはBとの比較において簡単に述べるにとどめる。

まずはBとCとの比較から。BもCも、哲学を前回述べたような意味で何か高尚なものだと想っていて、哲学に興味を抱いている、という点では共通している(なにしろ、わざわざ「哲学」カフェや「哲学」対話なるものに参加するほどなのだから)。だが、BとCとが決定的に異なるのは、Bは自分たちが「哲学とはなにか」あるいは「哲学とはこうあるべきだ」といったことを、知っていると「思っている」、それに対して、Cはそういったことを知っているとは「思っていない」、という点である……あ、ここで自分のことをCだと思った皆さん、いいんです、いいんです!Cは、いいんです!皆さんに対して批判がましいことなどは、今回は一切、書きませんので、どうぞご安心してお読み続けください(笑)

次にBとAの比較。Bには、たとえば大学等の一般教養の授業で哲学などの人文系の科目を学び、そういった科目が好きだった、さらには、自分ではそういった科目が得意だった「つもり」の人が多い。あるいは自分で哲学関係の本を熱心に読んだことがある「つもり」、あるいは読んでいる「つもり」の人たちもいる。Bの中でもこういった人たちは、自分たちはAに近い立場である、あるいは自分たちはAに属していると思っている場合もある。だからと言って、Bは、必ずしもAに対して友好的なわけではない。むしろ、Aに属する人のことを「あんな奴(ら)は哲学者じゃない」と言ったり、Aのやっていることを「あんなものは哲学じゃない」とか言ったりする。そしてその裏返しとしていわば消極的に、Bは自分のやっていることこそ「哲学」と呼ぶに値する、と主張していることになるわけだ(以下、「哲学」とカギカッコつきで表記する際には、ちょっと特別な意味を込めます。それがどういう意味なのかは、追々……)。そしてさらに言えば、こういった攻撃、こういった主張は、「見下す」というかたちでCの人々に対しても向けられることもある。また逆に、他の人(々)がBに向けて素朴な問いかけをしたりすると、Bは勝手に自分がバカされたとでも思い込み、激怒する場合もある。こういうBを、自分こそはAであるつもりでいるという意味で「A寄りのB」、あるいは、「Aの劣化版」と表現しおこう……というわけで、Aの皆さま、Cの皆さま、お待たせいたしました、以下、執拗なBへの攻撃が始まります(笑)。思い切って言ってしまうが、実はこういうBが一番やっかいである。「やっかいである」というのは、私が参加する哲学カフェや哲学対話にこのような人がいると、私個人、一人の参加者としてまず気分の良いものではない。また、私自身がファシリテーターである場合には扱いに非常に困るのであり、他の参加者の方々(特にCの方々が)がこういった人のせいで不快な想いをしないか、もっとひどい場合には、こういった人にまかり間違って感化されてしまうのではないか、などと心配になる、という意味である。



ところで先ほど、哲学がなにか高尚なものだと思っているという点はBとCに共通すると書いたが、もちろん、この点はAにも共通する。なにしろAは哲学の専門家なのであり、自分の「商売」は高尚なものを扱っている、ということでなくては困るわけだ(笑)。ところがAとBを比較すると、BはむしろA以上に「哲学」というものを高尚なものとしている。いや、Bにとって、Aとは別の事情により、「哲学」は高尚なものでないと困るのだ。私の身近な哲学カフェ関係者のAたちは、見事にみんながみんな、ファシリテーターとしても参加者としても、「哲学とはこういうものだ」だとか「そんなものは哲学ではない」という態度は取らない。私もそういう態度は取っていない……つもりではある。さらに言えば私は、そのような態度とは逆に、参加者の話を聞くことによって、自分自身の哲学という営みの可能性が広がってゆくことを実感しているし、また、今後もそうなることを願っている。なぜか。そうなることが単純に楽しいし、嬉しいからである。そしてそのような喜ばしい営みこそ、前回述べたような意味での「知を愛し求める」営みとしての哲学であると、私は想っている。

ところが「A寄りのB」あるいは「劣化したA」にとっては、「高尚さ」はそのままに、「哲学」という営みは、単純に楽しかったり嬉しかったりといったものではなく、一種の「修行」のようなものであるらしい。……いや、これは極端な話でもなんでもなく、たとえば私の経験上、Bが「哲学や宗教」あるいは「宗教と哲学」などと哲学と宗教を同列に置いたり、あるいは対話の場で専門用語をふんだんに多発しながら宗教的な話を延々と続けることがあるのも、こういったことと無縁ではないのかもしれない(一応念のため申し上げてくが、哲学と宗教とは、断じて違います!まったくの別物です!)。そしてさらにやっかいなことに、大抵の場合、Bは自分が他の参加者よりも「修行」において先に進んでいると思い込んでいるのであり、そのような思い込みを前提として、哲学カフェや哲学対話に参加するのである。


 ところで先ほど、Bは自分たちが「哲学とはなにか」あるいは「哲学とはこうあるべきだ」といったことを知っていると「思っている」、と書いた。なぜ知っていると「思っている」のか?それは、自分が偉い人間あるいは特別な人間だと思っているからだ。ではなぜ、偉い人間あるいは特別な人間だと思っているのか?それは自分が「哲学」を知っているからだ……もう、どうしようもない悪循環ですね(笑)。なぜBがこういった悪循環にとらわれてしまったのか、それは大いに考えてみなければならない問題なのであろうが、今回はやめておく。ただ、B自身は、自分自身がこのような悪循環の上に成り立っていることに気が付かない、あるいは、もしも気が付いたとしても、そこをなんとか改善しよう、という気には、まずならない。そしてBにとって、哲学カフェや哲学対話とは対話の場なのではなく、自分が「哲学」と呼ぶものを手段あるいは武器とした、自己主張や自己表現の場なのである。なぜBは、自分にそんなことをする資格あるいは権利があると思えるのか、ここにもまた悪循環が見られる。つまり、Bは自分が偉い人であり特別な存在なのであって、修行において他の人たちより進んでいると思っているからだ。そしてなぜそのように思うのかというと……(以下省略 笑)。そういったわけで、Bにとっては、自分の話が他の人たちに理解されるかどうかは本当のところどうでもイイのである。だから、Bは自分にしか分からない言葉や表現を多用する。それはBがこれまで聞きかじったことがあるだけなのにもかかわらず理解している「つもり」になっている哲学や宗教の専門用語だったり、あるいはBが勝手な思い込みで勝手な意味を付与した言葉や表現だったりする。だから、Bの話は比較的長い。ファシリテーターや他の参加者の方々がうんざりするほど長いことも、多々ある。だから、Bは「○×ってなんだろう?」という問いかけのかたちで発言をしておいて、続けて自分の見解をさもありがたい「真理」(笑)かなにかのように、もったいぶって語る……そして、そのような「真理」(笑)こそが、Bにとっての「哲学」の内容なのだ。
 

ところで(……ところで、今回、「ところで」が多いですね、ごめんなさいごめんなさい)、私の経験上、Bの多くが好んで口にしたがる言葉がある。それは、竹林茶話会のルールで禁止されている「人それぞれ」という言葉である。この言葉は、自分(たち)と他の人(たち)が違っていてもその違いを積極的に認めようという、寛容な言葉に聞こえるかもしれない。たしかに、一般的にはそのような意味の言葉として流通しているのであろう。このような言葉を、自分を偉い人であり特別な存在であり修行において他の人たちよりはるかに進んでいると思い込んでいるBが好んで用いるというのは、不可解に思われるかもしれな。なにしろBにとっては、自分の感じ方や考え方が、さらに言えば自分が一番なのであり(笑)、他の人たちは、誰もみな厳しい「修行」を経てBの感じ方や考え方に近づかなければならないのであるから(いや、実際にはBからすれば、他の人たちがどんなにがんばって「修行」したとしても、Bに追いつくことは決してないのであるが……なにしろ、Bはいつでも、いつになっても、Bの中では、B自身にとっては、永遠に「一番」なのだから 笑)、このような寛容な言葉がBの口から出ることはないはずなのである。しかし、Bの意図は、このような寛容さとは、実はまったく無縁なのであり、言ってしまえば、歪んでいる、のだ。つまり、Bがこの言葉を口にする時、そこには他の人(たち)と自分とは違うのだということを主張しよう、あるいは、他の人(たち)との自分の違いを守ろう、という意図があるのだ。もちろん、この場合の「違い」とは、たとえば「赤という色」と「白という色」が「違う」といった場合のような単純な「違い」なのではなく、自分が偉い人であり特別な存在であることの根拠となっている「違い」であり、また逆に、偉い人であり特別な存在であるがゆえの「違い」なのである。そしてBが、そのことにまったく無自覚である場合は非常にやっかいであり、そしてさらに、そのことを自覚しつつなおかつそのような自分のあり方を正当化しようとしている場合には、もう救いようがない……かもしれない。

 
ここで、Bへの執拗な攻撃を一時中断して、対話の場における「人それぞれ」ということについて、少し考えてみよう。またしても回り道に回り道を重ねるようで恐縮であるが、このことを通じて、私が哲学カフェや哲学対話というものをどのような「場」であると考えているのか、そして、そのような「場」にBがいるとなぜ困るのか、といったことについても考えることになるのでありますよ、たぶん。

そもそも人間はなぜ「対話」をするのか?

それは一つには……相当乱暴で極端ではるが、あえて端的に言ってしまおう……

 殺し合いをせずに済ますため、だ。

 あるいは

殺し合いになることを避けるため、だ。

逆に、またしても乱暴で極端ではあるが、他人を殺してまで主張する必要のない「独自の」感じ方や考え方などというものに、どんな価値があるというのか?だから実際のところ、変えてはならないほど大切な「人それぞれ」など、ほとんど、在りはしないのかもしれない。(逆にむしろ、他の人(たち)を殺すことによって自分の感じ方や考え方の価値を高めようと、現実に他の人(たち)を殺してしまうという、とんでもなく迷惑な連中が、最近は多いようだが)。ところで、Bの場合には他の人たちを殺すことは、原理的にはあり得ない、なぜならば、Bは自己主張・自己表現の相手として、ただその限りにおいてのみであるが、他の人たちをどうしても必要とするからである。

以下、一般論。だいたい人間、イイ大人にもなれば、多かれ少なかれ自分を嫌悪するようになるものだ。自分自身の感じ方や考え方の「傾向」や「癖」のようなものに気づき、それを変えようのないことにうんざりしてくるものだ。あるいは、自分の「弱い」部分に気づき、その部分を、あるいはそういった部分をどうすることもできない自分に、愛想が尽きそうになることもある、と言ってもよい。だが反面、もちろん人間には日常生活においてさまざまな立場というものがあるものだから、多くの場面において自分のあり方を維持しなければならない。だから、言葉において、行動において、態度において、他の人たちに対して、そして自分に対して、「強く」あらざるを得ない。まぁ、日常を維持するためには、そういったことは仕方のないことなのであろう。だが、私の経験上、Bは、日常的な事柄についても、日常の些細な事柄をめぐっても、必要以上に「強く」あろうとする。そしてBは、哲学を、いや、厳密に言えばBが「哲学」と名付けているものを、先にも述べたよういに、いわば「武器」にしてしまうのである(信じられないかもしれないが、あるうどん好きなBが、そば好きの人たちを、「哲学」を武器に、大マジメに「哲学」的に攻撃している現場に、私は居合わせたことがある)。繰り返しになるようだが、Bにとってそれは「哲学」だろうと「宗教」だろうとその他どのような御大層な呼ばれ方をするものであろうと大差のない、摩訶不思議な、不気味なものである。

……このようにBを執拗に攻撃していると、「ちょっと待て、中畑!お前自身は、いったいどうなんだ!?」と、お怒りになる向きもあろう。たしかに私自身、哲学という看板のもと、こうして現にBを非常に「強く」攻撃している。でもまぁ、さしあたって私自身のことは棚に上げさせておいてください。文句のある奴はオモテに出ろ!そして……そのままオモテにいてください(笑)。

ところで人間は不思議なことに、というか、困ったことに、自分の中のダメな部分を、あるいはダメな自分そのものを、嫌悪すると同時に愛してしまう(ここでいう「ダメな部分」とは、なんらかの身体的な障害や知的な障碍では、もちろんありません、念のため)。そして、人によっては、自分がダメなやつだということはわかっていても、そのままそのダメな自分であり続けようとするし、そして場合によっては、自分がダメであることを正当化してまで「強く」出ることもある。これもまた、やはり私の経験から申し上げることではあるが、Bには、こういった傾向が特に顕著である。Bは、自分のダメな部分をも、自分がダメであること自体を、いってみれば自分の「個性」としてしまうのである。「人それぞれ」を歪んだかたちで解釈し、自分に都合の良いように、いわば悪用するわけである。そして、他人のダメなところは鬼の首を取ったかのように批判したりするくせに、反面、少しでも自分のダメなところを指摘されそうになると、その危険を敏感に察知する。そして今度は「みんなダメなんだからみんな同じじゃないか」などと、開き直ったかのようなことを言ったりする。こうなるともう、支離滅裂である。だがここで「みんな同じ?やめてくれ。俺はお前なんかとは違うよ!」などと言ってはならない。そんなことを言ってしまえば、このような人の思うツボである。なぜならそれは、まさにBだけが「違う」ということを認めることになり、「違う」んだから「偉い」んだとか「特別」なんだとかBに胸をはって主張させてしまうことになるからである。ようするに、つまらないことなのだ、Bが大切に大切にしている、ダメさも、個性も。変えられるのであれば、変えてしまった方が、良いのだ。変われるのならば、変わってしまった方が、良いのだ。


さて、ここでちょっとまとめつつ、少しずつ次の展開へ。

「強く」あるためには、さらには、自分の「弱さ」、自分のダメな部分をも無理やり肯定することを通じて自分を偉い人であり特別な存在であるとしつづけるためには、なんらかの権威や拠り所のようなものが、あるいは「武器」が必要だ。そしてBにとっては、それが彼らの「哲学」なのだ。もちろん、日常において「強く」あらねばならない場面など、程度の差こそあれ、誰にでもある。だがしかし、人は自分を、自分のあり方を、どこまで守らなければならないのだろうか?常に、どんな場面においても、「哲学」などという御大層なものを「武器」として持ち出してまで、自分を守らなければならないほど、Bは自分のことが大好きなのだろうか?なぜBは、そんなにも自分のあり方を守ろうとするのか、つまり、「変わる」ことを頑なに拒むのか?(他の人たちには、修行して「変わる」よう、明に暗に求めるというのに 笑)Bのこういったあり方の根底にあるものを、たとえば自己顕示欲だとか承認欲求だとか、あるいは前回も言及した内田樹大先生が言うところの「俺を尊敬しろ!」願望(笑)だとか呼んで片付けるのは簡単である。だがこれは、人間というものそのものに、もっと根深いものなのかもしれない。実はこれ、かの文豪ドストエフスキーの代表作『罪と罰』のテーマでもあると、私は考えているのだが……おっと、さすがにこの話をここでするわけにはいかないが、ただ、こういった問題はかのドストエフスキー大先生でさえもテーマとせざるを得なかった大問題である……のかもしれない、ということだけは申し上げておきたい。

 
さて、これまでの話をふまえて、なぜBが「やっかい」なのか、あらためて言ってしまおう。それは、Bが「変わる」ということを頑なに拒むからであり、そしてこの「変わる」ということこそが、哲学カフェや哲学対話の最大の意義であり魅力であると、私が考えているからである。

ではなぜ、変わらなければならないのか?いや、変わる「必要」があるわけではない。変わら「なければならない」というわけでもない。いやむしろ、何度か述べたように、日常生活の多くの場面において、私たちはむしろ、簡単に「変わる」ことが許されない。だが哲学カフェや哲学対話においては、大前提として、「変わり得る」「変わっても良い」という態度で対話に臨むのと、変わることを頑なに拒むという態度で対話に臨むのとでは、対話のあり方がまったく違ってくる、いやむしろ、後者のような態度で対話というものが成り立つのか、私は疑わしいと思っている。そして、対話の場においてそのような態度をとるのが、Bなのであり、だからBは「やっかい」なのだ。

だが他方で、考えようによっては、Bはとても不幸でかわいそう、なのかもしれない。というのは、自分に都合の良いように「人それぞれ」を主張してまで、自分を偉い人であり特別な存在であるとすることによって、自分自身に、いわば枷(かせ)をはめている、とも言えるからである。つまりBは、偉い人であり特別な存在であることを、もはややめることができない、もはや「変わる」ことができないのだ。
 
「強く」あらねばならない日常から離れて、「弱さ」を「弱さ」として出せる場あるのであれば、それはそれで良いではないか。誰もが日常と同じ仕方で「強さ」の裏付けを、「武器」を、必要とはしない、あるいは、そういったものから「解放」されることができる、そういった場があるのであれば、それはそれで良いではないか。そしてそのような場においてこそ、人間は自分の、そして他の人(たち)の、変化を受け入れることができるのではないだろうか。


さて、お待たせしました(笑)。ようやく、某先生の四つの「危うさ」について論じる準備ができました。

・「哲学カフェでは、楽しさを優先するあまり考えることの苦しさを避けてしまう『危うさ』がある。」

そもそも哲学カフェとは、参加者たちが独りで、あたかも「修行」でもするかのように思索する場なのではない。ものを考えてゆく上で、仮に、一人であたかも修行者のように真理を探究してゆく仕方と、他の人々との対話を通じて考えてゆこうとする立場とがあるとして、前者の仕方において人は容易にBになってしまい得る、みずから悪循環にはまり込んでしまう恐れがある。もしかしたらそれはそれで、大きな成果を挙げることになるのかもしれない。しかし、私がそもそも問題だと思うのは、某先生にしろBにしろ、「考える」という営みが「苦しい」営みである、ということを大前提にしている、ということである。いやむしろ、「考える」ということそのものよりも、むしろ「苦しむ」ということにこそ意義があるということを大前提としているのではないか、「何をするにしても、苦しむことにこそ人間の営みの価値がある」とすら考えているのではないか、いや、考えることすらなく大前提としているのではないか、ということである。また、もしも考えることが苦しいことだとすれば……いや、実際に苦しいことでもある。私も一応は、某先生と同じく哲学の専門家なので、そんなことはよくわかっている……つもりである。しかし、だからこその「対話」なのではないか。苦しいことだからといって、いや、苦しことだからこそ、なにも苦しい顔をしてすることはないではないか。本来ならば苦しい営みが、たとえば他の人たちのちょっとしたユーモアによって、ふっと楽しい営みになるのであれば、それに越したことはないではないか。そしてそのことがまた、自分の考え方なり感じ方なりを、抵抗なく「変える」ためのきっかけとなることも、あるのではないだろうか。

・「哲学は難解な『学問』であるのだが、哲学カフェにおいてはものごとを単純で平易にとらえてしまう『危うさ』がある。」

他の人の言うことに対して、さらには、他の人自身に対して、「お前の言ってることは単純だ」、とかなんとか言うことは、実はいくらでも可能である。だが、そのように言うための立脚点あるいは基準とは、いったい、なんなのだ?ある人のものごとのとらえ方を、単純だの平易だの断定してしまえる観点とは、いったい、どのようなものなのだ?

哲学カフェや哲学対話といった営みの意義は、そのような立脚点や基準そのものが変わり得るという可能性の上に成り立つ、と私は考える。大切なことは、他の人の言っていることや考えていることを単純だとか浅はかだとか言う前に、そのように他の人を見下してしまう立脚点や基準を怖れずに吟味することだ。それは場合によっては勇気のいることである。そして、常に強くあらねばならないと思っている人々、Bのような人々にとっては、「強さ」というものはこのような「勇気」がないことの言い換えにすぎないのかもしれない……とか言ってしまったら、ちょっと文学的に過ぎるだろうか。

・「哲学カフェにおいては、『自分や他人のことを思うあまり』、考え方の『対立』をそのままにしてしまう『危うさ』がある。」

むしろ、対立をそのままにしない、対立する参加者の感じ方や考え方が変わっていくことを目指す「場」が哲学カフェであり哲学対話なのであると、私は考えている。また、某先生のこのような危機感は「考え方は人それぞれは禁止」を竹林茶話会の基本ルールの一つとしている私にも共有できるものであるかのように思われるかもしれないが、それは違う。某先生の言う、「自分や他人のことを思うあまり」という発想の根底には、おそらく、「人は自分のあり方を守ろうとするものである」という人間観があるのであり、哲学カフェや哲学対話において参加者はそのような人間観をお互いに投影しあってしまう、つまり、参加者の各々が「私は他の人にあり方を変えることを強いないのだから、他の人も私に自分のあり方を変えることを強いることはあってはならない」とお互いに想定しあっている、そのような場が哲学カフェや哲学対話であると、某先生はとらえているのであろう。しかし、哲学カフェあるいは哲学対話というものは、そもそもそのようなあり方を互いに変えてゆくことが可能だという前提のもとに営まれるものであると、私は考えている。

・「哲学カフェにおいては自分の理解できる範囲でしか考えず、それで考えた気になってしまったりする『危うさ』がある。」

そもそも、「自分の理解できる範囲」というものは、どのようにして決まっているものなのであろうか?は「自分で考える」ということがいったいどのようなことなのか、もっと言ってしまえば、私たちは「自分で」考えていると思っている時、はして本当に「自分で」考えているのだろうか、という問題と結びつく。特にAやBの場合、自分の考え方としているものが、自分が学んできた哲学者や思想家の考え方である場合が、往々にしてある。つまり、AにしてもBにしても何らかの権威や拠りどころ(それはAであれば自分の研究対象の哲学者でありその仕事であるだろうし、またBであれば、繰り返しになるが、自分の「哲学」なのである)の上に、「自分で」ということが成り立っている、ということに気が付かない。いや、これはAやBに限った問題ではないのである。Cにしても、つまり、あらゆる人たちが、思考や判断を「自分で」おこなっていると考えがちであろうが、実際には、それまで育ってきた環境や受けてきた教育の中で、教えられ学ばれてきたものなのである、そして思考や判断が「あたり前」であればあるほど、そういったことに気が付くことは難しい。育ってきた環境も受けてきた教育も自分とは違う他の人と対話することによって、これは「自分の」考えだ、ということ自体を流動化させることが可能になる、私は哲学カフェや哲学対話にそのような可能性を期待している。


さてここで、今回のこの文章における、執拗なBへの攻撃について一言……あ、先ほどオモテに出た皆さん、もう、もどって来てくださっても結構です(笑)。実は、他でもない、私自身もBだったりするのである。だいたい、立場からして、万年非常勤講師である私など、Aであるというようりは、せいぜい「中途半端なA」あるいは「B寄りのA」でしかないであろう、ということは、私の立場はやはりBと重なるわけである。さらにここで「攻撃の対象となったBとは、実は私自身にほかならないのである」などと言えたら面白いのかもしれないが、残念ながら私独りだけのことではなく、実際にこういう人たち、結構多いのである。そしてもしかしたら、この文章を読み始めたころには「自分はCだ」とか「自分はBではない」と想っていた皆さんの中には、読み進めるにつれて、「もしかしたら自分もBかも」とか「自分にもB的な要素があるかも」とか想うようになった方々もいらっしゃるかもしれませんね。そうなんですよ、実はBとは……おっと、今回ややめときましょう(笑)。

Bのような人たちが、残念ながら、日本での「哲学」のあり方を体現しているのである。そしてそれは、実はAのせいだったりする。つまり、Aのこれまでの職務怠慢がその原因だったりする。というのは、Aたちは自分たちがその専門家でありながら、そもそも「哲学とはなにか」といった問いにきちんと取り組むことを、あまりにも怠ってきすぎた、そしてその結果、哲学は、一方ではどうやら高尚なものであるらしいが、他方ではなにやら得体の知れないものであるらしい、といった一般的な印象が流布してしまい、だからこそBのような、哲学をいわば「悪用」あるいは「誤用」する多くの人々が存在する、ということになってしまっているのである。……おっと、こういった問題にかんしては、ただの劣化版にすぎないせよ、一応私自身もAの端くれではあるのだから、大いに反省しなければならない、皆さま、ごめんなさいごめんなさい……ということで、「哲学とはなにか」といった問いに対する回答を、私はいわば草の根から創ってゆこうと想っている。それはもちろん、私が独りでできることでもないし、私が独りでやってよいことでもない。哲学カフェや哲学対話への参加者の皆さんと一緒に、創ってゆきたいと、私は想う。

 
そして最後に、「変わる」ということについて言えば、哲学カフェや哲学対話に参加することを通じて、そして何よりも、竹林茶話会を主催することによって、私自身が変わってきた。その変化は、竹林茶話会においてのみならず、私のあらゆる哲学的な営みにおいて、たとえば執筆において、教育において、そして思索において、反映されつつある。そしてこれからも、私は変わってゆくであろうし、また、変わってゆくことを望んでいる。

……な~んて、我ながら気恥ずかしくなってくるような言葉や表現が満載でしたが、そこはまぁ、一周年記念ということで、どうかお許しくださいませ(笑)。

ということで、皆さん、新たな一年も、竹林茶話会にて、ご一緒に、哲学を、しましょう。

 

 

2016年9月13日火曜日

番外編!(笑)・「第十四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo開催後記」


今回も、我らがbambooのマスターが、テーマのイメージを様々に表現してくださいましたが、諸事情により、FBのイベントページにはアップすることが出来ませんでした。

ぜひご覧いただきたいので、こちらで一挙アップいたします。

(庄司くん、いつもありがとう!^^)