2015年11月29日日曜日

(宣伝)国士舘大学文学部倫理学専攻 シンポジウム「人間の尊厳について」


 来月の12日、国士舘大学文学部倫理学専攻主催の「人間の尊厳について」というシンポジウムで話をさせていただくことになりました。学生諸君向けのシンポジウムなのですが、学外の方でも入場可とのことですので、宣伝させていただきます。

 以下、詳しい日時、場所、テーマ、提題等です(場所は国士舘大学のHP等でお調べ下さい)。

 私は太宰について話をさせていただきます。タイトルは「ヨブ記」(旧約聖書・ヘブライ語聖書)の中の言葉です。

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2015年1212日(土)、国士舘大学梅ヶ丘キャンパス

13時00分~1330分 国士館大学哲学会総会(10329教室)

13時30分~1630分 倫理学専攻シンポジウム(10329教室)

 
共通テーマ:人間の尊厳について (*以下の提題には多少の変更もあり得ます)

提題:人間の尊厳とは何か - 介護の領域から考える

本学非常勤講師 相原 博 先生

提題:人間の尊厳 -「私」の死は存在するかということを問題にできる存在

本学教授 木阪 貴行 先生

提題:どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように…… 

-太宰治『人間失格』について-

本学非常勤講師 中畑 邦夫 先生

司会 本学専任講師 吉原 裕一 先生

 
17時00分~1830分 懇親会(1号館地下学生食堂Lita

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そして以下、私の提題の趣旨です。

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どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように……

─太宰治『人間失格』について─

中畑邦夫

『人間失格』。無頼派の作家、太宰治の小説のタイトルです。今回のシンポジウムのテーマである「人間の尊厳」というものが一体どのようなものであるのか、それはシンポジウムでの各先生方のお話の中で深く論じられ、明らかにされてゆくことと思います。ですが大前提として、少なくともそれは人間である以上は誰にでも認められるもの、あるいは誰にでも認められると「されている」ものであって、「人間であること」と分ちがたく結びついているものなのだろうと思います。では、「人間であること」に「失格」している人たち、あるいは「失格」してしまった人たちには、「人間の尊厳」は認められないのでしょうか。

シンポジウムでは主に三つの点をめぐってこの小説についてお話ししようと思っております。

第一に「ルール」について。「失格」の反対は「合格」ですね。そして「合格」の反対は「不合格」です。ですから「人間失格」は「人間不合格」とも言いかえることが出来るわけです。「人間であること」に「合格」であるとか「不合格」であるとか、その「合否ライン」、あるいは合否を決める「ルール」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。あるいは、そもそもそんなものが、はたしてあるのでしょうか。

第二に「世間」について。「人間」という言葉は「人の間(あいだ)」と書くのであって、倫理的なことがらは「人と人の間」で問題になることだ、という考え方があります。「人間の尊厳」というものが、人と人とがおたがいに「人間であること」を認め合うことで成り立つものだとすれば、それは何やら、暖かな、そして優しい感じがしますね。しかし他方で、「人と人との間」のことを「世間(せけん)」と呼ぶこともあるわけですが、「世間」とは、はたして暖かな優しい感じのする言葉でしょうか。「人は人に対して狼である」という言葉もあります。「世間」というものはとても冷たくて残酷なものかもしれず、人と人とは互いにスキあらば相手が「人間であること」を否定しあおうとしている、そういうものなのかもしれません。

「ルール」そして「世間」については、『人間失格』の中で太宰が直接に語っています。私が第三にお話ししたいのは、太宰がこの作品に暗に込めたメッセージ、あるいは読者への問いかけについてです。それは「人がルールに違反してしまった場合、あるいは世間に負けてしまいそうになったとき、それでも『人間であること』をあきらめないためにはどうすれば良いのか」、そして「『人間であること』に失格してしまった人は、いったいどのような存在なのだろうか」ということです。太宰のこのような問いかけに、私なりに応答したいと思っております。

 倫理学や哲学の専門家あるいはその学説などについて論じるのではなく、あえて文学作品という「他分野」をテーマにすることによって、私の話がみなさんにとって倫理的な問題を発見するための一つのヒントとなることを願っております。

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 人間の尊厳について、お二人の専門家の高度なお話が聞きたい方々、その日はちょうど梅ヶ丘方面で用事があるという方々、このブログ上でしか中畑を知らないのでどんなツラをしているのか見てやりたいという方々、そしてその中畑が他の先生方や学生諸君にやっつけられるのを見てやりたいという方々等々……ぜひご来場くださいませ。

2015年11月26日木曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第五回開催情報


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第五回開催情報


「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

フェイスブック・イベントページ https://www.facebook.com/events/899033590165539/

フェイスブック・コミュニティ https://www.facebook.com/chikurinsawakai

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第五回 開催情報

 開催日時 20151219 17:00〜(19:00頃までを予定)

 開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

 主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp

             (お問い合わせ、御参加お申し込みはこちらにお願いします)

  料金 1000円(1drink付き)

 

基本ルール

1 人の話はちゃんと聞く

2 『考え方は人それぞれ』は禁止

3 『偉い人』には頼らない

 

テーマ 『贈りもの』

 

 12月、クリスマス・プレゼントやお歳暮など、贈りものの季節ですね。

そこで、「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第五回目のテーマは……

 

「贈りもの(おくりもの)」

 

です。

贈りものをされると、嬉しいですか?

贈りものをすると、楽しいですか?

はたまた、「贈りものなんて慣習さえなければ……」などと、贈りものの季節が来るたびに、

苦い想いをしてらっしゃる方、いませんか?

今回も、いろいろな観点から、「贈りもの」という、我々にとって身近な話題について、

考えてみましょう。

 

なお、今回は終了後、竹林茶話会の忘年会とさせていただきます。

この日は時間的に竹林茶話会には間に合わない、という方、

興味があるけれどもいつもは仕事や用事と重なって参加できない、という方、

興味があるけれどもちょっと参加するのを躊躇している、という方、

竹林茶話会の雰囲気を感じられる忘年会に出来ればと思っておりますので、

この機会にぜひともご参加下さい。

 

竹林茶話会本編(笑)、および忘年会、たくさんの方々のご参加を、お待ちしております!
 
 

2015年11月19日木曜日

「第四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 
1114日、「第四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。テーマは「文化祭」。初めて参加して下さった方々もおられ、とっても楽しい集いとなりました。参加して下さったみなさん、応援して下さったみなさん、誠にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。


 前半では「文化祭や学園祭とは楽しいものなのだろうか?」といった問いから対話が始まりました。文化祭や学園祭にまつわる参加者の具体的な思い出話から、その「楽しさ」とは一体どのようなものなのだろうか、といったことにまで対話は広がりました。参加者の一人が、あるアニメ映画を例として文化祭や学園祭の楽しさについて考えるためのヒントを提供してくださったことが印象的でした。こういった自由な切り口から対話が広がってゆくところなど、参加者の自由な発言が許される、いやむしろ、参加者の自由な発言によって成り立つ哲学カフェというものの、大きな魅力の一つだと思います。

 後半になって話題は一転、「文化祭」の「祭り」という側面に注目し、祭りとは「日常」の中に設けられた「非日常」である、ということをめぐって、活発な対話がなされました。非日常とはどのような意味なのか、日常と非日常とはどのような関係にあるのか、さらには、我々現代人にとって非日常とは一体どのようなものなのか、等々。具体的な話題としては、日本でも近年ますます賑やかになっているハロウィーンの祭りも話題になりました。さらには、いわゆる「いか天ブーム」の際にBLANKEY JET CITYが音楽業界にもたらした非日常、そして椎名林檎を起点とする音楽業界を超えた我々一般人の世界への非日常の感染……といった、ちょっとここで簡単にまとめることが難しくほど、また、もったいないほど、ユニークな議論が展開されました。そして話題は再び「文化祭」に戻り、そもそも管理と規制の場である学校において、「非日常」はどのように実現されることが出来るのか、また、そのことにどのような意義があるのか、といったことについて論じられました。

 
 さて、今回の哲学カフェについて、主催者として二つほど申し上げておきたいことがあります。ちょっと長いですが、お読みいただければ幸いです。

 一つは「文化祭」というテーマについて。今回このテーマを私が選んだのは、ちょっと哲学的な問題とは結びつかないように思われることをテーマにしてみたいという想いが私にあったからです。当日の最後にもお話しさせていただきましたが、いかにも哲学的な問題となりそうなテーマ、たとえば「愛」だとか「自由」だとか「正義」だとかいったことについては、いくらでも語ることが出来るものです(もちろん、そういったテーマについて語ることも、大変面白いのですが)。ですが注意しなければならないのは、「哲学的なテーマについて語る」ことが、必ずしも「哲学的に語る」ということにはならない、ということ。言ってしまえば、なされた対話の内容が特に哲学的というほどのものではないとしても、テーマが哲学的であったというだけで、何やら哲学的な対話がなされたような気になってしまうことがある、ということです。その点、今回は「文化祭」という哲学とは結びつきそうもない身近なテーマから「日常と非日常」の問題についてまで対話が及んだわけですから、結果としてはとってもとっても哲学的な対話になったと、私は想っています。ところで、少し専門的なことを述べさせていただきます。哲学の一つの分野に、19世紀末から20世紀初めにドイツの哲学者E・フッサールによって生み出された「現象学」という分野があります。これは「事象そのものへ!」という言葉をスローガンとした哲学で、ドイツに留学して現象学を知ったフランスの哲学者R・アロンが、帰国した際に友人であるJ=P・サルトルに「このカクテルについて語ることが出来る哲学が現象学なんだ!」とカフェで熱く語ったと言われております。カフェで目の前のカクテルについて語ることが出来る、そしてより広く我々の「生活世界」の中のさまざまな具体的なことがらについて語ることが出来る、哲学にはそういう側面もあるのです。

 そして第二に、後半の「日常─非日常」をめぐる対話について。「現象学」だとか「生活世界」だとか、なにやら専門用語が続いて恐縮なのですが、もうちょっとだけ。みなさんは「弁証法」という言葉をご存知でしょうか。ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲルの哲学の中心をなす考え方で、ものごとの変化や発展のあり方を表現するものであるとされます。ごくごく簡単に言えば、ものごとの変化や発展は「正(テーゼ)─反(アンチテーゼ)─合(ジンテーゼ)」の三段階をなす、という考え方です(いや、こんなに単純にまとめると、ほとんどのヘーゲルの専門家たちに大いにお叱りを受けそうですが……あれ?そういえば、私もヘーゲルの専門家でした。だからね、いいんです……多分)。さて、今回後半で盛り上がった「日常─非日常」をめぐる対話、これはまさに弁証法的な対話であったと、私は想います。「日常とはこういうものだ」(正、テーゼ)→「その日常に対して非日常とはこういうものだ」(反、アンチテーゼ)→「そういう非日常も日常に取り込まれてしまって新たな日常が生まれる」(合、ジンテーゼ)、というわけです(もっとも、このようにおそらくは無限に続くであろう議論は、ヘーゲルによれば「悪しき無限」であって、それを乗り越えるかたちで「真なる無限」が見出さなければならないのですが……これについてはまたいずれ)。そして「弁証法」、ドイツ語ではDialektik、英語ではdialecticと言いますが、これらの言葉はギリシア語のdialektikeに由来するものであり、そもそもは「対話」を意味したのです。ですから、そういった観点からも今回の竹林茶話会ではやはり、とってもとっても哲学的な対話が行われたと、私は想っています。

みなさん、本当にありがとうございました。

 
 さてさて、次回、第五回のテーマは「贈りもの」を予定しております。どんな対話になるのでしょうか。今から楽しみです!


 
なみに、現象学やヘーゲルの哲学について、ちょっと古いですが以下の本を紹介しておきます。(アマゾンアソシエイト(アフィリエイト))
 

2015年11月3日火曜日

Welcome to my Blog!


Hi! This is Kunio Nakahata’s blog.
These days, this blog gets a lot of access from countries where none of my friends lives nor stays. It is great surprise but pleasure for me. So this time, for readers who don’t know me, I’ll introduce myself and this blog in English.
I live near Tokyo in Japan. I teach philosophy, religion, ethics at some universities and colleges. As an academic researcher, I study especially the philosophy of Hegel, who is one of the most famous German philosophers, and besides, Christianity and modern Japanese literature. I’m not a professor but just a part - time instructor, and of course neither rich nor of high social status.
The title of this blog, “Here and There, at the Risk of my Life” is a word of Sakaguchi Ango’s, one of my favorite Japanese Novelists. It is a kind of a motto of his. Ango belonged to “Burai -group,” “
無頼派” in Japanese. “Burai” means to have nothing to rely on, or to be unable to depend on anything. I think the name of the group expresses inevitable positions and situations for the one like myself, who lives in the lower part of the academic world and has little chance to climb to the higher, but still has decided not to give up seeking the truth……oh, please excuse me if my words sound disagreeable.
In this blog, I write about what I think and feel in my daily lives, upload my papers, and announce the philosophical cafe which I hold every month in my town. I wish I could write both in Japanese and in English every time, but I’m sorry it’s completely beyond my command of English. However, if some of my works should be published in English or in other foreign languages someday, I’ll let you know and give some comments or further explanation on them in English here.
Thank you very much for reading my terrible English. Please visit here again anytime!
 
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