2015年6月3日水曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 7

「永遠の死」─太宰の場合─ 2

  
 さて前回の続き。

  前回、安吾が太宰を、キリストを「ひきあいに出した」と評したと書いた。それは「不良少年とキリスト」において、安吾が太宰を不良少年にたとえる文脈で語られる。以下、関連する箇所を、多少長くなるが引用する(内容についてのくどくどした解説はいらないと思う。というか、わかっていただきたい文章です)。

太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。……太宰は親とか兄とか、先輩、長老というと、もう頭が上らんのである。だから、それをヤッツケなければならぬ。口惜しいのである。然し、ふるいついて泣きたいぐらい、愛情をもっているのである。こういうところは、不良少年の典型的な心理であった。……不良少年は負けたくないのである。なんとかして、偉く見せたい。クビをくくって、死んでも、偉く見せたい。……四十になっても、太宰の内々の心理は、それだけの不良少年の心理で、そのアサハカなことを本当にやりやがったから、無茶苦茶な奴だ。/文学者の死、そんなもんじゃない。四十になっても、不良少年だった妙テコリンの出来損いが、千々に乱れて、とうとう、やりやがったのである。

 不良少年は、ただ「負けたくない」という気持ちから「何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする」、そして、太宰が「ひきあいに出した」ものの一つが「キリスト」であったのだと、安吾は言うのである。

 ところで「不良少年とキリスト」において、安吾は太宰の創作活動を、フロイトの言ういわゆる「誤謬の訂正」、つまり「我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとする」試みにたとえている。すなわち、「太宰は、これを、文学の上でやった」、「彼は、その小説で、誤謬の訂正をやらかした」。

思うに太宰は、その若い時から、家出をして女の世話になった時などに、良家の子弟、時には、華族の子弟ぐらいのところを、気取っていたこともあったのだろう。その手で、飲み屋をだまして、借金を重ねたことも、あったかも知れぬ。 

「フツカヨイ的に衰弱した心には、遠い一生のそれらの恥の数々が赤面逆上的に彼を苦しめていたに相違ない」、前回引用した伝記的記述に見られるように太宰を苦しめていたのはここに言われているような「恥の数々」よりもずっと重い罪の意識だったわけであるが、それはともかく、安吾によれば太宰は苦しみから逃れたいがために、フロイトの言う誤謬の訂正と同じように「誤謬を素直に訂正することではなくて、もう一度、類似の誤謬を犯す(つまり、現在の自分を苦しめている過去の行いを作品において再現する 論者)ことによって、訂正のツジツマを合せようと」したというのである。安吾が具体的に太宰のどの作品を念頭に置いてこのようなことを言っているのかはわからない。だが確かに、上に引いたイメージは、太宰という人物の典型的なイメージであるようにも思われ、また、太宰作品の登場人物の典型的なイメージのようにも思われる。

ところで安吾は、太宰の自殺の原因を、一方では太宰の「フツカヨイ」的な苦しみにあったとし、また他方で、太宰の肉体的な「虚弱」にあったとしている。だがこの二つの要因はどちらか一方が主であって他方が従である、というような単純な関係にあるものではない。

率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力を、太宰はやらなかった。/彼は、やりたかったのだ。そのアコガレや、良識は、彼の言動にあふれていた。然し、やれなかった。そこには、たしかに、虚弱の影響もある。然し、虚弱に責を負わせるのは正理ではない。たしかに、彼が、安易であったせいである。(中略)然し、なぜ、安易であったか、やっぱり、虚弱に帰するべきであるかも知れぬ。

デカルトがどんなにその証明に苦労したにしても、というか証明できなかったにしても、誰もが経験的に知っているように、やはり我々の肉体と精神は結びついているのであって、肉体的なコンディションは精神的な活動に大いに影響を及ぼす。太宰の場合、肉体的な虚弱のために「率直な誤謬の訂正、つまり善なる建設への積極的な努力」が出来ず、「誤謬の訂正」の安易さに流されて作品を書く、そして、そういった作品をたとえば志賀直哉などに批判されると、またしても太宰はフツカヨイ的な「赤面逆上的混乱苦痛」に苦しみ、「誤謬の訂正的発狂状態」に陥る。つまり安吾は、典型的な「太宰的」イメージの人物が登場する太宰の作品は「虚弱」と「誤謬の訂正」へと逃げる安易さとの悪循環において書かれた、というのである。

 さて、ここでちょっとだけ西田。太宰が陥っていたこのような悪循環と、このブログでも以前に論じた西田の「行為的直観」とを重ね合わせて考えてみよう。
 行為的直観と創作活動の関係について、私は、小説家にとって小説を書くということは「行為的直観」なのであって、小説の創作とは作家個人の「歴史」の「表現」なのである、といった趣旨のことを書いた。そしてさらに、小説家自身が自己認識に満足出来ない時、その時点での自己認識は小説家にとっての「限度」と感じられるのであり、そこに「作家活動の原動力」が、つまり小説を創作することへの欲求が生まれる、ということも書いた。以前も引用した文章だが、安吾によれば、「一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己叛逆を起す」、そして「ふみとどまった時には作家活動は終り」なのである。太宰にとって、自分の小説で表現される歴史とは、上に見た「誤謬の訂正」をめぐる悪循環であった。もちろん、太宰にも常にそれは「限度」として感じられたであろうし、安吾も言うように、太宰はその限度を「善なる建設への積極的な努力」によって乗り越えたかったであろう。だが太宰はある時点で遂に、悪循環によってもたらされる苦しみを安易な誤謬の訂正によって耐えることが出来なくなってしまった。つまり、遂に「限度」を乗り越えることが不可能であると思ってしまった。その時に太宰が書いた作品が「人間失格」だったのではないだろうか。つまり、「人間失格」は、太宰にとって最後の「発見創造」だったのではないだろうか。

 前回、西田の「逆対応」の概念について考える際に引用した小坂氏の表現にあるように、太宰はまさに、誤謬の訂正によって「どこまでも自己を主張し自己を肯定しようとして行きづまり、深い自己矛盾を経験」した、そして「その極限において」、どうしても罪の意識から逃れられない主人公を描くことを通じて、「一転して自己を否定する」に至った。小坂氏の言うような「安心」を、そこで太宰は決して得たわけではないであろう。だが少なくとも、「神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じている」と言い、信仰を「ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事」だと言う主人公を描くことを通じて、太宰は菊田氏の言うように自らの「限界」(安吾の言うところの「限度」)を完全にあらわし切った、少なくともあらわし切ろうとしたとは言えるであろう。さらに、このことを「行為的直観」と関連させて言えば、誤謬の訂正による安易な自己正当化が「限度」に達した時、罪の意識から逃れられない主人公を書くことによって、太宰は新たな自己認識を得たのである……と思う。「斜陽」の終り近くで、かつての主人公を知る女性が主人公を評して「神様みたいないい子でした」と語る場面がある。たとえばこういった場面に、太宰のナルシシズムを感じる読者も多いが(私も長い間そう感じていた)、別に「神様みたいないい子」が、太宰が「斜陽」を執筆するという「行為的直観」を通じて発見した自己であったわけではない。そうではなくて太宰は、「神様みたいないい子」となるためには、これまでのように誤謬の訂正によって安易に罪の意識から逃れようとするのではなく、むしろ自らが描いた主人公のように、決して罪の意識から逃れようとしてはならないのだ、ということを発見したのであった……と思う。そのような意味で、「斜陽」執筆という行為的直観において、小坂氏による逆対応の表現にあるように、太宰は「自己を否定することによって自己を肯定し、自己を放棄することによってかえって真の自己を獲得」したと言えるだろう……と思う。

  ところで安吾は、「不良少年とキリスト」において、ドストエフスキーに言及している。

ドストエフスキーとなると、不良少年でも、ガキ大将の腕ッ節があった。奴ぐらいの腕ッ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。キリストをこしらえやがる。まったく、とうとう、こしらえやがった。アリョーシャという、死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ。

 今の私には『カラマーゾフの兄弟』について語る準備は出来ていないし、太宰へのドストエフスキーの影響について語ることも出来ない。だが、ここに引いた安吾の言葉を手掛かりとして「斜陽」について簡単に考えてみたい。まず、キリスト教に非常に影響を受けた太宰が、神の愛だとか罰だとか信仰だとかといったキリスト教的な概念を論じているこの作品において、キリスト教に直接言及することは一度もない。そのような意味では、「斜陽」においてはもはや、太宰はキリストを「ひきあいに出す」ことはしていない。そして罪の意識から逃れようとしない主人公を、「神様みたいないい子」を創造することによって、「キリストをこしらえ」た。そしてさらに、罪の意識から逃れようとしない主人公のあり方を、自らのあるべきあり方として発見したのであれば、太宰も「自分がキリストに」なった……というのは言い過ぎか。「死の直前に、ようやく、まにあった。そこまでは、シリメツレツであった。不良少年は、シリメツレツだ」、これもやはり、太宰にも当てはまる。

今回はここまで。ただ「斜陽」について少しだけ言っておきたい。ここでほんのちょっとだけご披露した「斜陽」論は、私が「斜陽」について考えていることのほんの一部に過ぎません。言わばもっと「メタな」観点から、いずれきちんと書きます。また、安吾のドストエフスキー論についても、太宰と関連させて、いずれきちんと書きます(やっぱり太宰はドストエフスキーじゃないんでしょうね、安吾に言わせれば……)。

それからもう少し。小説創作という行為的直観において、「真の自己を獲得」した(あるいは少なくともそう思ってしまった)作家は、その後何をしたら良いんでしょうかね。色々な可能性があるとは思いますが、中には猛烈な虚無意識にとらわれる作家もいることでしょう。そういった作家が自ら無に帰そうとしても、別に不思議ではないのではないでしょうか。たとえば、太宰が玉川上水に入水自殺したように……あ、今気が付いたんですけど、「川」ですね。まぁ、ワニはいないとは思いますが……。