2016年6月20日月曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十二回開催情報


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十二回開催情報


「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

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フェイスブック・イベントページ https://www.facebook.com/events/1342326075784378/

フェイスブック・コミュニティ https://www.facebook.com/chikurinsawakai

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竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 

第十二回 テーマ「贅沢(ぜいたく)」

開催日時 201679 17:00〜(19:00頃までを予定)

開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp

料金 1000円(1drink付き)


基本ルール

1 人の話はちゃんと聞く

2 『考え方は人それぞれ』は禁止

3 『偉い人』には頼らない

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「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第十二回目のテーマは……

 

「贅沢(ぜいたく)」

 

です。

 
「アフリカではいまこの瞬間にも多くの子どもたちが飢え死にしつつある」、なんて話をよく聞きますよね。

そんな話を聞くと、たとえばお昼に入った牛丼屋さんで、並盛の牛丼に卵をつけようかとか豚汁も一緒に頼もうかといったことでちょっと悩むなどということが、なにやらとても「贅沢」な悩みに思えてきま……

いやいや、他方で、お金持ちの「贅沢」三昧な生活について話に聞いたりすると、そもそもお昼にワンコインで済む牛丼しか食べられない(あるいは食べない)ことが、なんとまぁ、つつましい食生活に思えてくることか……。

そしてそして、「アフリカではいまこの瞬間にも……云々」といった話をよくする人たちの中には、まさにそれこそ「贅沢」三昧の生活を送っているお金持ちの方々も、少なくなかったり……。

「贅沢」って、いったい、なんなんでしょう?
 

さて、竹林茶話会は、おかげさまで発足一周年、記念すべき第十二回目をむかえます。

今回も、たくさんの方々のご参加を、お待ちしております!
 

           (by the master of bar bamboo)

2016年6月16日木曜日

「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


514日、「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。

テーマは「恋愛」。参加者はマスターと私を含めて14名、初めて参加してくださった方々もおられ、とても楽しい集いとなりました。また今回は竹林茶話会終了後の、いわゆる「after 哲学カフェ」あるいは「裏・竹林茶話会」も大いに盛り上がりました(笑)。

応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回の恋愛というテーマ、果たしてどのような方向に対話が展開してゆくのか、開催直前まで、実は主催者・ファシリテーターとして、私はかなり不安を抱いておりました。結果的に、とても楽しい対話となってので、安心しております。いやぁ、良かった。

良かった、のですが……。対話の最中は、実は結構ヒヤヒヤしておりました(苦笑)。

対話の冒頭、ニーチェの、ある人物の生涯の三つのエピソードがわかればその人物がどんな人物であるかわかる、といった趣旨の言葉を紹介(いや、実はニーチェがこの言葉を書いた意図と私がこの言葉を紹介した意図とは、だいぶ違うのですが)、私たちにとって恋愛もまたそういったエピソードの一つとなり得るのではないか、ということを申し上げましたが……対話の最中、まさにこの言葉の意味を、私は思い知らされた気がいたしました(いや、実はニーチェがこの言葉を書いた意図と……以下省略)。さきほど私が開催直前まで不安を感じていたと申し上げましたが、それは人が恋愛について何かを問いかけようとする場合、また逆に、恋愛について自分の考え方を伝えようとする場合、どうしても自分の恋愛体験が反映されてしまうということが、多々あるからであり、また今回の対話でもそのような場面が何度か見られたように思います。また、なんらかの恋愛のかたちについて語る際、それはたとえば、今回の対話の前半で話題になった不倫でもいいですし、あるいは同性愛でもいいのですが、そういった恋愛のかたちについて何かが語られる際には、肯定的にせよ否定的にせよ発言者の想いがどうしてもあらわれてしまう、そして特に、発言の中に否定的な想いが強くあらわれてしまった場合、その発言を聞いた参加者の中には、とまどってしまう方、動揺してしまう方、さらには心を傷つけられてしまう方もいらっしゃるのではないか、といった心配もあるわけです。

ですからたとえば、ある参加者が別の一人の参加者に恋愛経験について質問をした際にはもしかしたら険悪なムードになってしまうのではないかと、私は内心ではおそれおののいていたのでした。いやいや、そういった危険は実はすでに、前半の不倫についての対話をうけてこの私自身が参加者のみなさんに「そもそもそんなものが恋愛と呼ぶに値するのか?」といった挑発的な問いかけをした際に生じていたわけで、問いかけの直後にその危険に気付いた私の内心では冷や汗が滝のように流れ落ちていたのでありまして、華厳の滝かナイアガラの滝かといったありさまでございました。また、うかつにもそのような問いかけをしてしまったことへの罰だったのでしょうか、逆に私自身がある参加者に「中畑さんはどんな恋愛をしてきたんですか?」と問われた際には、もうすっかり赤面狼狽、見るも無残にあわてふためいてしまったわけであります(その時の私の様子をご覧になった参加者のみなさんには、私のあわてっぷりがよ~く伝わったのではないでしょうか。たいへんお見苦しい姿をお見せしてしまいまして、ごめんなさいごめんなさい……)。

ですが反面、私はこんなふうにも思うのです。つまり、考え方や感じ方が「変わる」ことのない、あるいは「ゆさぶられる」ことすらまったくないような集いを、そもそも、はたして「対話」の場と呼んでよいのでしょうか。もちろん、竹林茶話会は楽しい哲学的な対話の場を目指してきましたし、その姿勢は今後も変わることはありません。ですが、他方で、考え方や感じ方が「人それぞれ」であることを確認するだけの、ただのおしゃべりや世間話の場となることもどうしても避けたいと、私は強く思ってもいます。

さて、大問題です。対話、とくに哲学的な対話とは、いったいどうあるべきなのか……。

さてさて、こんな時には過去の偉大な哲学者に頼ってみるのも一つの手でしょう(笑)。ここはひとつ、数多(あまた)の哲学者たちの中でも最も有名なのではないかと思われる人物にヒントを求めたいと思います。その名も、ソクラテスさんです(笑)。ソクラテスの弟子であるプラトンが書いた作品に『ラケス』という名著があります。この作品には、ソクラテスが友人たちと子どもの教育について語り合っているうちに話題の中心が「勇気とは何か」という大問題に変わってゆく様子が描かれています。この作品の中で、登場人物の一人であるソクラテスの友人ニキアスは、ソクラテスとの対話が彼にとってどのようなものであるのか、同じく登場人物であるリシュマコスに次のように語っています。

誰でもソクラテスの間近にあって対話を交わしながら交際しようとする者は、たとえ最初は何かほかのことについて対話をはじめたとしても(中略)ほかならぬ自分自身について、<現在どのような仕方で生きており>、また<すでに過ぎ去った人生をどのように生きてきたのか>について説明することを余儀なくされる羽目におちいるまでは、けっして対話を終えることはできない……。

(三島輝夫訳、『ラケス』、講談社学術文庫、1997年、36-37頁、以下、下線はすべて中畑が付けたものです。)

さらにニキアスは、ソクラテスとこのような対話をすることが、なんら「悪いことではない」と言います。そして、ソクラテスとともにおこなわれる対話がどのようなものであるのかをよく知るニキアスは、はじめはたとえば子どもたちの教育について対話をしていても、やがて話題は自分たち自身についてのことになるであろうと、対話の行方を予言しているのです(前掲書37-38頁)。そしてさらに、「生きている限り学ぶことを望み、重んじる者」、つまり対話を通じて哲学する者、知を愛し求める者は、「これからの人生においてより慎重で思慮に満ちたものになることは必然だと思う」と語ります(前掲書37)。つまり、少なくともニキアスは、対話をしているうちにソクラテスという対話相手にうながされて、これまでの、そしていま現在の、自分のあり方について考えざるをえなくなるということなのであり、そして彼にとってはそのことが、「これからの人生」つまり未来の自分のあり方につながってゆく、ということなのです。くり返しになりますが、少なくともニキアスにとって、このようなことは「悪いことではない」といわれているのです。

ニキアスがソクラテスとの哲学的な対話を「悪いことではない」と想っていたのはいったいなぜだったのか、そしてさらに、「悪いことではない」という想いをこえて哲学的な対話が「良いことである」と、竹林茶話会に参加してくださる方々のひとりひとりに想っていただけるようにするために、主催者としてファシリテーターとして、私にはいったいどのようなことが出来るのか……今回の集いを通じて、私にはそのような大きな課題が見えてきたように思います。

さて、一人で勝手にこのような課題を背負い込んでしまった中畑のことなどお構いなしに(笑)、「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は次回でめでたく第十二回目を迎えます。これもひとえに、これまで応援してくださったみなさま、ご参加いただいたみなさまのおかげです、ありがとうございます!記念すべき第十二回は79日の開催を予定しております。テーマは「贅沢」。さて、どんな対話となるのでしょうか。次回もたくさんの方々のご参加を、お待ちしております!


今回ご紹介した本です。
名著です!名訳です!心よりおすすめいたします!
(アマゾンアソシエイト(アフィリエイト))

2016年5月26日木曜日

それでもやっぱり「命がけ」ですがなにか?


それでもやっぱり「命がけ」ですがなにか?



みなさん、ご機嫌いかがですか?

私はといえば……ごめんなさい、実はちょっと苛立っている今日この頃です。

あーいえいえ、別にみなさんに対して苛立っているというわけではなくて。何に苛立っているのかと申しますと、最近のこのブログのあり方をめぐって、です。


このブログ、2014年の9月に開設して以来、5000を超えるアクセスをいただいております。この数字、一般的なブログへのアクセス数としては決して多くはないのでしょうが、私のようなうだつの上がらない万年大学非常勤講師の貧弱なブログにこんなにも多くのアクセスをいただけるとは……歓喜のあまり目から変な水があふれそうです。特に、「哲学cafe 竹林茶話会@柏bamboo」を開始し、そのお知らせや開催後記をここで発表するようになってから、アクセスが大いに増えました。心よりうれしく思います。アクセスしてくださる皆さま、本当にありがとうございます。

 
ですが……(以下、ちょっと口調が変わります)。このブログ、その名も「あちらこちら命がけ」、ここは本来、私が普段考えていること、学術論文のかたちでは表現できないこと、どうしても書いておかなければ気が済まないこと、などなどを、場合によっては毒まみれの言葉で、それこそ「命がけ」で発表する場であったはず……というか、少なくともそういうつもりで私はこのブログを開設したのであった。ところが最近は、哲学カフェについての文章ばかりで……まったくお前の「命がけ」はどこに行ってしまったのだ?と、私の中のダイモーン(たとえばソクラテスに忠告を与えたとされている、いわばソクラテスの「内なる神霊」、ああいう感じです)が私に囁きかけるようになり、そしてその囁きを聞くたびに、「うるせぇ!んなこと、オメェに言われたかねぇやいっ!」と、どうにも苛立ってくるのである。

 
ダイモーンは私にこんなことも言う……

哲学カフェで多くの人たちから「先生」とか呼ばれて、最近、のぼせあがって調子に乗ってるんじゃ
ねぇのか?

お前はそもそも、善人でも立派な人間でも人力車……じゃなくて人格者でもなんでもないだろ?(なにしろ私のダイモーンですからね、こういう下らないダジャレも言うんですよ。)

きれいな言葉、まじめな態度、人当たりの良さ……そんなものの上に胡坐(あぐら)をかいてるうちに、言わなきゃいかんこと、やらなきゃいかんこと、忘れちまったんじゃねぇのか?

等々……。

 
ところで、私も一応、大学教員の端くれである(雇用形態はともかく)。そして、一般的に大学教員といえば、いわゆる「知識人」に分類される。私がこのブログで「命がけ」でしたかったことは、いい加減でどうしようもない、知的だなどとはとてもいえない連中が多いとされる知識人たちの中で、やはり一応は知識人の端くれとして、埋没せずに知的であり続けるために何をしたらよいか、それを模索し続けることであった。ところで日本の知識人たちがどんなにいい加減でどうしようもないかというと……

 
たとえば、昨今の大学における人文教育の機会の縮小・削減について、「まぁ、そういうふうになっちゃったからね」などと達観したような顔で言いながらも自分のポストだけはしっかり確保し続けようとする、他でもない人文系の大学教員、特にたとえば、まずは潰れる心配のない教育学部の教員(別に特定の個人を念頭に置いて書いているわけではありません……ということにしておきます、一応)。バ~カ言うんじゃないよ。な~にが「なっちゃった」だ。自然現象じゃあるまいし、こりゃ全部、人間のしたことだ。そして少なくとも、そういう状況を食い止められなかった、つまり敗北したのはこういう連中なのだ(あるいは最初から食い止めるつもりなどなかった……か)。

 
あるいは、「今後日本はあらゆる分野で下り坂を転がってゆくことになる。これまでのように成長し続けることが可能だなどという幻想は捨てて、これからは慎ましく生きてゆくことを学ばなければならない」などといったことを説いて、若者に向かってはたとえば「非正規雇用で収入は低くても、ツタヤで借りてきたDVDを観ながら鍋なんかつついて幸せを噛みしめなさい」などと言い放ち、そのうえで自分はウマいものを食ったり飲んだり、カッコいい車を乗り回したり、豪勢な旅行に出かけたりなんかして贅沢三昧であることを恥も外聞もなく公表出来てしまう、そんな「慎ましさ」などとはまったく無縁な、無神経で厚顔無恥な知識人たち(別に特定の個人を念頭に置いて書いているわけでは……以下略)。いや、日本の今後についての見解はその通りなのかもしれない、というか、ほぼ間違いなくその通りなのだろう。だがこういう連中について私がその「不誠実さ」にうんざりし、げんなりしているのは、こういう連中は、たとえば日本が下り坂を転がり始めているということの一つの兆候として、日本における格差の拡大を指摘し、それをなんとかしろといって政治家や官僚や大金持ちを批判し非難し、あげく、口汚い誹謗中傷の言葉を投げつけさえもする、そのあさましいあり方である。だってねぇ、本音を言えば、たとえば格差が「なんとか」なってしまったら、困るのはむしろ、まさにこういう知識人連中なんじゃぁないのかね?そういえばみなさん、覚えているだろうか、少し前に、「貧困ビジネス」という言葉がよく聞かれたことがあった。貧困ビジネスとは、貧しい人たちのいわば足元を見て、そういった人たちから搾取する商売である。貧しい人たちは搾取されることによってますます貧しくなってゆく。貧困ビジネスはそういった悪循環をもたらすのであるが、そもそも貧しい人たちがいてこそこういった商売は成り立つのであるから、そのような悪循環、つまり貧しさの再生産はこの商売が存続するために必須なのである。成立し存続するために貧しい人たち、弱者、つまり「かわいそうな人たち」を必要とする、そういった意味で、ここで私がこき下ろしている知識人たちがやっていることはまさに貧困ビジネスそのものなのである。つまり、「世の中にはこんなにかわいそうな人たちがいるんだ」と主張することによってこういう連中は稼いでいる、つまり、自分たちが稼いでゆくためには「かわいそうな人たち」がいてもらわないと困る、いなくなってもらっては困る、というわけだ。おまけにこういう連中は、「かわいそうな人たち」を食いものにする貧困ビジネスに対しても、もちろんしっかりと批判することも忘れない。これはようするに、自分たちのしていることが貧困ビジネスと同じだということの自覚すらない、最悪の貧困ビジネスではないのか……と、貧困せる一人の大学非常勤講師=フリーターは、このように考えるのでありますよ、ええ。……そこっ!「よーするにオメーのルサンチマンじゃね~か!」などと言わないように!私のダイモーンもなにやらニヤニヤしているようだ。
 

さらにさらにたとえば、いわゆる安保法案をめぐっての日本の知識人たちの姿勢ときたら、それはもう……いやいや、この件については別の機会にちゃんと腰を据えて論じることにしよう、毒山盛りで。
 

不誠実な知識人たちが幅を利かせているこのような嘆かわしい知的状況の中で、しかも、このように反論する相手に対してはたとえば「反知性主義だ!」などと鬼の首を取ったようにスローガンを叫ぶ、それこそ知性的だとはとてもいえない知識人たちが幅を利かせているこのような絶望的な知的状況の中で、それでも知的であることをあきらめないためには、「知を愛し求める」こと、つまり哲学することをあきらめないためには、いったいどうすれば良いのか……。先にも申し上げた通り、私にとってたとえばこのブログは、そもそもそういったことを模索し試みるための場であるのだし、哲学カフェだって、哲学的対話の楽しさを多くの人たちに知ってもらってこれを広めるという大きな目的のほかにも、私自身が専門的な学術用語などを使いつづけることによって自己欺瞞に陥ることのないようするため、そして地に足を着けてものを考え続けてゆくため、という別の目的もあって主催しているのだ……

 
あ、ほら!私のダイモーンよ、つながってるじゃないか!

「命がけ」と哲学カフェが、ちゃーんと、つながってるじゃないか!

どうだ、まいったか!

……などと勝ち誇って安穏としていると、またしてもダイモーンがぶつくさ言い始めるだろうから、もちろん哲学カフェはこれまで通りに主催しつづけると同時に、やっぱりここで毒も吐きつづけることにします……ええ、命がけで。

以上、一部フィクションです。というか、一部フィクションだと思ってください……。

ところで今回の私のこの文章、なんとなく、太宰の絶筆となったエッセイ、『如是我聞』っぽいと思いませんか?いやいや、別に真似したつもりはないんですけどね……あ、そうそう!太宰といえば、私が太宰について書いた英語の文章が、ドイツで出版された本に掲載されています。

Walter schweidler(ed.), Transcending Boundaries: Practical Philosophy from Intercultural
Perspectives (West-östliche Denkwege Band26), Academia verlag, Sankt Augstin.

私が書いた文章のタイトルはDazai Osamu’s No Longer Human : on the Popularization

of Christianity through Literary works です。まだアマゾン等では取り扱われてないよ

うですが、取扱いが始まったらお知らせいたします……いや、こんなわざとらしい宣伝が

出来てしまう時点で、私も、「慎ましさ」などとはまったく無縁な、無神経で厚顔無恥な、

そんな立派な俗物だ、ということか。

2016年5月21日土曜日

竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十一回開催情報


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第十一回開催情報


 「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

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竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 

 第十一回 テーマ「恋愛(れんあい)」

 開催日時 2016611 17:00〜(19:00頃までを予定)

 開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp

 料金 1000円(1drink付き)

 
基本ルール

1 人の話はちゃんと聞く

2 『考え方は人それぞれ』は禁止

3 『偉い人』には頼らない

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「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第十一回目のテーマは……


「恋愛(れんあい)」


です。

今回、またしても主催者中畑の苦手なテーマです(笑)。

人はなぜ恋愛するのでしょう?

恋愛にはどんなかたちがあるのでしょう?

そして、なぜ、人は恋愛について語りたがるのでしょう?

今回も、たくさんの方々のご参加を、お待ちしております!

 

     (by the master of bar bamboo)

 

 

「第十回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第十回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 
514日、「第十回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。

テーマは「変」。参加者はマスターと私を含めて10名、とても対話のしやすい人数で、充実した楽しい集いとなりました。応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

 さて、今回の対話の様子なのですが……もはやすっかり竹林茶話会の常連で人気者の「秋ぼん」さんが、FB(フェイス・ブック)で今回の集いについて紹介して下さいましたので、引用させていただきます(秋ぼん、ありがとう! 笑)

(以下引用)

今回のテーマは、「変」でした。
私は周りから「変だ」「おかしい」「同じ人間だと思いたくない」「どちら様ですか」とよく言われる、自他ともに認める変な人間です。そんな私が「変」というテーマで議論する場には、行かないわけにはいきません。

よく、「私って変なんです」というセリフに出会います。
この場合の「変」というのは、何か自分が変なことをしても嫌われたり疎外されたりしないための予防線みたいなところがあって、その延長線には恐怖があるわけです。親は、子供が変なことをすると、親のしつけが良くないと思われる恐怖感から、「変なことはやめなさい」というのでしょう。
「恐怖」というのは、庄司さんが発言された中で自分の中にひっかかった言葉。「変」という中にも枠があって、人間同士のコミュニティだとか、社会常識だとか、そういう枠から外れて社会生活が営めなくなる恐怖みたいなものがあるはず。
それでも、一周まわるように、あまりにも振り切った「変」はカリスマとして捉えられたりもするんですよね。変を極めた人にしかわからない世界と言いますか、うまく言えないですけども。

それなら「変」はいいか、悪いか、と言えば、そこはかなりグレーな世界。身体の調子が変だな、と思った時の為にお医者さんという職業はあるわけで、そういった意味では「変」という気づきがあることによって成り立つ物事があるのです。一方、マクドナルドでラーメンとか餃子が出てきたら「変だ」って思いますし、サイゼリアでかつ丼が出てきたら「ボエー」って思いますよね、「変」じゃないことで社会が回っているのも確か。
私がフェイスブックに長文を書くのも、「変」って思う人もいるかもしれません。だけど、ある程度の割合を読んでくれてる人って、僕と気が合う人だったり、いじりやすい人だったり、付き合いやすい人であることが多いと思うのです。そう言った意味では、一見「変」に見える事柄が、改札口のような役割をしていたり。「変」は、「普通」よりも小さいコミュニティになることの方がほとんどで、大きいコミュニティより小さいコミュニティの方が楽でいいや、って思う人にとっては、「変」でありたいという思いもあるのかもしれません。

今回は前回の「女子力」よりは少人数でまったりとしていましたが、笑いが多く、楽しい会でした。

(以上、引用終り) 
ところで今回、私から参加者のみなさんに「自分のことを他の人から『変』と呼ばれたいか、『普通』と呼ばれたいか」、という質問をさせていただきました。そして最後に、私自身の立場として「『普通』と呼ばれたいし、『普通』でありたい」と申し上げました。その理由として、「世の中で『変』とされている人たちの方が正しいことや大切なことを言っている場合が多々あるから」といったことを申し上げました。ちょっと言葉が足りませんでしたね。ただ「『普通』でありたい」というよりはむしろ、「『普通』と『変』の境目(さかいめ)に立ち続けながら、『変』だとされている人たちの言葉に注意深く耳を傾け続けたい」ということです。つまり、今回マスターがどこかで言っていた、「ぎりぎり『こちら側』に踏みとどまる」というあり方に近い、というか、ようするにそういうことなのだと思います。

さて、第十一回目となる次回「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は611日の開催を予定しております。さて、どんな対話となるのでしょうか。次回も「たくさんの」方々のご参加を、お待ちしております!

 
 
今回ご紹介した本です。

 

魯迅「狂人日記」(『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) 』、竹内好訳、岩波文庫、1981年)