2015年7月23日木曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 11


意味の過剰と宗教

 

 さて、前回・前々回と戸坂潤による西田批判を検討したのであった。で、前回の最後の方で、私はこう書いた。

いったん「私」が自己を限定してしまえば、あるいは対象化してしまえば、「私」は「行為的直観」の弁証法的な運動の「過程」に取り込まれることになり、待っているのは限界と不自由の連続である。だから「自由」ということをラディカルに問おうとすれば、「自覚」以前、つまり、自己の限定や自己の対象化に先立つ次元において問われなければならないのである。

 戸坂は「意味」ということを巡って西田の無の弁証法を批判したのであった。そこでここに私がセルフ引用したことを、「意味」という観点から捉えなおしてみよう。ヘーゲル的な弁証法にせよマルクス的な弁証法にせよ、弁証法の「過程」というものは、言わば「意味の増殖」の過程である。いや、ヘーゲルだのマルクスだのと大上段に構えるまでもない。行為的直観とは我々が生きているあり方そのものなのであるから、我々が生きている過程そのものが「意味の増殖」の過程であると言ってもよい。我々は生きている現場で、様々なものに意味を付与してゆく。ここで「現場」と言っても、それは我々が見たり聞いたりする場、つまり直接的な経験の場のことだけに限られるものではない。我々は直接的な経験を超えたもの、たとえば、未来だとか神様だとかあの世だとかいったものについても考え、それらに意味を付与している(つまり「形而上学」ってやつです)。もっと言ってしまえば、意味のないものにだって、我々はまさに「意味のないもの」という意味を付与しているのである。このように、我々は現に言わば「意味の過剰」の中で生きているのであり、そのような意味はさらに変化し、細分化し、増加してゆくのであり、「いったん『私』が自己を限定してしまえば」、このような「意味の増殖」の「過程に取り込まれ」てしまうのである。そして「意味の過剰」は(ほぼ)果てしなく過剰さを増してゆくのである。

西田の「無の論理」は、このような過程の「始まり」について考えることを可能にする、つまり「自己の限定や自己の対象化に先立つ次元」について考えることを可能にするものなのである。西田のこのような発想はまた、西田の宗教哲学の基底をも成すものである。すなわち、西田の宗教思想において、「自覚」という自己限定に先立つ「無の場所」に相当するもの、それが「平常底(びょうじょうてい)」である。

 以下、今回はこの平常底について考えてみるが、今回は久しぶりということもあり、リハビリ的に、ちょっと西田自身のテクストからは離れてみたいと思う。

藤田正勝氏は平常底を説明するために放浪の俳人種田山頭火の俳句をあげておられる(『西田幾多郎 生きることと哲学』、岩波新書)。

へうへうとして水を味ふ

 藤田氏はこの句を次のように解釈しておられる。

「へうへう(飄々)として」という表現は、世俗の世界への執着から解き放たれた山頭火の生きざまから発せられた表現と言ってよいであろう。炎天下の行乞のなかでたまたま出会った湧き水を、何のとらわれも気負いも憂いもなく、ただただ味わう。心の底まで味わう。そのようなとりたててどうということのない日々の営みが表現されている。

 さらにこの句に表現されているような「普通の行為、ごく普通の生の営み」こそ、「西田が宗教の究極において見ていた」ものであるとし、平常底について次のように解説しておられる。

衣服を着け、食事をし、疲れれば眠る。山頭火の表現に従えば、ただただ水を味わう。そのような日常の営みを日常の営みとして行うこと、そのようなあり方へと帰って行くこと、そのことを平常底は意味している。

 このような日常のあり方、言わば「境地」は、「無関心なままに、『生命の根本的事実』へのまなざしを欠いた状態にありつづけること同じことではない」。このようなあり方に到達するためには、「そこからの脱却のたえまない努力を積み重ね」が必要である。西田はそのための努力を「一歩一歩血滴々地」(一歩歩むたびに血が地面に滴り落ちる、という意味)という言葉で表現しているのであるが、藤田氏はこのことを次のように説明しておられる。

一歩歩むごとに血を滴らせることを経て、はじめて「へうへうと」水を飲むことが可能になるのである。われわれはより多くの収入を得たいという思いや他人に負けたくないという気持ち、世間体、悟りへのとらわれなど、さまざまなもので縛られている(あるいはむしろ自分を縛っている)。そのような自己のあり方を一言で言い表せば、「我」ということになるであろう。我欲、我愛から自由になることは決して容易なことではない。/一歩一歩血を滴らせながら、自分をがんじがらめに縛っている執着を取り除いて到りえたところを、「阿屎送尿、著衣喫飯、困れ来れば即ち臥す」という言葉は言い表している。その日常性を平常底という言葉は意味している。

我々が「さまざまなもので縛られている」、「自分を縛っている」とは、「我」すなわち「私」というものが、「自覚」によって、つまり自己が「限定する」あるいは「限定される」ことによって成り立っているということなのであり、そのような「限定」をもたらすものは「より多くの収入を得たいという思いや他人に負けたくないという気持ち、世間体、悟りへのとらわれ」といった、この世界の中で、つまり他の人や物との関係の中で生まれてくる、あるいは我々が付与する「意味」なのである(たとえば「俺はあいつより優れているはずだ、だからあいつには負けたくない」と私が思った場合、私は自分のことを「優れた人間」として、「あいつ」を私より劣った人間として意味付けているのであり、「俺とあいつの関係」をその中で私が上位に立たなければならないものとして意味づけているのである、等々)。そしてそのような「意味」は、前にも述べたように、果てしない弁証法的な増殖過程において、変化し、細分化し、増加してゆくのである。

人間、生きていれば、ということは、このような果てしない弁証法的な意味の増殖過程の中にいれば、時にはそのような過程にとらわれていることに嫌気がさしてくることもあろうし、意味の過剰にうんざりしてくることもあろう(少なくとも私はそうだ)。そしてそのように感じた時にはじめて、その過程から自由になることが「決して容易なことではない」と、我々は気づくものなのかもしれない。ところで「平常底」とは、西田の宗教哲学の骨子であり、これまで見てきたように藤田氏もこれを一種の宗教的な「境地」として解釈しておられるようだ。私自身は、西田の哲学を宗教に引き付けて理解することに必ずしも全面的に与する者ではないのだが、それでもある種の宗教には、このような果てしない意味の増殖過程から人間を解放する力がある、あるいは少なくとも人間がそこから解放されるための方向を示す力はあるようだ。たとえば、いまだに復興が遅々として進んでいないと言われている東日本大震災の被災地に、宗旨宗派を超えて多くの宗教家たちが協力してボランティア活動を行うために赴いている。彼らの仕事の一つにいわゆる「心のケア」がある。

被災した方々は、ある日突然、慣れ親しんだ環境や身近な人々をはじめとして、多くのものを失った。失われたものを「現実」であるとすれば、被災した方々に残されたものはその現実に付与されていた「意味」だけである。意味が現実を伴うのであれば、意味も現実もともに良い方向に変えてゆくことも出来るであろう。しかし意味しか残されていないのであれば、本人が前向きに生きてゆきたいと想っていたとしても、それはもうどうにもならない、どうにも変えようのない、言わば「呪縛」となってしまうこともあり得るであろう。たとえば、失われた多くのものの一つとして私は「身近な人々」をあげたが、それは必ずしも「愛しい人々」に限られないのであり、むしろ逆に「憎い人々」も含まれるかもしれず、さらには失われた身近な人が愛情の対象であると同時に憎悪の対象であったとしても不思議でもなんでもない(というよりも、人間関係とは、その関係が近ければ近いほど、むしろそのようなものであろう)。人が人に対して持っている、あるいは人が人に対して付与している意味とはそのように複雑なものであり、残された人々にとっては、失われた現実、つまり失われた身近な人々を離れてそのような意味だけが、その複雑さをそのままに、納得する機会も折り合いをつける機会も永遠にやって来ないものとして、残されるのである。さらには残された人々が、「弁証法的増殖過程」どころか、そのような意味の呪縛に耐えられなくなって言わば「否定弁証法的増殖過程」に陥り、最終的には「なぜ自分が生き残ってしまったのか」と自分を責め続けるといったことにもなりかねない、いや、現に被災地ではそのような人々が多いのではないだろうか。だからこそ、そういった人々が意味の呪縛から解放されるための手助けとなるようなケアが必要なのであろう……いや、ここでこれ以上言葉を続けるためには今の私はあまりにも準備不足であり、無神経なことや軽率なことも書いてしまうかもしれない(あるいはもう書いてしまっているかもしれない)ので、このことについてここではもうこれ以上は書かない。ただ、たとえばいまだに苦しみ続けているであろう被災された方々について考える時、藤田氏の平常底解釈は説得力を持つものであると思わざるを得ないし、私は宗教のそして宗教家たちの力に期待せざるを得ない、ということだけは書いておく。

 

と、宗教についてこのように期待を込めて語った後でこんなことを書くのもなんだが……自分では望まなくとも、あるいは自発的な努力をしなくとも、人間はさまざまな意味とそれらによって構成される秩序から解放されて「へうへうと」日常を送らざるを得なくなることがある。たとえば戦争である。E・レヴィナスは『全体性と無限』の中でこう言っている。

戦争においては、現実を覆っていたことばとイメージが現実によって引き裂かれてしまい、現実がその裸形の冷酷さにおいて迫ってくることになる。(中略)戦争は、純粋な存在をめぐる純粋な経験というかたちで生起する。(熊野純彦訳 岩波文庫)

 レヴィナスがここで「ことば」とか「イメージ」とか呼んでいるものを「意味」と置き換えれば、この文章で言われていることはこれまで私が言ってきたことと大して変わらない。戦争は、ことばやイメージや意味といったものの向うにある言わば「裸の現実」を剥き出しにするのであり、そのような現実に直面した時、「人は何のとらわれも気負いも憂いもなく」ただ「へうへうと」そのような現実を日常として生きてゆくしかないのである。そして我々は「堕落論」をはじめとした、坂口安吾が戦後に発表したいくつかの作品の中に、戦争中の人々の日常についての証言を読むことができる。
 

「堕落論」に次のような言葉がある。

私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。

偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。

「運命に従順な人間の姿」とは、「何のとらわれも気負いも憂いもなく」焼野原において「へうへうと」して生きざるを得ない人間の姿である。戦争においてもたらされる偉大な「破壊」とは、さまざまな意味とそれらから成る秩序の破壊であり、偉大な「運命」とは、焼野原で生きる人々の「へうへうと」したあり方が、自分で望んだわけでも自発的な努力の結果として到達したあり方でもなく、自分の意志とは無関係に言わば「投げ込まれた」あり方である、というように解釈出来よう。そして、自分を縛る、あるいはそれによって自分自身を縛ってしまっているさまざまな意味とそれらによって構成される秩序を破壊し、人々をそこから解き放ってくれるという意味では、破壊にしろ運命にしろ、そこに言わば「愛情」が感じられる、ということなのであろう(逆に言えば、意味や秩序から解き放たれることを望む人々が戦争を望む、ということもあるわけで……なんとなく、村上龍の初期の作品『海の向こうで戦争が始まる』を思い出した)。

米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。

 たとえ爆撃直後の焼野原にあっても、人々はただ「素直な運命の子供」として「無心」に、「何のとらわれも気負いも憂いもなく」、「へうへうと」して生を享受する、あるいは享受しようとしないではいられなかった、つまり、「生きていること」を「無心」に楽しもうとして、そこに喜びを見出そうとしないではいられなかったのである。人々は言わば「生への志向」に忠実であったのであり、焼野原にあってさえも(いや、むしろ焼野原にあったからこそ?)人々の心は「生」への関心に溢れ重量に満ちていたのである。安吾が焼野原で見た人々の在り方は、たとえばアガンベンの言う、アウシュビッツで「ムーゼルマン(回教徒)」と呼ばれた人々、つまり、やがてはガス室に送られて殺戮されてしまうという不可避の絶望的な現実を前にして感受性や精神的反応を失うのみならずさらには身体的機能さえ欠落させてしまった人々とは、まったく異なっていたのである(同じように絶望的な状況ありながら、なぜこうも違ったのか。この背景には日本人とユダヤ人の宗教観の大きな違いがあると、私は秘かに考えているのだが……あまりにも大きな話なので、ここでは黙っておく)。

 ちょっと先走って抽象的な話をし過ぎた。以下、安吾の具体的な証言を見てゆこう。「運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである」、安吾が見た「運命に従順な人間」の「美しい姿」とは、どのようなものであったのか。

麹町のあらゆる大邸宅が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで濠端の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。

笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

 言うまでもなく、このような状況は壮絶な爆撃によってもたらされたものである。「上品な父と娘」は帰るべき家を失ったのかもしれないのであり、また、ここの父と娘しかいないということは、もしかしたら他の家族は全員亡くなってしまったのかもしれない。「十五六、十六七の娘達」にしても、頼りに出来る大人たちは皆亡くなってしまってもはや自分たちの力だけで生きてゆくしかない、といった状況なのかもしれない。そのような悲惨な事情があるかもしれないにもかかわらず、そんなこととは無関係に「何のとらわれも気負いも憂いもなく」、安吾自身が目の前の光景を楽しんでいたのであった。

 そして生への志向に忠実であることは、反面、死に対しては、あるいは死に関連し死を連想させるものに対しては無関心であり無感動である、ということである。

ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている道玄坂では、坂の中途にどうやら爆撃のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い路上の鮮血にも気づく者すら居らずたまさか気づく者があっても捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない
 
さらに、すぐ間近に「死」を思わせる状況が迫っていても、人々は「へうへうと」生を享受していたのである。

猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。
 
あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。(「続堕落論」)

 近くで家が燃えていてそれを必死になって消火しようとしている人々がいても、そんな文字通りの火事場には無関心に、ただそこで暖をとれるならば暖まろうとする。自分の頭上に爆弾が落とされるかもしれないにもかかわらず、爆撃が生活に刺激を与えるのならば爆撃機の襲来を楽しみに待つ。そこには「何のとらわれも気負いも憂いも」なかったのである。

 だが安吾は自分も含めた人々の戦争中のそのような「へうへうと」したあり方は、人間にふさわしいあり方ではないと、戦後になってから反省するようになる。人間はそのようなあり方を超えるべく人間らしいあり方を模索してゆかなければならない、それが「生きよ堕ちよ」という言葉に込められた安吾の想いであった。このように書くと、安吾は平常底においてもたらされる宗教的な救いとは言わば逆のベクトルに人間の救いを求めたようにも思われるかもしれないが、もちろんそんなに単純な話ではない。どう単純ではないかと言うと……

今回はここまで。
 
 
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