2015年6月27日土曜日

ドストエフスキー覚書き 1


 いけませんいけません。実はここ最近、西田についての勉強がちょっと滞ってます。「文学と哲学と」の前回からの流れで、いよいよ私自身が最近もっとも関心をもっている哲学的問題に結びつきそうなんですけどね。で、なぜ滞っているのかと申しますと、最近、ドストエフスキーの諸作品を読みなおさなければいけないことになりまして……というよりも、そういう状況に自分を追い込んでしまったんですけどね、トホホ……。

 そんなわけで、本棚からほぼ二十年ぶりぐらいに文庫本を引っ張りだしてきて、ちょっとずつ読んでます。今は、『カラマーゾフの兄弟』。で、とってもとっても久しぶりに読み返しての感想は……若き日の私が、いかにいい加減にしか読んでいなかったか(苦笑)。前回読んだ時は、我が「明治時代」、特に読みたい読みたいと思って読んだわけではなくて、読んでおかないといけないんだろうなぁという、ある種の義務感から、とりあえず通読しただけでした。いや、こうも記憶と違うと、通読したのかどうかさえ怪しくなってきました。「あれ?こんなに面白いこと書いてあったっけ?」といった箇所に出会うことがあまりにも多いので……。でもまぁ、ここ二十年の間の読み手としての私の成長が、私に新たな発見をさせているのだと、そうポジティヴに考えておきましょうかねぇ。

 ところで『カラマーゾフの兄弟』と言えば、なんと言っても「大審問官」のエピソードが有名ですね。これはカラマーゾフ家の二男であるイワン・カラマーゾフが語る、16世紀のスペインはセヴィリヤに突然イエス・キリストが現れたら……という、イワンの創作(イワン曰く「叙事詩」)なわけですが、このエピソードは私もよく授業でとり上げます。このエピソードにかんしても、今回再読してみて新たな発見があったのですが、それよりも、このエピソードが含まれている第一部第五編でイワンによって語られる彼の考え方の中には、このエピソードに引けを取らないくらい面白いものが、いくつかあります。中でも今回私が再読してとってもとっても面白いと思ったのは、大人による子どもへの暴力についての、イワンの考え方です。

 子どもへの暴力、児童虐待、いや、時には大人が子どもを殺してしまうこともあるので、そうなったらもはや虐待どころではないですね。で、そういった暴力に合理的な理由などない、つまり、大人による子どもへの暴力を正当化するような理由など、実際のところはありはしないと、イワンは言うのです。もちろん、大人の側からすれば、躾だとか見せしめだとか、いろいろと言い分はあります。だがそういった言い分、理由が、どう考えても子どもたちに対する度を越えた、しかも時には殺しにまでいたる暴力を正当化するものだとは、どうしても思えない。では、本当のところ、なぜ大人は子どもに暴力をふるうのか。それは要するに、人間の中にある理不尽なあるいは非合理的な暴力への衝動のためだと、イワンは言うわけです。人間の中にある理性的・合理的には説明のつかない暗い衝動、そんなものでも前提しなければ、大人による子どもへの苛酷すぎるほどの暴力を説明できないと、イワンはそう考えるわけです。だから、大人による暴力についての説明、言い分、理由づけなどといったものは、理不尽なこと、非合理的なものに対する、無理矢理な合理的・理性的な説明、もっと言ってしまえば「こじつけ」にすぎないと、そういうことになるわけです。

 この辺り、昨今の……いや、もうずいぶん前から、日本でも頻発している、母親による子どもの虐待と、それへの対応の問題にも結びつくわけで、なんだか考え込んでしまいますね。特に、こういった問題への対応について言えば、たとえば、母親が子どもへの虐待に走るのは、父親が育児を放棄して全て母親に押し付けていることが原因だ、などといった説明がなされ、そういった解釈に基づいた対応策が唱えられたりしてきたわけですが……これこそまさに、理不尽で非合理的な暴力衝動を合理的・理性的に説明しようとする、といった態度に基づいているわけですな。たとえば実際に、父親が母親とともに育児を分担できるような環境が実現した場合、どうなるか……下手をすると、父親と母親が一緒になって子どもを虐待する、といった最悪の事態になるわけです(いや、もうとっくにそういった事態は頻発しているか)。だから問題を解決する、いや、人間が暴力衝動と無縁ではあり得ない以上、完全な解決は不可能であるにせよ、少なくとも状況を改善してゆくためには、「理不尽で非合理的なことを合理的・理性的に説明しようとする」という仕方とは別の仕方で理性を働かせることが必要である、こういうことになるでしょう。まったく、やっかいな問題です。

 ところでなぜ、大人は理不尽で非合理的な暴力衝動を子どもに向けてしまうのか。それはまさに、大人が子どもに対して暴力をふるうことの出来る立場にいるから、さらに言えば、大人は子どもに対して権力をもつ立場にいるから、という話になるのだと思います。そして、理不尽で非合理的な説明が可能であるのも、そういった権力の立場にあるからである、そういうことにもなるかと思います。暴力─権力─合理性という最悪の組合せ……このように書くとまさに、ベンヤミン的なあるいはデリダ的な問題のようではあ~りませんかぁ~!……それはともかく、こういったことを軸にして『カラマーゾフの兄弟』を読み解くことも可能だと思います。そしてこのことは、子どもへの大人の暴力に限らず、暴力や権力といったことがかかわる場では、いつでもどこでも、有効な観点なのです。たとえば『カラマーゾフの兄弟』の第九編、カラマーゾフ家長男のミーチャへの取り調べの場面でも、「暴力─権力─合理性」ということが明に暗に、そして時には滑稽なかたちで、テーマとなっています。

 とまぁ、きっかけはそれこそ理不尽かつ非合理的であっても、久々に再読してみて、私の中でドストエフスキー熱が盛り上がりつつあるようです。ということで、せっかくだから、このブログでも新シリーズを始めます。今回は「エッセイ」ですらない、よりお気楽でお気軽な「覚書き」というかたちで。
当ブログは「アマゾンアソシエイト(アフィリエイト)」に参加しています。