2016年9月1日木曜日

「哲学コンサルティング」?


「哲学コンサルティング」?



去る827日および28日、立教大学池袋キャンパスにて、「哲学プラクティス連絡会」の第二回大会が開催された。

二日目の28日には「東京メタ哲学カフェ」のお仲間さんたちがプレゼンテーションとブース展示を行ったので、何としても駆けつけたかったのですが……きわめて個人的な、そしてまったくあり得ない事情により、間にあいませんでした。「東京メタ哲学カフェ」のお仲間の皆さん、ごめんなさいごめんなさい……。

 
しかしながら、こちらも以前から興味津々だった二日目の、寺田俊郎先生と宮下篤志先生によるトークセッション「企業内の哲学対話の可能性」にはお邪魔することができました。このトークセッション、まことにまことに有意義なものでありました。

 
寺田先生のお話の中でも特に興味深かったのは、欧米では哲学対話を主催することが一つのビジネスとして成り立っているということ。たとえばアムステルダムにはニュー・トリヴィウムという「哲学対話会社」(!)があって、結構な繁盛っぷりであるとのこと(ちなみにトリヴィウムというのは、中世ヨーロッパの大学におけるカリキュラム「三学四科」の「三学」のことですな……以上、トリヴィウムならぬトリヴィアでした 笑)。こりゃいい!私もいつまでもアカデミズムの世界にこだわるのはやめて、そういう会社で使ってもらおうか、あるいは、自分でそういう会社を設立してしまうのも悪くないかも……あーいやいや、やっぱりダメなんだろうなぁ。こういうビジネスでも、やっぱり「ナントカ大学教授」だの「カントカ大学名誉教授」だのといった肩書がモノを言うんでしょうから。そしてこういうビジネスが我が国でも定着したあかつきには、大学の専任教員の天下り先がしっかりと確保され……あーいやいや、なんでもありませんなんでもありません(笑)。まぁいずれにせよ、万年非常勤講師のワタクシにはまったくご縁のないお話でございますね。そんなワタクシなどとは全く無関係なところで、今後我が国においてこのような具合に、哲学という営みは、より格調高く、より権威のある、より威厳に満ちた、そういったものになっていくのでありましょう……あ、もちろん皮肉ですよ、念のため(笑)。

 
それからそれから、寺田先生は、「哲学プラクティス」という言葉には「哲学の『開業』」という意味もあるのであって、それは哲学による「カウンセリング」でもあり「コンサルティング」でもある、といったことをお話になられましたが……。たしかに、そもそも哲学カフェムーヴメントの第一人者であるフランスのマルク・ソーテは、そういったコンセプトに基づいて活動していたわけですな。ただ、どうも個人的には、私、哲学がカウンセリングやコンサルティングに結びつけられることには、ちょっと「?」な感じを抱いてしまいます。だってねぇ、哲学者だの哲学研究者だのといった人種が、なにか人さまのお役に立てるとか、思いますか?だいたいねぇ、本人たち自身がほとんど病気なんだから……あーいやいや、なんでもありませんなんでもありません(笑)

 
あ、ただ、個人的に以前、ちょっと変わったことがありました。

私、ある学校での哲学の授業で、毎回小テストを実施しているんですけどね。学生諸君がよく、テスト用紙の余白にいろいろなことを書いてくれます(毎回私の似顔絵を描いてよこすツワモノもおります。しかもそれが、私の頭部の特徴を実に見事に再現した似顔絵だったりします……私、ムチャクチャ厳しい教員なんですけどね、まったくイイ度胸してます)。

で、ある男子学生(中国からの留学生)が、こんなことを書いてきました。

まず……

 
「この授業、最初のころは学生を虐めるための授業かと思っていたが、最近、全くそんなことはないということがわかってきた。むしろ、学生のための授業であるということがわかってきた。」

 
よーし!よしよし!よーくわかってるじゃないかぁ~!立派です!素晴らしい!

君こそ留学生の、いや、中国人の鏡だ!

君のような若者がいる限り、中国の将来は安泰だ!

そして続けて……

 
「実は最近、失恋して落ち込んでいたのですが、今回の授業を聞いて、立ち直れそうな気がしてきました。」

 
……。

……。

……ちょっと待て(笑)。

たしか、この時期にこの学校の授業でテーマとしていたのは、救いのない悲劇の話か、救いのない正義の話か、救いのない経済の話か、そんなところだったはずである(あ、一応は「哲学」の授業、なんですけどね)。そして毎回の授業の話も、学生諸君を絶望のどん底に突き落とそうといった悪意に満ちたものであったはず……あーいやいや、そんなことはどうでもよろしい。この学生にとって、私の話が「カウンセリング」的な効果をもったのだとしたら、「哲学」の授業において「カウンセリング」がおこなわれた、つまり、「哲学カウンセリング」が成立していた、ということか。だが少なくとも私自身は、失恋から立ち直る元気を学生に与えるような話を、意図してしたおぼえは、全くないのであるが……。

 
これって、つまりこういうことですか?
自分が発した言葉がどういう意味をもつのかは、その言葉を受け取った人が決めるものである(良くも悪くも、ね)、あるいは内田樹大先生風に言えば、人に出来るのは他の人に何かをパスすることだけなのであって、受け取ったパスをどうするかは、受け取った人次第なのである、みたいな。

だがそういった営みは分野や領域を問わずいつでもどこでもおこなわれ得るのであって、それがたとえば「哲学カウンセリング」だとか「哲学コンサルティング」といったかたちで、わざわざ「哲学」という看板のもとでおこなわれる必要は、まったくない、ということにもなってしまうのではないか……いやはや、問いは尽きませんな(笑)。

ところが、寺田先生に続いてお話された宮下先生は、まさにこの点に触れることをお話してくださったのですよ。「哲学対話」という表現から「哲学」の語を取り去ってはならない、と主張されました。さて、いったいどういうことなのでしょうか。その他にも、宮下先生はさまざまな哲学的問題を呼び起こすような刺激的なお話をしてくださったのですが、それについてはまたいずれ。