2016年7月26日火曜日

「神話的な知」について……ほぼ私信(笑)


「神話的な知」について……ほぼ私信(笑)


 哲学の授業や宗教関係の授業で、よく神話についての話をする。学生たちの中には、講義の本筋よりも、むしろ神話そのものに(神話「についての話に」ではなく)大いに興味をもってしまう諸君もいる……いや、結構いる(笑)。哲学を教える立場としては、これは問題であると言えなくもない。というのは、古代ギリシアにおいて、哲学の探求はそもそも神話的世界観を否定するものとして開始されたという側面があるのであって、私の授業でもそのような文脈において神話について論じられるからである。宗教関係の授業の場合もそうだ。特にキリスト教について論じる場合、聖書の内容がいかに神話と異なるか、さらに言えば、いかに反神話的であるかということを強調するために、私は神話について話をするのだから。しかしながら、神話の方に引き込まれてしまう学生諸君には私のこのような意図は伝わっていないようだ。いや、伝わっているのかもしれないが、というよりも、伝わっているものだと思いたいが、それでもどうしても授業の本筋よりも神話の方に魅力を感じてしまう諸君も多いようだ。

 なぜ神話というものはこのように魅力的なのであろうか。そんな大きな問題について、ここではきちんとした回答を示すことはできないが、少なくとも私なりに考えるところを、若干、論じておきたい。


 ところで、いきなり神話の話から逸れるが、坂口安吾はエッセイ「文学のふるさと」の中で、シャルル・ペローの「赤頭巾」について論じている。

シャルル・ペロオの童話に「赤頭巾」という名高い話があります。既に御存じとは思いますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれていた可愛い少女が、いつものように森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。まったく、ただ、それだけの話であります。

 我々日本人の間で親しまれている「赤頭巾」の物語は、ハッピーエンドに終わるグリム版であろう。その内容は……え~っと、どんな感じだったっけ?ごめんなさい、よく覚えてません(笑)。たしか、最後に赤頭巾ちゃんは善良な猟師さんに助けられてめでたしめでたし……こんな感じだったかな?(笑)。

 さて、安吾はペロー版の「赤頭巾」には「教訓」や「モラル」といったものが欠けている(「アモラル」である)と指摘する。この場合、あるべきはずの教訓やモラルといえば、たとえば、「愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない」女の子は、大変な目に遭っても善良な人に助けてもらえた、だから皆さんもこの女の子のように良い子でいましょう、といったところであろうか。それはともかく、安吾はたんに童話にとどまらず、小説なども含めた物語一般とモラルとの関係について、次のように述べる。

童話のみではありません。小説全体として見ても、いったい、モラルのない小説というのがあるでしょうか。小説家の立場としても、なにか、モラル、そういうものの意図がなくて、小説を書きつづける――そういうことが有り得ようとは、ちょっと、想像ができません。

 しかし、ペローによる「赤頭巾」の物語は、モラルがないにもかかわらず、「三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている」。ということは、まさにモラルがないということ自体に、この物語のもつ意義、あるいはこの物語が読者に及ぼす効果といったものがあるのだと考えることもできるのではないか。このことをめぐって、安吾は次のように述べる。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

 モラルや「お約束」通りの結末のない物語の最後に読者にもたらされる「余白」、それを安吾は「ふるさと」と呼んでいるわけである。「ふるさと」とはもちろん「起源」なのであるが、そこではモラルもお約束も成立していない。そしてそのような「余白」こそが、モラルや「お約束」が成立する起源、「ふるさと」であると、安吾は言っているのである。

 安吾は「ふるさと」について、さらに次のように述べる。

私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

 つまり、安吾はこのような「ふるさと」が、文学のみならず人間の営みそのものがそこから出立する起源であると言っているのである。安吾の論じているところを次のように敷衍することもできよう、すなわち、そもそも人間の生活、あるいは人間が生きるこの世界にはそもそもモラルといったもの、あるいは「こういう人間はこうなる」だとか「ああいった生き方をしていればああなる」といったお約束(「因果関係」と言ってもよい)のようなものは、そもそも存在しないのである。ところが我々人間は、我々が生きるこの世界にモラルあるいはお約束が成り立っているということを「あたり前」のこととして生きているのである(ちなみにラカンの用語で言えば、我々がそこにモラルやお約束が成立していることを「あたり前」としている「この世界」を「象徴界」、モラルやお約束のない「ありのままの現実」を「現実界」と呼ぶこともできる……かもしれない)。安吾は、文学作品というものはこのような「ありのままの現実」を見据えたうえで創作されなければならない、さらに言えば、人間はこのような「ありのままの現実」を見据えつつ生きてゆかなければならない、そう言っているのである。

ところで我々人間は、「ありのままの現実」が合理的には説明不可能であるということ、理不尽なものであるということを、本当は「知っている」のではないだろうか。そしてペローによる「赤頭巾」の物語が「三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている」という「厳たる事実」は、人間が「ありのままの現実」がそのようなものであるということを無視できない、あるいは注目せずにはいられないということを証しているようにも思われる。にもかかわらず人間はそのことを「知らないふり」をしている、いや、「知らないふり」を「しなければならない」、とさえ言えるかもしれない。なぜならば人間は、「ありのままの現実」の理不尽さに耐えることができないからである。だからこそ、人間は現実を耐え得るものにするために、そこにモラルあるいはお約束の通じる世界を構築しなければならないのである。「モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ」という安吾の逆説的な言葉は、人間がそのような世界を構築し得るのだという可能性を表現したものである。そして次に挙げる文章に述べられていることは、文学作品についてのみならず、人間の生の営みそのものに当てはまる。

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

さて、神話、である。古代の昔に神話の言葉を紡ぎ出した人々は、「ありのままの現実」が理不尽なものであるということに、きわめて自覚的であったのではないだろうか。だからこそ、そのような現実を「耐えられる」ものにするために、彼らは「この世界」を説明する物語を作り出した、いや、むしろ逆に、彼らがそのような物語を作り出したがゆえに、「ありのままの現実」とは別の、あたり前の、耐えられる、「この世界」が構築された、そういうことなのかもしれない。神話的な世界観とはまさにそのような営みの上に成立したものなのであって、だから神話とは、たんなる荒唐無稽な、子ども向けのお話なのではない。そうではなくて、子どもが大人になるために、いわば「ゆりかご」から出てゆくために、紡ぎ出され語られ続けてきたものなのではないだろうか。

 だが人間は神話的な世界観に安住することは許されない。神話的世界観を維持し、その中で生きながらも、人間は「ふるさと」を忘れてはならない、つまり、「ありのままの現実」が合理的には説明不可能で理不尽なものであることを忘れてはならないのである。

だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。

 おそらく、「ふるさとの意識・自覚」がまったく失われてしまうと、時としてとんでもないことになるのであろう。たとえば、話がいきなり現代的になってしまって恐縮だが、我が国において「原発安全神話」というものを信じていた人々がいた。原発政策についての私の見解や立場はここでは置いておくことにしても、少なくとも人間が作りだしたものである以上、原発がまったく安全なものだということは絶対にあり得ない、ということは確かである。原子力開発に携わっていた人々、原子力政策を推し進めてきた人々だって、そんなことは百も承知であったはずである。しかしながら、原発安全神話を信じていた人々は、人間が作りだした原発が、いつでも災害や事故といった理不尽な出来事によってもろくも壊れてしまい得るということを、いつしか忘れてしまっていたのではあるまいか。くり返しの引用で恐縮ではあるが、ペローによる「赤頭巾」の物語が「三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている」ということも、「ふるさと」に自覚的であろうとする人々の危機意識の現われであるのかもしれない。


ところで先ほどの「文学のふるさと」からの引用の中に「大人の仕事」という表現があったが、内田樹は「半分あきらめて生きる」という文章の中で、人間が人間らしく暮らしてゆくための「四つ根源的な仕事」、すなわち「裁き」、「癒し」、「学び」、「祈り」を挙げ、それらの仕事を担うのが「大人」でなければならない、つまりこのような仕事がまさに「大人の仕事」であると、論じている。このような仕事について内田は、崩壊してカオスとなってしまった社会システムがいかにして再生し得るかということを論じる文脈において、次のように述べている。

カオスにおいても秩序は均質的には崩れない。激しく崩れる部分と、部分的秩序が生き延びる場が混在するのがカオスなのである。どれほど世の中が崩れても、崩れずに残るものがある。それなしでは人間が集団的に生きてゆくことができない制度はどんな場合でも残るか、あるいは瓦礫の中から真っ先に再生する。どれほど悲惨な難民キャンプでも、そこに暮らす人々の争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み、神の加護と慈悲を祈るための霊的な場だけは残る。そこが人間性の最後の砦だからである。それが失われたらもう人間は集団的には生きてゆけない。

 このような「大人の仕事」によって維持される場所を、内田は「ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所」、と表現している。このような場所とはつまり、理不尽な「ありのままの現実」に人間が直面せずに済むように構築された世界、ということであろう。そしてそのような世界こそが「人間らしい」世界なのである。

ところで、今すぐに確認することは出来ないけれども、世界中の数ある神話体系の中で、内田の言うこれら四つの根源的な仕事をテーマとするエピソードをまったく含まないものがあるだろうか?つまり、どのような神話体系にも、これら四つの根源的な仕事をテーマとするエピソードが、もれなく含まれているのではないだろうか(いや、さすがにこれは言いすぎか……)。そして洋の東西を問わず、神話に登場する神々はまことに人間らしい。神話の中の神々は、喜び、悲しみ、怒り、嫉妬し、そして嘘をつく。つまり、神話とはまさに「人間らしい世界」とは、そして「人間らしさ」とはどのようなものであるのか、さらに言えば、どのようなものでなければならないのか、といったことを説く物語なのである。そして、そのようなものとしての神話は、モラルともお約束とも無縁な「ありのままの現実」に対する人間の抵抗の記録であるとも言えるであろう(ちなみに今、「素朴な抵抗」として書こうとして、やめた。たしかに、神話に描かれる神々は、素朴にすぎるほど人間らしい。しかし、そのような素朴なキャラクターが登場する物語を紡ぎだすこと自体は、決して素朴な営みなどではなく、むしろ高度に洗練された人間的な営みだからである)。


まとめよう。この文章のタイトルは「『神話的な知』について」である。「神話的な知」とは何か。これまで述べてきたことをふまえて簡潔に言えば、それは人間が理不尽な「ありのままの現実」に直面せずに済むように紡ぎ出された知である。そして、なぜ神話が魅力的なのかという問いと関連させてさらに言えば……いや、やはりこの問いへの正面からの回答をこの場で示すことはできないが、さしあたり次のように言っておきたい。すなわち、人々が神話に強い魅力を感じるというまさにその点において、「この世界」の、そして「人間らしさ」の「起源」について、人間は無関心ではいられない存在なのであるということが示されているのである、と。

 

坂口安吾「文学のふるさと」(青空文庫)


内田樹「半分あきらめて生きる」(ブログ「内田樹の研究室」)


 
 
……ところでそこの君、どうだろう?(笑)短い文章だけど、とりあえず大急ぎで書いてみました。レポート提出期日まで、もうあまり日数はないけれど、参考にしてもらえれば嬉しいです。我ながらつながりが怪しい部分などもいくつかありますが、その辺は授業での話を思い出したりノートを読み返したりして補完してみてください(笑)。神話の内容についての具体的な考察などは、君に任せます。ではでは、レポート、楽しんで書いてください!