2015年5月19日火曜日

ローカルな、あまりにローカルな。

 最近、なんだかすっかり西田ばっかりでちょっと疲れてきたので(というか、「文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─」というタイトルが三つも並んでいるのを見て気持ち悪くなったので……苦笑)、今回は違う話題を。まずは引用から。

 

これまで、本来の意味での「南北の対話」はまったくなかったし、北(西欧諸国)が新しい基礎と、新しいメンタリティにもとづいて、南と対話しようとしたこともなかった。というのも一方通行のものは「対話」ではないからであり、南は北の言語によって語ることを強いられてきたからである。自分たち南方人は北の言語、文化、音楽、料理などを学び、それらに親しむ努力をしてきた上で、植民地主義からの独立や解放のために戦ってきた世代である。だが、われわれの世代に失望している南の新しい世代は、もはや北に対してコンプレックスを持っていない。真の革命は精神的な革命でなければならない。もしも北が世界の問題をあくまで西欧的価値にのっとって考え続けるならば、南はイスラム原理主義のような運動に訴えざるを得ないだろう。現在、世界中には106000万のイスラム教徒がいるが、35年後にはこの地球上の3分の1は、イスラム教徒になるだろう。それは勢力をなし、しかも増えていかざるを得ないのである。

 

中村雄二郎氏『宗教とはなにか とくに日本人にとって』(2003年、岩波書店)の中の文章であり、氏の友人でありモロッコ王立アカデミーの主要メンバーであるマーディ・エルマンジャラ氏が書いた「南北の溝」という文章の、邦訳である。中村氏のこの本自体はもうずいぶん前に読んでいたのだが、今回、西田幾多郎の哲学について考えるにあたって、日本人の宗教観といったものについてもあらためて考える必要性を痛感して読み直していたところ、出会った文章である。19915月に『フューチュリブル』という雑誌に掲載されたそうだが……さて、この文章が発表されてから24年後の現在、世界全体のイスラム人口は15.7億人、地球上の人口の4分の1弱の22.9%を占めているとも言われている。あと11年後にはエルマンジャラ氏の予測の通りにこの数字は増え続けるのかどうか。少なくとも、ある種の日本の経済学者が毎年書いている、たとえば、やれ『2014年世界大恐慌がやってくる!』だとか、やれ『2015年日本経済総崩れ!』だとか、そういう「ノストラダムスの大予言」的な予測なんかよりは、はるか~~~に信憑性があるのではないかと思います(というよりも、そういった類の本と比較すること自体、エルマンジャラ氏に失礼かもしれませんが)。

この文章中のエルマンジャラ氏の予測にかんして、リアリティを感じさせるのはイスラム教徒の人口推移についてだけではない。「われわれの世代に失望している南の新しい世代は、もはや北に対してコンプレックスを持っていない。真の革命は精神的な革命でなければならない」、この件(くだり)など、まさにISILの台頭を予測していたかのようではないか。その上で、ふと気になったのだが、エルマンジャラ氏のこの文章をはじめ、イスラム教徒の人々の言葉は、西欧諸国ではどのくらい真剣に受け止められてきたのだろうか?恐らく、「世界の問題をあくまで西欧的価値にのっとって考え続ける」人々は強く反発してきたか、あるいは明確に無視してきたであろうし、そうでない人々もいわゆるポリティカル・コレクトネスな表現でもってやんわりと受け流してきたのだろうと、そんな気がする。つまり、アレオパゴスでのパウロのような扱いを受けてきたのではなかろうか、と(「使徒言行録」17.16-33)。

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いや、今、ですね、「ここで私の言う『西欧諸国』には、価値観を共有しているという意味では日本も含まれる」と書こうとして、ちょっと考え込んでしまいました。いや、西欧諸国に日本が含まれるかどうか、ということについて悩んだわけではない。日本では、なんというか、反発や無視で応じるにしろ、ポリティカル・コレクトネスで応じるにしろ、そういう応じ方とは全く異質な応じ方がされているように思えて仕方がないのである。ちなみに、今さっき調べてみたところ、マーディ・エルマンジャラ氏の名前は「マフディ・エルマンジュラ」と表記されて、2000年代初頭に日本でも何冊か翻訳が出版されているようだ。だからエルマンジャラ氏の主張について、もしかしたら知っている日本人は少なくないのかもしれない(私が2000年代初頭に翻訳が出ていたことを知らなかったのは……仕方ないじゃないっすか!?絶対者だの現実性だの人格性だの、ヘーゲルで頭が一杯だったんすよ、当時は!……と、一応言い訳をしておく)。だが、問題はそういったことではない。たとえば、反発や無視といった姿勢で応じるにせよ、そこには少なくとも「他者」というものに対する意識がある。たとえそれが「他者」を「同一性」へと取り込もうという暴力的な姿勢であるにせよ(念のため言っておくが、私が言っているのはイスラム教徒の側の暴力ではない。そもそもイスラム教徒の側からの暴力を惹起した「北」の「暴力」である)。少なくとも「他者」というものに対する意識があれば、「この人たちは我々がきちんと聞かなければならないことを言っていて、しかもそれはとても大切なことなのかもしれない」といった姿勢に立つ可能性も開かれているのであって、それこそ「使徒言行録」(17.34)のようなこと、あるいはそれに近いようなことも起こり得るからだ。だが、日本の場合には、どうだろう。

たとえば、シャルリー・エブドの諷刺画やISILによる人質問題等、イスラム教徒のことが話題になった際、どれだけ「他者」ということが日本人の意識に上っただろうか。私は決して海外のジャーナリズムに詳しいわけではない。しかし、私がどうにも変だと思ってしまうのは、日本でイスラム教徒について論じられる際、ジャーナリズムの表舞台に登場する知識人が、そもそも日本人ばかりだということである。池上彰氏だの佐藤優氏だの、内田樹先生もそうかな。で、日本人であっても、イスラム教の立場の人、あるいはイスラム教に近い立場の人たちは、あっと言う間に退場させられる。そして、日本人の知識人たちが何を語るのかというと……要するに、日本について語るだけなのだ。人質問題での日本政府の対応がどうのこうのと、場当たり的な対応についての場当たり的な議論が盛り上がる、まぁ、それは仕方がない。私が地味に問題だと思うのは、たとえば池上氏や佐藤氏が、世界における宗教の分布だとか力関係だとか、その中でのイスラム教の位置づけだとかを論じて、そして最終的には、日本がその中で取るべき立ち位置のようなことについて論じる、結局それだけなのだ。そしてさらに、私がそういう議論の怖いところだと思うのは、そういう議論って、「いや~イスラム教徒って怖いですね」とか「イスラム教徒を怒らせてはいけませんね」とか、時には暗に時には明に、そういう誤解や偏見を伝えてしまう、ということだ。いや、特に佐藤優氏については、凡庸な知識人と同列に論じてはいけないとは思う。佐藤氏ご自身が学生時代に宗教を深く学んだ方で、イスラム教について論じる場合にも宗教の本質的なところから話を始めて、しかも宗教としての(「政治勢力としての」ではない!)イスラム教については、むしろ誤解を解くための大変丁寧な議論を展開なさっているので。しかし一般的に言えば、特に日本のジャーナリズムの世界では、知識人がどうしようもなく偏った見解を述べることが期待される傾向は、やはりあると思う。そしてそういった見解が、日本の知識人にフィードバックされて……。たとえば実際にこんなことがあった。私がある大学で担当している宗教の授業で、ちょうどイスラム教が話題になった時期に、イスラム教に対する誤解や偏見を解くための話をしたところ、学生から「他の先生が『イスラム教は怖い宗教だ』とか『イスラム教徒には気を付けろ』とか言ってるけど、先生(私のこと)の話を聞いて偏見だってわかりました」とかいう感想が寄せられた。まったく、文字通り頭を抱えてしまった。つまり、何が問題かと言うと、世界規模で大問題となっていることであっても、日本ではどうしようもなくローカルな問題に変換されて論じられてしまう、ということである。

問題はイスラム教についてだけではない。たとえば、シャルリー・エブドの諷刺画に端を発してヨーロッパがテロの危機に襲われた際、表現の自由を支持する人々によって「Je suis Charlie」というスローガンが掲げられた。で、それをもじって日本のテレビ番組のコメンテーターが「I’m not Abe.」とか言い出した。いや、これは、なんと言うか……一応英語で言われてはいる、だが、この意味が通じるのは、日本だけであろう、多分。日本や日本語のことなんか何もしらない外国人には、一体何を言っているのやら全くわからないだろうし、多少知的な外国人であっても、そうだな、たとえば……「なに?『私はABEではない』?ふむふむ。ところで『ABE』ってなんだ?冠詞がついてないから、固有名詞だな?で、前置詞もないから地名ではないな?ってことは……わかった!人の名前だな!?そうかそうか!君は『エイブ』って名前じゃ、ないんだね?わかったよ、じゃ、なんて名前なの?」せいぜいこんな風にしか受け取られないのではないだろうか。このコメンテーターのこの発言を知った時には、正直、コメントして金もらうんだったら、もうちょっと頭ひねれよ、とか思ったものだが……。この人、どうやら相当悲壮な覚悟でこの発言をしたようで、その後この番組を降板させられたとのこと。だが、今となっては、なんとなくこの人の気持ちもわかるような気がする。日本のジャーナリズムとそれを取り巻く環境があまりにもローカルなゆえに、どんなに下らないことであってもむしろ発言するためには相当な勇気と覚悟が必要なのであろう、多分。降板をめぐっては政府から圧力があったとかなかったとか言われたようだけど、いや、もしも政府から圧力があったにしても、この発言自体が問題とされたわけではないと思う。問題は、この、それ自体としてはユーモアもない諷刺にもなっていない発言を、反政府の象徴としてまつり上げようとした人たちが意外に多かった、というところにあるのだと思う(それにしても、この「I’m not ABE」については、いまだにネット上などで話題になってるのを見かけますがね。みなさん、そもそも「Je suis Charlie」だとかテロ事件だとか、そっちは覚えてますか?まだそんなに昔のことではない、というか、とっても最近のこと、なんですよ、実は?苦笑)

ローカルな問題と言えば……そうそう、安倍首相の米国議会での演説をめぐって、やっぱり話題はとってもローカルなものに変換されてしまっている。とっても象徴的だったのは、誰だったか、民主党の議員センセイのツイッターの炎上騒ぎ。安倍首相の英語がまるで中学生レベルだとか何とか……。まぁ、なんとしてでも首相に文句を言いたいのであろうが。この民主党の議員センセイがアメリカに対してどういう立場なのか、どういう感情を抱いているのかは、私は存じ上げない。だがしかし、そもそも英語の上手い下手を問題にするなんて、それこそアメリカへのコンプレックスが丸出しではないか。それから、安倍首相の演説については、歴史認識云々ということが日本では問題になっているようだけれども……。この点にかんしては、安倍首相の演説内容がアメリカで高く評価されたという話を、きちんと検討しないといけないと思う。こんなことを言うと、それこそ「右翼め!」だとか「歴史修正主義者め!」とか言われてしまいそうだけれども、実際には、やっぱり高く評価されたような気がする、というよりもむしろ、そう捉えることによってしか見えてこない、その先にある大きな問題があるのではないだろうか。あくまでも事の良し悪しはともかくとして、もしかしたら、歴史の修正ということ自体が、日本で論じられているのとは全く違った仕方で、世界では論じられているのかもしれない。だってそうでしょ?一方でアメリカの国力が相対的に低下して、他方で中国という新勢力が台頭してきている、要するに、世界の秩序そのものが変わるかどうかという瀬戸際なわけだ。だとしたらこの辺りで一度、これまで世界が共有してきた「物語」を検討してみようという方向に話が流れているとしても、別に不思議でも何でもないではないか。集団的自衛権だとか憲法改正だとか、そういったことについても、やっぱりローカルな観点を脱して議論しないとヤバい状況になっているようなそんな気が……おっと、諸々の事情のため、今回はここまで。ただ最後に一言、念のために言っておく。「ローカルな観点を脱して」と言っても、アメリカにしろ中国にしろ、とっとと追従先を選ばなきゃダメだとか、そういうことを言っているのでは、もちろん、ない。国際的な次元で、あるいはこう言ってよければ普遍的な次元で議論されなければ事の良し悪しが全く見えてこない問題というものがあって、イスラム教の問題、そして集団的自衛権の問題や憲法改正の問題などはまさにそういう問題だということ、それから、私自身が、日本という国に引きこもり続けながら、なぜだかどうしても日本という国において展開されている議論の仕方に、どうにも息苦しさを感じてしまう、そういうことが言いたかったのだ。