2016年8月27日土曜日

成績評価について


この文章は、上智大学にて2016年度春学期に、私の授業である「キリスト教人間学(哲学の根本問題)」を履修した諸君に向けて書いたものである。

 
先日、教務課への成績報告が終わった。近日中に諸君にも結果が通知されるであろう。今回このような文章を公開したのは、私の授業の成績が不本意な結果であったと感じる諸君が多いのではないかと、私が想っているからである。そのような諸君のうちの一人でも多くが、web上のこの拙文に気づいてくれることを、心より願っている。

 
諸君が提出してくれた最終レポートは力作が多く、内容においてはいずれも甲乙つけがたいものであった。多くの諸君が、最終レポートの内容という観点からすれば、十分に最高評価を受けるに値したのである。ではなぜ今回、結果が不本意であると感じている諸君が多いであろう、ということになったのか。それは、上智大学の成績評価基準において、最高評価を認めることのできる学生の人数が制限されているから、つまり、一つのクラスの中で、Aを取得できる履修者の人数が決められているから、である。このような基準を採用しているのは上智大学に限らない。近年、日本の多くの大学がこのような基準を採用しているのであり、諸君は大学の制度改革の、いわば過渡期に、学生時代を過ごしているわけである。

 
このような厳しい成績評価基準をうけて、力作ぞろいの諸君の最終レポートをどのように評価するか、その困難な決定は、たとえばレポートの書き方をきちんと心得ているかどうかといった、あくまでも形式的な観点を基準とせざるを得なかった。このような基準によって、諸君の力作に、諸君の思索の軌跡に、優劣をつけざるをえなかったのは、まさに断腸の想いであった。この授業の履修者は、圧倒的に一年生の諸君が多く、したがってこの授業は大学に入学して初めて受けた授業の一つであり、さらにこの授業は上智大学のコア科目、つまり最も上智大学らしい授業なのであるから、多くの履修者諸君に最高の評価を得てもらい、大学生としての、そして上智大学の学生としての、自信をもってほしい、という願いも私にはあったからである。正直に言えば、採点をしている間、「クビを覚悟でひとつ派手なことをやってやろうか」、などと想ったこともあった。実際、こんな薄汚い首の一つや二つ、切られたところでどうということもないのだが、それは思い直した。というのは、そのようなことをした結果、たとえば「公平を期するために履修者全員再試験」などということになってしまったとすれば、私一人のクビがどうのこうのといったつまらない問題にとどまらず、諸君に多大な迷惑を及ぼすことになってしまうからである。一人のオッサンの安っぽいヒロイズムが受け入れられるほど、世の中は甘くはないのである。

 
しかしながら、学生諸君にしてみれば、大学の制度改革や教員の個人的な想いなど、はっきり言ってどうでも良いことであろう。たとえばGPA、つまり履修した全科目の成績を平均化した数値=データは、就職、進学、留学などに影響する場合もあるからであり、この数値=データ、そして一つ一つの科目の成績は、諸君にとっては切実な意味をもつからである。だから、今回の成績が不本意でありどうしても納得ができないというのであれば、「異議申し立て」をしてもらっても、もちろんかまわない。だがその前に、どうしても諸君の心に留めておいてほしいことがある。以下、ぜひとも読んでおいていただきたい。


諸君にとって私の授業は、決して楽なものでも甘いものでもなかったはずである。むしろ同じキリスト教人間学の担当教員の中でも、授業については、私は最も厳しい要求をする教員だったのではないだろうか。そのような厳しい教員の厳しい授業に、諸君はよくついてきてくれた。そして受講生諸君の多くが、私の授業からしっかりと何かを得てくれたようだ。それは、諸君の授業中の反応や毎回の小テストの回答などから、とてもよくわかった。このような授業ができたことは、教員としては最高の喜びである。それは教員である私の力によるものではなく、諸君の一人一人が自分の「善い部分」で私に応えてくれたおかげだと想っている。そのことについては、素直に諸君に感謝したい。どうもありがとう。そしてさらに、多くの諸君が、私が最後に与えた困難な課題にも、全力で応じてくれた。さきにも述べたように、そのような諸君のレポートは、実質的には、十分に最高評価を受けるに値するのである。だから、これからの大学生活において、そして人生において、何かを決定しなければならない際に、少なくとも気持ちにおいては、決して萎縮しないでほしい、決して自分を卑下してくれるな。諸君が何かを決定しようとする際に、ただデータだけを基準にして、諸君の気持ちに、諸君の希望に、冷笑を向けるような人々に、どうか屈しないでほしい。そして、今回私が下した成績評価とは別に、諸君が諸君の抱く希望に値するということを、誰がどう考えようと誰が何と言おうと、少なくとも私は、認めよう。だからどうか自信をもって、これからの学生生活を、そして人生を、送ってほしい。

 
伝えておきたいことは以上である。異議申し立てをしたい諸君は、秋学期開始後、私が授業を行っている教室まで、または前期の授業内で伝えたキリスト教人間学準備室まで、足を運んでいただきたい。

 

2016年8月19日金曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十四回開催情報


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十四回開催情報


「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~


フェイスブック・コミュニティ https://www.facebook.com/chikurinsawakai

~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 

第十四回 テーマ 「死は怖いですか?」

開催日時 2016年910日(土) 17:00頃〜(19:00頃までを予定)

開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp

料金 1000円(1drink付き)

 

基本ルール

1 人の話はちゃんと聞く

2 「考え方は人それぞれ」は禁止

3 「偉い人」には頼らない

~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~

「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第十四回目のテーマは……
 

「死は怖いですか?」

 
です。

「死」については、古来、哲学においてのみならず、宗教、芸術、文学など、多くの領域において、実に様々に論じられてきました。特に、「死の恐怖をどうやって乗りこえるか」ということは、きわめて重要なテーマでありました。

しかし、そもそもなぜ「死」は「怖い」のでしょうか。

自分自身の「死」と自分以外の「死」、どちらかは怖くてどちらかは怖くないのでしょうか、あるいは、両者の怖さにはどんな違いがあるのでしょうか、はたまた、どちらも同じように怖いのでしょうか。

もちろん、「死なんて怖くない!」という方のお話も、ぜひぜひお聴きしたいです!


今回も、たくさんの方々のご参加を、お待ちしております!

                                                                   (by the master of the bar bamboo)

2016年8月16日火曜日

宣伝です。


宣伝です(笑)

『情況 201667月―変革のための総合誌 ヘーゲル大論理学』(状況出版)に拙論を掲載していただきました。

タイトルは

「主観性あるいは自由の国」の「手前で」(p197213

です。

タイトル、ちょっと遊んでみました。分かる人には分かる、でも、分かる人つまり同業者であるヘーゲル研究者の多くは、ニヤリとするどころか、怒っちゃうんだろうなぁ。でもまぁいいや、今回、同業者は(笑)。今回の文章は、専門外の方々にも読んでいただけるようにということを意識しながら、書きました。が、あらためて読み直してみると、結果は……う~ん、イマイチ、いや、イマニ?いやいや、イマサン?(笑)。ヘーゲル研究者の性(さが)みたいなものなのかもしれないけれど、どうしても、ヘーゲル独特の用語が作りだす世界から、抜け出せていません。でも、めげません。幸いにして今年度は、あといくつかヘーゲル関係のお仕事があるので、しばらくはこういう試みを続けたいと思います。それから、このブログでも近々そういった方向での企画を開始しますので、乞う御期待。

 

今回のこの雑誌、私の文章はともかく、加藤尚武先生、山口祐弘先生、久保陽一先生といった日本におけるヘーゲル研究の重鎮の先生方をはじめ、大活躍中の中堅研究者たちや期待の若手研究者たちの論文が収められています。ヘーゲルの、特に論理学に関心のある方々、買っておいて損はないですよ!オススメです!

 

……と思ったら、Amazonでは「現在お取扱いできません」なおかつ「入荷未定」だそうです(涙)。ご関心のある方は、本屋さんや図書館でお探しください。ご足労をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いします。

見つからなかったら、中畑がなんとかする……かも(笑)。
 
Amazonアソシエイト(アフィリエイト)
『情況 201667月―変革のための総合誌 ヘーゲル大論理学』(状況出版、2016年)
http://amzn.to/2bbhxBZ

2016年8月14日日曜日

「第十三回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第十三回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記



「子どもの頃、デパートのUFO展に行ったら、見知らぬおじさんにつかまって、ミステリー・サークルがいかにインチキなものであるのか、懇々と説かれた。」

「落ち武者の幽霊は現われるのに、なぜ縄文人の幽霊は現われないのか?」

 
813日、「第十三回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は、このようなとっても楽しい話題から始まりました。

テーマは「不思議な体験、ありますか?」

参加者はマスターと私を含めて13名。今回も、初めて参加してくださった方々がおられ、嬉しい限りです。応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

 
さて、白状いたします。私、今回は「夏休み特別企画」とか「納涼企画」といった感じで、冒頭にご紹介したような楽しいお話を、とりとめもなく続けられればそれで良いかなぁ~などと、思っておりました。

が、しかし……やはり、哲学カフェ。どうしても哲学的な方向に、話は展開してゆくのですね(笑)。考えてみれば、哲学って歴史的には、不思議なこと、不思議だとされていたことに対する、人間の一つの知的な態度として発達してきたとも言えるわけで、今回のテーマ、そもそも、とってもとっても哲学的だったのかもしれません。

 
そして対話の観点は、「不思議」から、「謎」、「恐怖」等々へと、広がってゆきました。また、話題も、「ホラー映画」、「恐怖と文化」、さらには「夢」など、多岐に渡ったのでした。

 
そもそも、なぜ人は「不思議な体験」をするんだ?

それは「不思議」に対する「願望」を、人が抱いているからじゃないのか?

いや、「願望」っていったって、どんな願望だ?

「不思議だ」とか「怖い」とか言いながら、実はみんな、そういうのを楽しみたいんじゃないか?

いやいや、そもそも、人はなんでそんな「願望」を抱くんだ?

ちょっと待った、「願望」とか「楽しさ」ってことはさ、じゃぁ、「不思議」な感じって、個人的なもの、なのかな?

いやいやいや、「あーそれは不思議だね」って、他の人に認めてもらってその「不思議さ」を他の人と共有できなきゃ、そもそも「不思議」って言えないんじゃないのか?

だからさ、結局その「不思議」って、そもそもなんなんだ?


……等々、「不思議」をめぐって、「謎」は深まっていったのでした。

夏のこの時期に実に相応しい、また、非常に哲学的な、濃密な対話となったのではないかと思います。

 
さて、「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」、次回第十四回は、910日を予定しております。テーマはまだ決まっておりません。こんな話をしてみたい、といったご希望ご提案などございましたら、ぜひぜひお寄せ下さい。

次回もたくさんの方々のご参加を、お待ちしております!

 

今回ご紹介した本です。
実は今回、ぜひともこの時期に、この本を読んでいただきたい、あるいは映画化された作品をご覧いただきたいと思い、この「開催後記」、ちょっとがんばっていつもより早めにUPいたしました(笑)。オススメです!(Amazonアソシエイト(アフィリエイト))
山田太一『異人たちとの夏』(新潮文庫、1991年)
http://amzn.to/2aTlm1v


 

2016年8月12日金曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 二年目を迎えて(前篇)


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 二年目を迎えて(前篇)

 二年目を迎え、さて、何から話そうか……そうそう、都内で哲学カフェを開催しているあるお仲間が、最近フェイス・ブック上で、ある本の中から哲学カフェについてある大学の先生が書いた文章を引用されていた(○藤さん、ありがとう!)。そこで、叩き台、と言ってはなんだけれども、それを読んで私が抱いた印象のようなものを書くところから、始めよう……おっと、あらかじめお断りしておくけれども、ここではその文章を書いた先生のお名前を挙げることもしないし、引用箇所をいちいち指示することもいたしません。そうなると本格的な批判的作業になってしまうのであって、そのためにはその先生の書いた文章の全体を、さらにはその文章の収められている本の全体を読まなければならない。ところが、現在までに私が読んでいるのは一部の引用された文章だけであり、私がその本を手に取って読むことは、少なくともしばらくの間は、おそらくないであろう。そんな状態で批判などしてしまっては、その先生にあまりにも失礼であり、また、一応は学者の端くれにできたシワぐらいではある私自身の誠実さが問われることにもなるからである。いや、だいたい、こんなどこの馬の骨とも知れないような輩に、名指しで批判がましいことを言われたら、いい迷惑でしょ、その先生。そういった次第ですので、この先生のことを、以下、「某先生」とお呼びします。

 某先生の文章の趣旨は「哲学カフェは楽しい。けれども、危うい。」ということであった。そして、楽しさには「危うさ」がつきものなのであり、大事なことはたんに楽しさを求めるのではなく、かといって楽しさを求めないのでもなく、「危うさ」を知ったうえで楽しさを求めることである、と、文章をまとめている……あーいやいや、そもそもこういう表現を、あまり真面目に受け止めてはいけないのかもしれない。これは要するに、「良いところもある、が、悪いところもある」と言ってるだけなのであって、意地の悪い言い方をすれば、要するに何も言っていないに等しいからである。まぁ、それも仕方がないことなのであろう。主催者・ファシリテーターとしてはまだまだ若輩の私が言うのもなんだが、なにしろ哲学カフェ、最近でこそ日本でも少しずつ盛んになってきたものの、まだまだ歴史は浅く、良きにつけ悪しきにつけ、どう評価してよいものやら、まだまだ良くわからない、というのが関係者の正直なところであろうから。だがしかし、若輩ではあるけれども哲学カフェにかかわってきた身としては、どうしても、「危うい」とか「危うさ」といった言葉が、気に食わ……いやいや、気になるのであります。某先生は哲学カフェには「いろいろな危うさ」がありそうだと言っているが、とくに指摘している「危うさ」として……

1哲学カフェでは、楽しさを優先するあまり考えることの苦しさを避けてしまう「危うさ」がある。

2哲学は難解な「学問」であるのだが、哲学カフェにおいてはものごとを単純で平易にとらえてしまう「危うさ」がある。

3哲学カフェにおいては、「自分や他人のことを思うあまり」、考え方の「対立」をそのままにしてしまう「危うさ」がある。

4哲学カフェにおいては自分の理解できる範囲でしか考えず、それで考えた気になってしまったりする「危うさ」がある。

 せっかくこうやって箇条書きにしたのだから、これから一つずつ検討してみることにするが、その前に、全体的に、なぜ某先生はこのように考えてしまうのか、ちょっと考えてみたい。

某先生によると、哲学とは「苦しい」営みであり、「難解な」学問なのであって、そこには考え方の対立があってはならず、自分で考えなければならないもの……だそうだ。このような哲学の定義(のようなもの)あるいは哲学観を読んで、皆さん、特に哲学カフェの関係者の皆さん、それから哲学カフェへの参加者の皆さんは、どのようにお感じになるであろうか。おそらく、かなりの違和感を抱く、あるいはさらには、大いに文句を言いたい、という方々も少なくないのではないだろうか……いや、このようにまとめてしまうと、おそらく、某先生の意図からは、ほぼ完全にかけ離れてしまっていることであろう。はい、某先生、もはや実在の人物ではなく、私のたんなる仮想敵です(笑)。

で、私の見解。某先生の哲学観は、日本においては、少なくとも間違ってはいない。少なくとも、というのは、日本の大学をはじめとしたアカデミックな世界で教えられ研究される哲学というのは、まさにこのようなものだからである。そう、それはそれは苦しく、難解で、見解の対立を解消すべく日々激しい闘争がくり広げられている……日本のアカデミックな世界における哲学とは、こういったものなのである。そして私もまた、そういった世界の中で日々闘っている……ような気もするが、でもまぁ、それはきっと気のせいなのだろう。あ、でもでも、某先生の哲学観の最後の、「自分で考えなければならない」ということは、この世界には必ずしも当てはまりません。研究領域や研究対象にもよりますが、たとえば「私はこう考えます」などという言い方をしてしまうと、むしろ、「それはお前の何の根拠もない妄想だろうが!」などと総攻撃を受けることになります。

以上はアカデミックな世界での、あくまでもアカデミックな世界での、常識的な話。そして、アカデミックな世界での常識は、往々にして、一般的な世間では非常識である。哲学観、あるいは、「哲学」という言葉のもつイメージについても、また然り。少なくとも日本において一般的に、「哲学」という言葉は、このようなアカデミックな哲学観とは、ずいぶんと違ったイメージをもった言葉なのではなだろうか。

少なくとも日本において、「哲学」という言葉は、これまで見てきたような「学問」としての範囲を超えて、つまり、それを専門とする人たちにとってのみならず、多くの人々にとって、なにか高尚なもの、大切なことにかかわるものであるというイメージがある……らしい。それはたとえば「人生哲学」だの「成功哲学」だのといった言葉があることからもわかる。ほら、本屋さんに行くと、よくこういう言葉をタイトルに含む本、見かけるでしょ?どれもたいてい似たような内容で、そして、どれもほぼ間違いなくつまらない、あの手の本、ですよ。でもなぜか不思議と、ああいうタイトルの本が本屋さんから消えることって、ないんですよね……。それはつまり、タイトルに「哲学」と書いただけで、そこにはなにやら高尚で、大切なことについて書かれているものだと、売る方としてはそういうことを「売り」にして「哲学」という言葉をタイトルに込めているわけだし、買う方としてはその本にはそういうことについて書かれているということをタイトルから読みとる、というやり取りが成り立っているわけだ。繰り返しになるが、この手の本は、どれもたいていつまらない、だからこの手の本のタイトルに「哲学」という言葉が使われるのは、一応は、いや、曲がりなりにも、いや、腐っても……兎にも角にも哲学の側に立つ身としては、非常にマイナスなような気がしないでもないが、このような意味を込めて「哲学」という言葉が使われるのは、実は、そんなに間違ってはいない(しつこいようだけど、内容はともかく、ね)。そのことについてお話する前に、私自身の哲学観、いや、そんな大げさなことではなく、「哲学」という言葉の意味についての、私自身の見解について、お話しておく。

私の場合、この言葉についての基本的な解釈は、いつでもだいたい変わらない。つまり、自分でものを考えたり書いたりする時も、学生諸君に教える時も、そして哲学カフェの主催者・ファシリテーターである時にも参加者である時にも、変わらない。といっても、それは別に大したことではなく、「哲学」を、philosophiaとして解釈しているという、ただそれだけのことである。蛇足ながら一応の説明をしておきますと、philosophiaという言葉はphiloという部分とsophiaという部分から成り立っている。そしてphiloとは「愛」を意味するphiliaという語が変化したものであり、sophiaとは「知」を意味する。だから「哲学」という言葉はそもそも、「知を愛する」とか「知を愛し求める」といった意味であるわけだ。もちろん、このように原義に忠実に解釈したからといっても、問題は多々ある。たとえば、ここで「知」とされるものが一体どのようなものなのか、という問題。ちなみにさきほど、日本における「高尚だとか大切なことだとかにかかわる」という「哲学」のイメージは間違ってはいないと言ったが、それはこの「知」にかかわっている。明治時代初期、.西周(にし あまね)という人物はphilosophiaを「希哲学」と訳した。つまり「『哲』を希求する学」ということである。つまり、sophia=知が「哲」という語で表現されているわけだが、この「哲」という語が、「高尚なこと」だとか「大切なこと」、あるいは「非日常的」なこと、といったニュアンスをもつ語なのである(辞書的なあるいは語源的な意味で、ということではなく、この語の用法やその解釈から、こう考えられる、ということですがね)。

だいぶ回り道をしてしまったが、某先生の哲学カフェについての文章に、もどる。
某先生が「危うさ」という表現を用いているのは、某先生にとっての「哲学」が、哲学カフェという場において破壊されてしまう、あるいは少なくとも否定されてしまう、といった「危機感」を、某先生が感じたからであろう。先生がアカデミックな世界の住人である以上、それは当然のことだ(まぁ、お仕事だし、ね)。だが、主催者であるにせよ参加者であるにせよ、哲学カフェにかかわる人たちが、先生の感じる「危うさ」を共有する必要は、ないのである。くり返しになるが、哲学というものは、多くの人々にとって、それがどんなものであるのかははっきりとは分からないにしても、学問という範囲を超えて、なにやら高尚なもの、大切なことにかかわるものである、というように受け止められているようであり、そうである以上、「これが哲学だ」とか「これは哲学ではない」とか、誰にも決める権利や資格はないはずだからである。こういった点は、他の諸学問と比べた場合の、哲学というものの特殊な事情なのかもしれない。つまり、他の学問のように、専門家がリードして一般の人々を指導・啓蒙するということが、哲学においては必ずしも成り立たないからである(現に、先にも述べた「人生哲学」だの「成功哲学」だのといったかたちで、専門とは全く無縁でありながら「哲学」という呼称がまかり通っている)。いやいや、これは哲学に限らず、人文社会系の学問全般に共通することなのかもしれない。そして、専門家たちがそのような指導・啓蒙に本気で取り組んでこなかったものだから、最近になってたとえば自分たちの歴史的・政治的見解に声高に反対する人々が現れると、専門家たちはそういう人々に、反知性主義者などとヒステリックにレッテル貼りをするわけである……おっと、これはいくらなんでも脱線のし過ぎか(笑)。先ほど、某先生が指摘した「危うさ」として「自分て考えた気になってしまう」ということを挙げたが、アカデミックな世界での哲学の専門家たちのほとんどは、表面的には「自分で考える」ということを礼賛してきたものの、実際にはそんなことに価値があるとは思ってすらいなかった、あるいは思ってすらいないし、ましてや、「自分で考える」ということを一般の人々に本気で指導・啓蒙することなど、まったくしてこなかったわけである(まぁせいぜい、「一般人は俺様たちの言っていることをそのままありがたく聞いておけばいいのだ」といったところか)。そこで、いや、だからこそ、「自分で考える」ということの欠如に、それこそ本当に危機感を感じている人たちが始め、また、「自分で考える」ことを望む人たちが集っている場、それが、「哲学カフェ」という場なのではないのか。

 ということで、以下、先に箇条書きにした四つの「危うさ」について検討してゆく……が、諸事情により今回はこれまで。