さて前回の続き。
「ちょっとイイっすか?」といった感じで、「リイ君」は、訥々と話し始めた。
ムカつきますよ、そりゃ、ムカつきますよ、「死ね!」だの「キチガイ!」だの「出
てけ!」だの言われたら、そりゃすげー、ムカつくよ。うん、でもね、法律とか制度
とかそういう系?そういう感じでダメってことにするのは、違うと思います、はい。
だってさぁ、うん、だってね、ホントは悪いって思ってないかもしれないでしょ?ダ
メだから言わないって、それだけでね、うん。ホントは「死ね!」とかさ、そういう
こと、思ってるかもしれないわけっすよ。それじゃ、ダメだと思う、はい、ダメだと
思います、ええ……以上っす。
その後、他の学生たちからの質問に、「リイ君」はしっかりと言葉を考えつつやはり訥々とながらも熱心に答え、質問者を納得させていた。想像していただきたい、一見しただけでは日本のどこにでもいそうな、二十歳前後の今どきの若者にしか見えない学生の言葉である。そしてさらに想像していただきたい、二十歳前後の若者となった「住所とギョウザ」の中の「リイ君」が、自分に対して理不尽な憎悪を、残酷さを、剥き出しにしてきた日本人に対して、自分自身の言葉で語りかけるようになった……いや、こんな想像はあまりにも感傷的に過ぎるというものか。この時の、そしてその後の「リイ君」について、これ以上語ることはやめておく。だが、少しだけ言っておくと、いわゆる優等生とされる諸君からの尊敬を、「リイ君」はきっと、得たと思う。そしてこの授業で「リイ君」の話を聞いた学生たちは、少なくとも今後、自己嫌悪に駆られて夜中のギョウザ屋に駆け込まなければならなくなるようなことは、しないであろう、私はそう想っており、また、そう願っている。また先ほど、要領良く立ち回ることが出来る学生こそが最近では優等生とされると書いたが、世代を問わず、そしておそらくは洋の東西を問わず、優等生の中には自分が優等生的であることにある種の不安や苛立ちを感じて、「悪ガキ」的なものに憧れや羨望の念を抱いている学生が必ずいるものであり、優等生と「悪ガキ」が馬が合うことが多々あるということは、こんなところからも説明がつく。そのようにして優等生と「悪ガキ」との交流の中から、ただ優等生の立場だけからは決して生まれて来なかったであろう、そしてただ「悪ガキ」の立場だけからは決して生まれて来なかったであろう、そんな「知」が生まれ……いや、今度は教育者としての感傷か、やめておこう。ただ、少し言っておきたいのは、もしもこの授業で「リイ君」が発言してくれなかったら、あるいはそもそもこの授業に「リイ君」がいなかったら、おそらく私が同じようなことを言っていたと思う。だが私の言葉は、「リイ君」の言葉ほどの説得力を持たなかったであろうし、下手をすると学生諸君にはせいぜい「哲学なんてやってる人間は、どうしても人と違ったことを言わないと気が済まないんだな」といった程度の印象しか与えられなかったかもしれない。そういう意味で、私は「リイ君」に、大いに感謝しているのである。
ところで、「リイ君」の発言は、「続堕落論」での安吾の思想を思い起こさせる。
政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。(中略)人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
対立感情は文化の低いせいだというが、国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
ヘイト・スピーチなりヘイト・デモなり、そういった反文化的な言動は文化の低さのせいであるとし、より高度な文化のために法により制度によりそういった言動を規制したとする。するとどういうことになるか。たとえば、仕事の上でも勉強の上でもよい、あるいは恋愛関係においてでもよい。一人の日本人と一人の在日の人がライバル関係にあるとする。で、どうにも日本人の方が分が悪い、つまり、在日の人の方が、あるいは次々と業績を上げ、あるいは成績を伸ばし、あるいは意中の人の恋人の座をも得ようとしている、そういった状況が生じたとする。もしもこういった状況で、この日本人が、自分の無能や努力不足を棚に上げて、自分の方が分が悪いのはライバルが在日だからであり、何か自分の知らないところで相手が在日であることが有利に、そして自分が日本人であることが不利に、働いているに違いないなどと、考えるようになったとする。この日本人は、どうするか。もしもライバルである在日の人に対して、対立感情を露わにして面と向かって悪口など言おうものなら、ヘイト・スピーチとして訴えられかねない。だからとりあえずは我慢する、だが我慢にも限度があり、我慢の限度を超えた対立感情は言葉などよりももっと直接的な暴力のかたちをとって噴出する……。「文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである」とは、こういった事態を意味する。現に、ヘイト・スピーチやヘイト・デモが禁止されているヨーロッパのいくつかの国において、より過激で暴力的なヘイト・クライムが、むしろ激化しているではないか。だいたい、この問題に限らず、法により制度により人間の営みを規制するなどとは、最も安易な、そして幼稚な発想である。たとえば子どもたちが、なぜヘイト・スピーチやヘイト・デモが悪いことかと問われて、「人を傷つけるようなことは言ったりしたりしてはいけないから」と答えるのではなく「法律で禁止されているから」と答えるようにでもなってしまえば、それは文化が高度になったどころか、一人一人の人間の、人間性の、大いなる退化ではないか。つまり肝心なことは、法や制度によって文化の上辺だけを高度に見せることではなくて、一人一人の人間を、人間性を、高度にすることなのだ(こんなことを書きながらも、いわゆる進歩的な、あるいはリベラルな知識人の冷笑するさまが目に見えるようだ。そう、私は今この文章を書きつつ大いに怒りを感じ始めているが、それについては後述する)。
だがしかし……
法規制、しないとダメなのかねぇ……。
残念ながら、在日の人々の全てが、私の元学生であり今では友人である「リイ君」のように、自分の考えを自分の言葉で語ることが出来るような力を、強さを、持っているわけではない。弱い存在、つまり、世の中の理不尽さについても自分自身のアイデンティティーについてもまだよく分っておらず、圧倒的な言葉の暴力を前にしてただ怯えていることしか出来ないような、たとえば「住所とギョウザ」の中の「リイ君」のような弱い存在に対して、私は「もっともっと強くなりなさい」などとは、決して言えないと思うし、言いたいとも思わない。弱い存在を守るためには、さしあたって出来ることは何でもしなければならない、そうも思う。この点にかんしては、たとえば排外主義的とされる保守派や右派の人々も、さらには歴史修正主義者とされている人々でさえも、基本的に異論はないはずである。なぜならばこういった人々は、弱者を助けて理不尽な強者に立ち向かった古き良き日本人を誇りに思っているはずなのだから(別に皮肉でも何でもない。いわゆる自虐史観に立って、かつての日本を、日本人を、全面的に否定しようとしかしない態度もまた、安易であり幼稚であると、私は思う)。だから、
法規制、しないとダメなのかねぇ……。
こういった問い、というか自分の中の逡巡に対して、さしあたっては「法規制、しないとダメだ」と、私は答えざるを得ない。ただ、一つ言っておきたいのは、だからと言って私は、ヘイト・スピーチやヘイト・デモの法規制を声高に叫ぶ、いわゆる進歩的な知識人やリベラルな知識人に与する者では決してない、ということだ(ここでなぜ「いわゆる」という言葉を用いたかと言えば、日本で進歩的であるとかリベラルであるということは、極めてローカルな、特殊な在り方をしか、意味しないからである)。こういった人々は、ヘイト・スピーチの問題となると、たとえば国連の付属委員会による統計などを持ち出して人権侵害であると、鬼の首を取ったかのように正義面をする。ヘイト・スピーチが人権侵害だなどとは、当り前のことである。別に国際的な統計など持ち出さなくとも、私の学生の中の、不勉強な諸君でさえもそんなことはわかっている。問題は、人権侵害であることなどわかりきっているのに、あえてそのような言動に及んでしまう人間というものの在り方ではないか。このような自称進歩的あるいはリベラルな人々は、少しでも自覚し反省したことがあるのだろうか。今のこのどうしようもない状況、日本人の、人間としての劣化が、戦後70年に渡って彼らがしてきたことの、そしてしてこなかったことの「結果」であるということを。いやおそらく、自覚も反省もしないどころか、そのようなことはこれっぽっちもこのような人々の意識に上ったことすらないであろう。
人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。(中略)しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。
ジャーナリストや作家や大学教員といった進歩的なあるいはリベラルな知識人たち、それに彼らが支持してきた政治家たちは、人間の魂の声をきちんと表現することの大切さを、人々に切実に伝えてきただろうか?「住所とギョウザ」に表現されているような人間の在り方を、切実に伝えてきただろうか?そういう努力をきちんとしてきた、などとは断じて言わせない。だとしたら、日本における教養教育の、人文教育の弱体化を、どうやったら説明出来るというのだ。結局のところ、こういった人たちは誰も、弱体化を真剣に止めようとしてこなかったのではないか。つまり、こういった人たちは誰も、文学や詩や、それに哲学といったものの持つ力を信じていなかったのであり、また、そういったものが失われた時にどんなに酷いことになるのか、そういう危機感を、本当のところは、全く抱いていなかったのだ。「酷い」こと、たとえば現状、一方では、言葉の暴力を行使する自分自身の醜い在り方を自己嫌悪することすらない人間ならぬ化物のような存在が増えてきたと同時に、他方では、国家権力が道徳教育の強化を言い出し始めた、実はこうした事態は表裏一体をなすものなのだが、こういった現状を「酷い」と言わずして何と言おうか。そして、「本当のところは」というのは、たとえば文部科学省が教養教育の規模を縮小するなどと言い出すと、自称リベラルで進歩的な人々は、一応は非難めいたことは言っておく、だが、それだけなのだ。さらに言えば、教養教育の大切さ、文学や詩や哲学の力、などという言葉を聞いても、心の中では冷笑を浮かべるような人間しか、いやしなかったのだ。彼らにとっての最重要課題は、ただ、自分がまさにリベラルで進歩的な立場であるというポーズを示すことでしかなかったのであり、それさえ出来れば後はどうなろうとかまわない、ポーズを示すことだけが、彼らの存在意義だったのだ(なぜそんな下らないことに熱心だったのか、それは彼らを支えているものが、まさに彼らが表面上はそれを批判しているもの、それを批判しているポーズを取っているものであるという最悪の構造があるのだが……このことについては別の機会に論じる)。
だがしかし、「結果としての現在」について、その責任の所在を追求したとしても、当の責任者たちには罪の自覚など全くないので、意味がない。また文句を言っているだけでは、やはりそういった人々と同じように責任を回避しようとするだけのことであって、何の意味もない。私に出来ることはただ、「結果としての現在」を生み出してきた構造に取り込まれることを注意深く避けつつ、教育と思索の現場で、新しい、なおかつ、地に足の着いた知の発見に立ち会い、その知の表現の仕方を模索すること、そのような試みを続けることしかない。そしてそのような試みを続けることが、「ナカハタ式・反ヘイト」である。
ところで最後に一言付け加えておく。この文書における「リイ君」についての記述が、どの程度事実に基づいており、どの程度事実に忠実であるのかは、以下の私の文章をご参照願いたい。