2016年5月26日木曜日

それでもやっぱり「命がけ」ですがなにか?


それでもやっぱり「命がけ」ですがなにか?



みなさん、ご機嫌いかがですか?

私はといえば……ごめんなさい、実はちょっと苛立っている今日この頃です。

あーいえいえ、別にみなさんに対して苛立っているというわけではなくて。何に苛立っているのかと申しますと、最近のこのブログのあり方をめぐって、です。


このブログ、2014年の9月に開設して以来、5000を超えるアクセスをいただいております。この数字、一般的なブログへのアクセス数としては決して多くはないのでしょうが、私のようなうだつの上がらない万年大学非常勤講師の貧弱なブログにこんなにも多くのアクセスをいただけるとは……歓喜のあまり目から変な水があふれそうです。特に、「哲学cafe 竹林茶話会@柏bamboo」を開始し、そのお知らせや開催後記をここで発表するようになってから、アクセスが大いに増えました。心よりうれしく思います。アクセスしてくださる皆さま、本当にありがとうございます。

 
ですが……(以下、ちょっと口調が変わります)。このブログ、その名も「あちらこちら命がけ」、ここは本来、私が普段考えていること、学術論文のかたちでは表現できないこと、どうしても書いておかなければ気が済まないこと、などなどを、場合によっては毒まみれの言葉で、それこそ「命がけ」で発表する場であったはず……というか、少なくともそういうつもりで私はこのブログを開設したのであった。ところが最近は、哲学カフェについての文章ばかりで……まったくお前の「命がけ」はどこに行ってしまったのだ?と、私の中のダイモーン(たとえばソクラテスに忠告を与えたとされている、いわばソクラテスの「内なる神霊」、ああいう感じです)が私に囁きかけるようになり、そしてその囁きを聞くたびに、「うるせぇ!んなこと、オメェに言われたかねぇやいっ!」と、どうにも苛立ってくるのである。

 
ダイモーンは私にこんなことも言う……

哲学カフェで多くの人たちから「先生」とか呼ばれて、最近、のぼせあがって調子に乗ってるんじゃ
ねぇのか?

お前はそもそも、善人でも立派な人間でも人力車……じゃなくて人格者でもなんでもないだろ?(なにしろ私のダイモーンですからね、こういう下らないダジャレも言うんですよ。)

きれいな言葉、まじめな態度、人当たりの良さ……そんなものの上に胡坐(あぐら)をかいてるうちに、言わなきゃいかんこと、やらなきゃいかんこと、忘れちまったんじゃねぇのか?

等々……。

 
ところで、私も一応、大学教員の端くれである(雇用形態はともかく)。そして、一般的に大学教員といえば、いわゆる「知識人」に分類される。私がこのブログで「命がけ」でしたかったことは、いい加減でどうしようもない、知的だなどとはとてもいえない連中が多いとされる知識人たちの中で、やはり一応は知識人の端くれとして、埋没せずに知的であり続けるために何をしたらよいか、それを模索し続けることであった。ところで日本の知識人たちがどんなにいい加減でどうしようもないかというと……

 
たとえば、昨今の大学における人文教育の機会の縮小・削減について、「まぁ、そういうふうになっちゃったからね」などと達観したような顔で言いながらも自分のポストだけはしっかり確保し続けようとする、他でもない人文系の大学教員、特にたとえば、まずは潰れる心配のない教育学部の教員(別に特定の個人を念頭に置いて書いているわけではありません……ということにしておきます、一応)。バ~カ言うんじゃないよ。な~にが「なっちゃった」だ。自然現象じゃあるまいし、こりゃ全部、人間のしたことだ。そして少なくとも、そういう状況を食い止められなかった、つまり敗北したのはこういう連中なのだ(あるいは最初から食い止めるつもりなどなかった……か)。

 
あるいは、「今後日本はあらゆる分野で下り坂を転がってゆくことになる。これまでのように成長し続けることが可能だなどという幻想は捨てて、これからは慎ましく生きてゆくことを学ばなければならない」などといったことを説いて、若者に向かってはたとえば「非正規雇用で収入は低くても、ツタヤで借りてきたDVDを観ながら鍋なんかつついて幸せを噛みしめなさい」などと言い放ち、そのうえで自分はウマいものを食ったり飲んだり、カッコいい車を乗り回したり、豪勢な旅行に出かけたりなんかして贅沢三昧であることを恥も外聞もなく公表出来てしまう、そんな「慎ましさ」などとはまったく無縁な、無神経で厚顔無恥な知識人たち(別に特定の個人を念頭に置いて書いているわけでは……以下略)。いや、日本の今後についての見解はその通りなのかもしれない、というか、ほぼ間違いなくその通りなのだろう。だがこういう連中について私がその「不誠実さ」にうんざりし、げんなりしているのは、こういう連中は、たとえば日本が下り坂を転がり始めているということの一つの兆候として、日本における格差の拡大を指摘し、それをなんとかしろといって政治家や官僚や大金持ちを批判し非難し、あげく、口汚い誹謗中傷の言葉を投げつけさえもする、そのあさましいあり方である。だってねぇ、本音を言えば、たとえば格差が「なんとか」なってしまったら、困るのはむしろ、まさにこういう知識人連中なんじゃぁないのかね?そういえばみなさん、覚えているだろうか、少し前に、「貧困ビジネス」という言葉がよく聞かれたことがあった。貧困ビジネスとは、貧しい人たちのいわば足元を見て、そういった人たちから搾取する商売である。貧しい人たちは搾取されることによってますます貧しくなってゆく。貧困ビジネスはそういった悪循環をもたらすのであるが、そもそも貧しい人たちがいてこそこういった商売は成り立つのであるから、そのような悪循環、つまり貧しさの再生産はこの商売が存続するために必須なのである。成立し存続するために貧しい人たち、弱者、つまり「かわいそうな人たち」を必要とする、そういった意味で、ここで私がこき下ろしている知識人たちがやっていることはまさに貧困ビジネスそのものなのである。つまり、「世の中にはこんなにかわいそうな人たちがいるんだ」と主張することによってこういう連中は稼いでいる、つまり、自分たちが稼いでゆくためには「かわいそうな人たち」がいてもらわないと困る、いなくなってもらっては困る、というわけだ。おまけにこういう連中は、「かわいそうな人たち」を食いものにする貧困ビジネスに対しても、もちろんしっかりと批判することも忘れない。これはようするに、自分たちのしていることが貧困ビジネスと同じだということの自覚すらない、最悪の貧困ビジネスではないのか……と、貧困せる一人の大学非常勤講師=フリーターは、このように考えるのでありますよ、ええ。……そこっ!「よーするにオメーのルサンチマンじゃね~か!」などと言わないように!私のダイモーンもなにやらニヤニヤしているようだ。
 

さらにさらにたとえば、いわゆる安保法案をめぐっての日本の知識人たちの姿勢ときたら、それはもう……いやいや、この件については別の機会にちゃんと腰を据えて論じることにしよう、毒山盛りで。
 

不誠実な知識人たちが幅を利かせているこのような嘆かわしい知的状況の中で、しかも、このように反論する相手に対してはたとえば「反知性主義だ!」などと鬼の首を取ったようにスローガンを叫ぶ、それこそ知性的だとはとてもいえない知識人たちが幅を利かせているこのような絶望的な知的状況の中で、それでも知的であることをあきらめないためには、「知を愛し求める」こと、つまり哲学することをあきらめないためには、いったいどうすれば良いのか……。先にも申し上げた通り、私にとってたとえばこのブログは、そもそもそういったことを模索し試みるための場であるのだし、哲学カフェだって、哲学的対話の楽しさを多くの人たちに知ってもらってこれを広めるという大きな目的のほかにも、私自身が専門的な学術用語などを使いつづけることによって自己欺瞞に陥ることのないようするため、そして地に足を着けてものを考え続けてゆくため、という別の目的もあって主催しているのだ……

 
あ、ほら!私のダイモーンよ、つながってるじゃないか!

「命がけ」と哲学カフェが、ちゃーんと、つながってるじゃないか!

どうだ、まいったか!

……などと勝ち誇って安穏としていると、またしてもダイモーンがぶつくさ言い始めるだろうから、もちろん哲学カフェはこれまで通りに主催しつづけると同時に、やっぱりここで毒も吐きつづけることにします……ええ、命がけで。

以上、一部フィクションです。というか、一部フィクションだと思ってください……。

ところで今回の私のこの文章、なんとなく、太宰の絶筆となったエッセイ、『如是我聞』っぽいと思いませんか?いやいや、別に真似したつもりはないんですけどね……あ、そうそう!太宰といえば、私が太宰について書いた英語の文章が、ドイツで出版された本に掲載されています。

Walter schweidler(ed.), Transcending Boundaries: Practical Philosophy from Intercultural
Perspectives (West-östliche Denkwege Band26), Academia verlag, Sankt Augstin.

私が書いた文章のタイトルはDazai Osamu’s No Longer Human : on the Popularization

of Christianity through Literary works です。まだアマゾン等では取り扱われてないよ

うですが、取扱いが始まったらお知らせいたします……いや、こんなわざとらしい宣伝が

出来てしまう時点で、私も、「慎ましさ」などとはまったく無縁な、無神経で厚顔無恥な、

そんな立派な俗物だ、ということか。