「第四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記
11月14日、「第四回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。テーマは「文化祭」。初めて参加して下さった方々もおられ、とっても楽しい集いとなりました。参加して下さったみなさん、応援して下さったみなさん、誠にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。
前半では「文化祭や学園祭とは楽しいものなのだろうか?」といった問いから対話が始まりました。文化祭や学園祭にまつわる参加者の具体的な思い出話から、その「楽しさ」とは一体どのようなものなのだろうか、といったことにまで対話は広がりました。参加者の一人が、あるアニメ映画を例として文化祭や学園祭の楽しさについて考えるためのヒントを提供してくださったことが印象的でした。こういった自由な切り口から対話が広がってゆくところなど、参加者の自由な発言が許される、いやむしろ、参加者の自由な発言によって成り立つ哲学カフェというものの、大きな魅力の一つだと思います。
後半になって話題は一転、「文化祭」の「祭り」という側面に注目し、祭りとは「日常」の中に設けられた「非日常」である、ということをめぐって、活発な対話がなされました。非日常とはどのような意味なのか、日常と非日常とはどのような関係にあるのか、さらには、我々現代人にとって非日常とは一体どのようなものなのか、等々。具体的な話題としては、日本でも近年ますます賑やかになっているハロウィーンの祭りも話題になりました。さらには、いわゆる「いか天ブーム」の際にBLANKEY JET CITYが音楽業界にもたらした非日常、そして椎名林檎を起点とする音楽業界を超えた我々一般人の世界への非日常の感染……といった、ちょっとここで簡単にまとめることが難しくほど、また、もったいないほど、ユニークな議論が展開されました。そして話題は再び「文化祭」に戻り、そもそも管理と規制の場である学校において、「非日常」はどのように実現されることが出来るのか、また、そのことにどのような意義があるのか、といったことについて論じられました。
さて、今回の哲学カフェについて、主催者として二つほど申し上げておきたいことがあります。ちょっと長いですが、お読みいただければ幸いです。
一つは「文化祭」というテーマについて。今回このテーマを私が選んだのは、ちょっと哲学的な問題とは結びつかないように思われることをテーマにしてみたいという想いが私にあったからです。当日の最後にもお話しさせていただきましたが、いかにも哲学的な問題となりそうなテーマ、たとえば「愛」だとか「自由」だとか「正義」だとかいったことについては、いくらでも語ることが出来るものです(もちろん、そういったテーマについて語ることも、大変面白いのですが)。ですが注意しなければならないのは、「哲学的なテーマについて語る」ことが、必ずしも「哲学的に語る」ということにはならない、ということ。言ってしまえば、なされた対話の内容が特に哲学的というほどのものではないとしても、テーマが哲学的であったというだけで、何やら哲学的な対話がなされたような気になってしまうことがある、ということです。その点、今回は「文化祭」という哲学とは結びつきそうもない身近なテーマから「日常と非日常」の問題についてまで対話が及んだわけですから、結果としてはとってもとっても哲学的な対話になったと、私は想っています。ところで、少し専門的なことを述べさせていただきます。哲学の一つの分野に、19世紀末から20世紀初めにドイツの哲学者E・フッサールによって生み出された「現象学」という分野があります。これは「事象そのものへ!」という言葉をスローガンとした哲学で、ドイツに留学して現象学を知ったフランスの哲学者R・アロンが、帰国した際に友人であるJ=P・サルトルに「このカクテルについて語ることが出来る哲学が現象学なんだ!」とカフェで熱く語ったと言われております。カフェで目の前のカクテルについて語ることが出来る、そしてより広く我々の「生活世界」の中のさまざまな具体的なことがらについて語ることが出来る、哲学にはそういう側面もあるのです。
そして第二に、後半の「日常─非日常」をめぐる対話について。「現象学」だとか「生活世界」だとか、なにやら専門用語が続いて恐縮なのですが、もうちょっとだけ。みなさんは「弁証法」という言葉をご存知でしょうか。ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲルの哲学の中心をなす考え方で、ものごとの変化や発展のあり方を表現するものであるとされます。ごくごく簡単に言えば、ものごとの変化や発展は「正(テーゼ)─反(アンチテーゼ)─合(ジンテーゼ)」の三段階をなす、という考え方です(いや、こんなに単純にまとめると、ほとんどのヘーゲルの専門家たちに大いにお叱りを受けそうですが……あれ?そういえば、私もヘーゲルの専門家でした。だからね、いいんです……多分)。さて、今回後半で盛り上がった「日常─非日常」をめぐる対話、これはまさに弁証法的な対話であったと、私は想います。「日常とはこういうものだ」(正、テーゼ)→「その日常に対して非日常とはこういうものだ」(反、アンチテーゼ)→「そういう非日常も日常に取り込まれてしまって新たな日常が生まれる」(合、ジンテーゼ)、というわけです(もっとも、このようにおそらくは無限に続くであろう議論は、ヘーゲルによれば「悪しき無限」であって、それを乗り越えるかたちで「真なる無限」が見出さなければならないのですが……これについてはまたいずれ)。そして「弁証法」、ドイツ語ではDialektik、英語ではdialecticと言いますが、これらの言葉はギリシア語のdialektikeに由来するものであり、そもそもは「対話」を意味したのです。ですから、そういった観点からも今回の竹林茶話会ではやはり、とってもとっても哲学的な対話が行われたと、私は想っています。
みなさん、本当にありがとうございました。