2015年7月3日金曜日

文学と哲学と ─近代日本思想への「エッセイ」=「試み」─ 10

「無の論理」は「論理」どころではない 2

 さて前回の続き。

早速だが、戸坂が「弁証法の意味や意義」だとか「存在の論理的意義」だとかいったものについて論じているところを見ておこう。
 弁証法の「意味」あるいは「意義」について、戸坂は次のように述べる。

無の論理に於てこそ(自覚の)弁証法が初めて理解され得るというのだから、この論理は弁証法的論理でなければならないように見えるだろう。併しここでは実は、弁証法なるものの意味・意義が解明されているだけであって、本当は決して弁証法が使われているのではない。(中略)無の論理は弁証法的に考える論理ではなくて、弁証法というものの意味が如何にして考えられるかを解釈する処の論理なのである。(「「無の論理」は論理であるか」)

  前回(http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/06/blog-post_23.html)の最後で、「戸坂の言う、存在の論理的意義だとか弁証法の意味だとか意義だとかいうものの指摘を、西田による発見として積極的に評価することはできないだろうか」と、私は書いた。上に挙げた文章の中で、西田を批判する他ならぬ戸坂自身が西田の無の論理あるいは無の弁証法において「弁証法なるものの意味・意義が解明されている」だとか、それが「弁証法というものの意味が如何にして考えられるかを解釈する処の論理なのである」と言うことによって、図らずも西田のラディカルな到達点を認めてしまっているわけだ。

  戸坂は、事物のあるいは存在の「論理的意義」については次のように述べている。

一般に無の論理は、事物そのものを処理する代りに、事物のもつ意味を処理するのである。本当は、事物そのものを処理しない限り事物のもつ充分な意味の処理も出来ないわけだが、ここでは事物そのものからは独立に、事物の意味だけが問題とされる。ここでの問題はいつも、事物がどうやったらば「考え得られる」かである。事物が実際にどうあるかではない、どういう「意味」を持ったものがその事物の名に値いするかである。社会や歴史や自然がどうあるかではなくて、社会や歴史や自然という概念がどういう意義を有ったものであるか、意味の範疇体系に於てどういう位置を占めるか、が問題である。(中略)無の論理は事物の「論理的意義」だけを問題とするのである。

 「本当は、事物そのものを処理しない限り事物のもつ充分な意味の処理も出来ない」、「事物が実際にどうあるか」、「社会や歴史や自然がどうあるか」云々と、前回も述べたように、戸坂はあくまでもいわゆる唯物弁証法的論理の立場から西田の無の論理あるいは無の弁証法を批判しているのであるが、ここでは唯物弁証法的論理の立場については論じない。というのは、唯物弁証法的論理といったものについて論じようとするならば、それが前提とするものを認めざるを得ないのであり、さらに一度そういった前提を認めてしまったならば唯物弁証法的論理の中から抜け出すことが出来なくなるからである(このことについて二点ほど補足。第一に、実はこのような見方は、まさに西田の論理そのものにおいて、明に暗に問題になっている。また第二に、このような困難は西田の哲学を宗教哲学として論じようとする際にもついてまわる困難である。)

 戸坂はさらに述べる。

こうした意味解釈のためだけの論理としてならば、なる程無の論理程徹底した方法はないだろう。有の論理はそれが如何に観念論的なものであろうとも、とにかく観念と云ったような有・存在そのものを取扱うことを免れない。意味だけを、意義だけを、取り扱うためには全く、無の論理に勝るものは又とあるまい。

戸坂はこのように、西田の無の論理あるいは無の弁証法を、一種の解釈学であるとするのである。そして西田を「詩人」であるとし、西田の哲学をブルジョア的であるとかロマン派的・美学的であるとか評した上で、次のように述べる。

現代人の近代資本主義的教養は、この哲学の内に、自分の文化的自由意識の代弁者を見出す。そこで之は文化的自由主義(経済的・政治的・自由主義に対す)の哲学の代表者となるわけである。 

 自由意識だとか自由主義だとかいった言葉が出てきましたね。ところで……

 

「自由」とは、なんだ(尾崎豊の歌みたいだ)。

 

 ここに挙げた文章において、戸坂は明らかに、彼の言う「経済的・政治的・自由主義」こそ問題とされなければならないのであって、それらを問題とせずに「文化的自由主義」を言わば謳歌する立場に対して批判的なのである、あるいはご立腹なのである(多分、上部構造と下部構造のことを言っているのでしょうけど……ごめなさい、今の私はそっち方面には深入り出来ません)。

 だが、「自由」とは何か。あるいは、自由とはいったい、どのような次元において最もラディカルに語られ得るのだろうか(結論を先に言えば、戸坂の論じるところとは逆なのである……が、詳しくは追々)。

 ところで西田は、一方でヘーゲルの論理あるいは弁証法を「過程的弁証法」であるとし、自らの論理あるいは弁証法を「場所的弁証法」としたうえで、前者は後者によって乗り越えられるとも、前者は後者に含まれるとも言っていると同時に、他方で前者を高く評価している。

西田がヘーゲルの論理あるいは弁証法を高く評価するのは、たとえば講演「現実の世界の論理的構造」において論じられているように、西田がそれを西洋哲学の歴史における言わば二大柱であるプラトン的論理とアリストテレス的論理とを総合するものとしてとらえているからである。プラトン的論理とアリストテレス的論理との違いは、結局のところ、実体あるいは真の実在を、判断における述語とするか主語とするかの違いであると言えよう。すなわち、プラトン的論理において、実体あるいは真の実在はイデアなのであり、万物はそれが特殊化した一般的なものとして語られる、とされるのである。つまり「SPである」という判断において、特殊である主語Sに対する述語Pにおいて一般的なものあるいは特殊化したイデアが表現されるのである(たとえば「この人物は善い」という判断において「善のイデア」が、「このバラは美しい」という判断において「美のイデア」が、各々、特殊化した一般的なものとして現れる、というように)。つまり、プラトン的論理において、実体あるいは真の実在は「述語となって主語とならないもの」なのである。それに対してアリストテレス的論理においては、実体あるいは真の実在は、言わば究極的な特殊、もはや「このもの」としか呼びようのない「個物」あるいは「個別的なもの」なのであり、一般的なものはこのような個別の持つ性質にすぎず、個物において存在しているに過ぎないとされる。つまりアリストテレス的論理においては、「SPである」という判断において、実体あるいは真の実在は主語Sなのであって、「主語となって述語とならないもの」なのである。

ようするに西田は、ヘーゲルの論理あるいは弁証法が、プラトン的論理とアリストテレス的論理を総合するものであるとして、すなわち、実体あるいは真の実在の正反対のとらえ方を結びつけるものである、つまり矛盾するとらえ方を総合するものであるとして、高く評価しているのである。では逆に、西田はヘーゲルの論理あるいは弁証法のどのような側面に対して批判的であるのか。そのような側面もまた、ヘーゲルの論理あるいは弁証法が互いに矛盾する実体あるいは真の実在のとらえ方を結び付けているところに由来するのである。すなわち第一に、ヘーゲルの論理あるいは弁証法において一般的なものとはヘーゲルによって絶対者だとか絶対精神だとか呼ばれるものなのであるが、それは「SPである」という判断の主語とされ、あらゆる特殊がそれの自己展開として導き出されるとされる、つまり、絶対者あるいは絶対精神といった実体あるいは真の実在(同業者の方々、ここで例の「実体=主体論」とかいう面倒な問題に突き当たるわけですが、この辺について詳しく話し始めるとたちまちヘーゲルの話に……前回同様以下省略)が主語とされているという点でいまだアリストテレス的なのである。そして第二に、ヘーゲルの弁証法における実体あるいは真の実在(絶対者、絶対精神)は、自己の内にある矛盾を言わば原動力として発展してゆくとされるのであり、そのようなものと個別的なものあるいは特殊なものとは、歴史的・時間的に無限な過程の中において、常に一致へと向かう、ということにならざるを得ない(同業者の方々、もちろん、時間「的」・歴史「的」ということがまた問題なのですが、この辺について……以下省略)。さらに第三に、このような過程は決してその終わりに達することはない、つまり、実体あるいは真の実在(絶対精神、絶対者)と具体的な個物とが一致することは決してないのであり、せいぜい後者が前者とのかかわりにおいて論じられることしか出来ないのであって、ちょうどプラトンの哲学において具体的に存在するものにおいてイデアが完全に現われることはあり得ない、という意味でプラトン的なのである。

西田がヘーゲルの論理あるいは弁証法を「過程的」と評したのは、もちろん、上に述べたヘーゲルの論理あるいは弁証法の第二の側面のためであるが、西田がわざわざ「過程的」と評したことをふまえて第一の側面および第二の側面をとらえ直してみれば次のように言えよう。すなわち、一方で絶対精神や絶対者といったもの(一般的なものあるいは普遍的なもの)はこの「過程」の各々の局面において、何らかの特殊なものや個別的なものにおいて、言わば「限定された」あり方でしか現われることが出来ないのであり、また他方で、何らかの特殊なものや個別的なものもまた、この「過程」の各々の局面において、「不完全な」絶対精神や絶対者(一般的なものあるいは普遍的なもの)でしかあり得ない、つまり、「限定された」絶対精神や絶対者(一般的なものあるいは普遍的なもの)でしかあり得ない。つまり、「過程的」な弁証法においては、普遍的なものも特殊なものも個別的なものも、同じようにある局面における「限定された」ものでしかあり得ないのであり、そのようでしかあり得ないという意味で「不自由」なのである。西田はこのような不自由さを解消しようとしたのであった。だからたとえば、「ヘーゲルの論理の底にケルケゴールの背理の統一という如きものを置いて理解すべきである」(「私の立場から見たヘーゲルの弁証法」)と書いように、ヘーゲルの過程的弁証法の時間性や水平性を乗り越えるために、キルケゴールの「質的弁証法」(キルケゴールはヘーゲルの弁証法を「量的弁証法」であると評し、それに対立するものとして自らの弁証法をこのように称した)における超時間性や垂直性に注目したのであった。そしてそのような思索を経てたどり着いた考え方が「絶対矛盾的自己同一」や「逆対応」といった考え方である(「絶対矛盾的自己同一」や「逆対応」については、http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_29.html)。

ところで、ここで私が論じた過程的弁証法における「不自由さ」とは、一般的なものや特殊なものや個別的なものにとっての不自由さであるばかりではない、つまり、弁証法において論じられる「内容」の不自由さであるばかりではない。それはまた同時に、内容をこのように不自由なものとしか語ることのできない立場自体の限界であり不自由さでもある、つまり、「語る」ということが「内容」に「形式」を与えることであるとすれば、「内容の不自由さ」はまた同時に「形式の不自由さ」でもあるのだ。だからこの不自由さは、過程的弁証法という「形式」そのものにともなう不自由さでもある、つまり、過程的弁証法によって、あるいは過程的弁証法において何かを論じようとする者にとっての不自由さでもある、このようにも言えるであろう。

 

 ところでこのシリーズの第4回目において、私は西田の「行為的直観」について論じた(http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_20.html)。行為的直観とは弁証法的な運動であり、その運動の渦中にあるものが、ある局面において、何らかの限界を乗り越える、つまり、以前よりも自由になる、だがしかし同時に、そこにおいてまた新たな限界が見出され、また、不自由となる。このような限界あるいは不自由は、この運動のそもそもの始まりにおいて在る、あるいはこのような限界あるいは不自由が在るからこそ、行為的直観という弁証法的な運動が始まるのである。そしてこのような運動の始まりをめぐって、このシリーズの第5回目において、私は西田の「自覚」の構造について論じた(http://achirakochirainochigake.blogspot.jp/2015/05/blog-post_26.html)。そこでは「自覚」の問題を、「なぜ人はそもそも何かをしようという意志を抱くのか」という問いとしてとらえ直し、永井均氏の議論を援用しつつ、考えた。すなわち、「雷鳴が響き渡っている─取り立てて言うなら私に於いて」というかたちで「私」が「対象化」されることを「自覚」であるとしたのであるが、さらに「自覚」を「自己の限定」であるとし、自己をどのようなものとして限定するのか、それを「私」は自由に決めることが出来るのだろうか、あるいは、「私」はどこまで自由に自らを対象化できるのだろうか、という問いを立てた。いったん「私」が自己を限定してしまえば、あるいは対象化してしまえば、「私」は「行為的直観」の弁証法的な運動の「過程」に取り込まれることになり、待っているのは限界と不自由の連続である。だから「自由」ということをラディカルに問おうとすれば、「自覚」以前、つまり、自己の限定や自己の対象化に先立つ次元において問われなければならないのである。

……いけませんいけません。何やら議論が堂々巡りの様相を呈してきました。今回のお話ばかりではありません。これまでのシリーズを読み返してみたのですが、シリーズ全体として堂々巡りな感じになってきました。でもまぁ、それは要するに、西田哲学をめぐる私の問題意識が、ようやくまとまってきたと、そういうことなのかな?今回の文章ではこのシリーズの過去の文章への言及も、いつもより多めにあったし、問題が絞られてきた、ということなのかな?ということは……このシリーズも、終りが見えてきたと、そういうこと?それはなんとなく寂しいので……よし、もうちょっとだけ、堂々巡り。胸を張って、ドードーと、ドードーメグリ……今回はこれまで。