2016年6月16日木曜日

「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


514日、「第十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。

テーマは「恋愛」。参加者はマスターと私を含めて14名、初めて参加してくださった方々もおられ、とても楽しい集いとなりました。また今回は竹林茶話会終了後の、いわゆる「after 哲学カフェ」あるいは「裏・竹林茶話会」も大いに盛り上がりました(笑)。

応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回の恋愛というテーマ、果たしてどのような方向に対話が展開してゆくのか、開催直前まで、実は主催者・ファシリテーターとして、私はかなり不安を抱いておりました。結果的に、とても楽しい対話となってので、安心しております。いやぁ、良かった。

良かった、のですが……。対話の最中は、実は結構ヒヤヒヤしておりました(苦笑)。

対話の冒頭、ニーチェの、ある人物の生涯の三つのエピソードがわかればその人物がどんな人物であるかわかる、といった趣旨の言葉を紹介(いや、実はニーチェがこの言葉を書いた意図と私がこの言葉を紹介した意図とは、だいぶ違うのですが)、私たちにとって恋愛もまたそういったエピソードの一つとなり得るのではないか、ということを申し上げましたが……対話の最中、まさにこの言葉の意味を、私は思い知らされた気がいたしました(いや、実はニーチェがこの言葉を書いた意図と……以下省略)。さきほど私が開催直前まで不安を感じていたと申し上げましたが、それは人が恋愛について何かを問いかけようとする場合、また逆に、恋愛について自分の考え方を伝えようとする場合、どうしても自分の恋愛体験が反映されてしまうということが、多々あるからであり、また今回の対話でもそのような場面が何度か見られたように思います。また、なんらかの恋愛のかたちについて語る際、それはたとえば、今回の対話の前半で話題になった不倫でもいいですし、あるいは同性愛でもいいのですが、そういった恋愛のかたちについて何かが語られる際には、肯定的にせよ否定的にせよ発言者の想いがどうしてもあらわれてしまう、そして特に、発言の中に否定的な想いが強くあらわれてしまった場合、その発言を聞いた参加者の中には、とまどってしまう方、動揺してしまう方、さらには心を傷つけられてしまう方もいらっしゃるのではないか、といった心配もあるわけです。

ですからたとえば、ある参加者が別の一人の参加者に恋愛経験について質問をした際にはもしかしたら険悪なムードになってしまうのではないかと、私は内心ではおそれおののいていたのでした。いやいや、そういった危険は実はすでに、前半の不倫についての対話をうけてこの私自身が参加者のみなさんに「そもそもそんなものが恋愛と呼ぶに値するのか?」といった挑発的な問いかけをした際に生じていたわけで、問いかけの直後にその危険に気付いた私の内心では冷や汗が滝のように流れ落ちていたのでありまして、華厳の滝かナイアガラの滝かといったありさまでございました。また、うかつにもそのような問いかけをしてしまったことへの罰だったのでしょうか、逆に私自身がある参加者に「中畑さんはどんな恋愛をしてきたんですか?」と問われた際には、もうすっかり赤面狼狽、見るも無残にあわてふためいてしまったわけであります(その時の私の様子をご覧になった参加者のみなさんには、私のあわてっぷりがよ~く伝わったのではないでしょうか。たいへんお見苦しい姿をお見せしてしまいまして、ごめんなさいごめんなさい……)。

ですが反面、私はこんなふうにも思うのです。つまり、考え方や感じ方が「変わる」ことのない、あるいは「ゆさぶられる」ことすらまったくないような集いを、そもそも、はたして「対話」の場と呼んでよいのでしょうか。もちろん、竹林茶話会は楽しい哲学的な対話の場を目指してきましたし、その姿勢は今後も変わることはありません。ですが、他方で、考え方や感じ方が「人それぞれ」であることを確認するだけの、ただのおしゃべりや世間話の場となることもどうしても避けたいと、私は強く思ってもいます。

さて、大問題です。対話、とくに哲学的な対話とは、いったいどうあるべきなのか……。

さてさて、こんな時には過去の偉大な哲学者に頼ってみるのも一つの手でしょう(笑)。ここはひとつ、数多(あまた)の哲学者たちの中でも最も有名なのではないかと思われる人物にヒントを求めたいと思います。その名も、ソクラテスさんです(笑)。ソクラテスの弟子であるプラトンが書いた作品に『ラケス』という名著があります。この作品には、ソクラテスが友人たちと子どもの教育について語り合っているうちに話題の中心が「勇気とは何か」という大問題に変わってゆく様子が描かれています。この作品の中で、登場人物の一人であるソクラテスの友人ニキアスは、ソクラテスとの対話が彼にとってどのようなものであるのか、同じく登場人物であるリシュマコスに次のように語っています。

誰でもソクラテスの間近にあって対話を交わしながら交際しようとする者は、たとえ最初は何かほかのことについて対話をはじめたとしても(中略)ほかならぬ自分自身について、<現在どのような仕方で生きており>、また<すでに過ぎ去った人生をどのように生きてきたのか>について説明することを余儀なくされる羽目におちいるまでは、けっして対話を終えることはできない……。

(三島輝夫訳、『ラケス』、講談社学術文庫、1997年、36-37頁、以下、下線はすべて中畑が付けたものです。)

さらにニキアスは、ソクラテスとこのような対話をすることが、なんら「悪いことではない」と言います。そして、ソクラテスとともにおこなわれる対話がどのようなものであるのかをよく知るニキアスは、はじめはたとえば子どもたちの教育について対話をしていても、やがて話題は自分たち自身についてのことになるであろうと、対話の行方を予言しているのです(前掲書37-38頁)。そしてさらに、「生きている限り学ぶことを望み、重んじる者」、つまり対話を通じて哲学する者、知を愛し求める者は、「これからの人生においてより慎重で思慮に満ちたものになることは必然だと思う」と語ります(前掲書37)。つまり、少なくともニキアスは、対話をしているうちにソクラテスという対話相手にうながされて、これまでの、そしていま現在の、自分のあり方について考えざるをえなくなるということなのであり、そして彼にとってはそのことが、「これからの人生」つまり未来の自分のあり方につながってゆく、ということなのです。くり返しになりますが、少なくともニキアスにとって、このようなことは「悪いことではない」といわれているのです。

ニキアスがソクラテスとの哲学的な対話を「悪いことではない」と想っていたのはいったいなぜだったのか、そしてさらに、「悪いことではない」という想いをこえて哲学的な対話が「良いことである」と、竹林茶話会に参加してくださる方々のひとりひとりに想っていただけるようにするために、主催者としてファシリテーターとして、私にはいったいどのようなことが出来るのか……今回の集いを通じて、私にはそのような大きな課題が見えてきたように思います。

さて、一人で勝手にこのような課題を背負い込んでしまった中畑のことなどお構いなしに(笑)、「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は次回でめでたく第十二回目を迎えます。これもひとえに、これまで応援してくださったみなさま、ご参加いただいたみなさまのおかげです、ありがとうございます!記念すべき第十二回は79日の開催を予定しております。テーマは「贅沢」。さて、どんな対話となるのでしょうか。次回もたくさんの方々のご参加を、お待ちしております!


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