「第十回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記
テーマは「変」。参加者はマスターと私を含めて10名、とても対話のしやすい人数で、充実した楽しい集いとなりました。応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
(以下引用)
今回のテーマは、「変」でした。
私は周りから「変だ」「おかしい」「同じ人間だと思いたくない」「どちら様ですか」とよく言われる、自他ともに認める変な人間です。そんな私が「変」というテーマで議論する場には、行かないわけにはいきません。
私は周りから「変だ」「おかしい」「同じ人間だと思いたくない」「どちら様ですか」とよく言われる、自他ともに認める変な人間です。そんな私が「変」というテーマで議論する場には、行かないわけにはいきません。
よく、「私って変なんです」というセリフに出会います。
この場合の「変」というのは、何か自分が変なことをしても嫌われたり疎外されたりしないための予防線みたいなところがあって、その延長線には恐怖があるわけです。親は、子供が変なことをすると、親のしつけが良くないと思われる恐怖感から、「変なことはやめなさい」というのでしょう。
「恐怖」というのは、庄司さんが発言された中で自分の中にひっかかった言葉。「変」という中にも枠があって、人間同士のコミュニティだとか、社会常識だとか、そういう枠から外れて社会生活が営めなくなる恐怖みたいなものがあるはず。
それでも、一周まわるように、あまりにも振り切った「変」はカリスマとして捉えられたりもするんですよね。変を極めた人にしかわからない世界と言いますか、うまく言えないですけども。
この場合の「変」というのは、何か自分が変なことをしても嫌われたり疎外されたりしないための予防線みたいなところがあって、その延長線には恐怖があるわけです。親は、子供が変なことをすると、親のしつけが良くないと思われる恐怖感から、「変なことはやめなさい」というのでしょう。
「恐怖」というのは、庄司さんが発言された中で自分の中にひっかかった言葉。「変」という中にも枠があって、人間同士のコミュニティだとか、社会常識だとか、そういう枠から外れて社会生活が営めなくなる恐怖みたいなものがあるはず。
それでも、一周まわるように、あまりにも振り切った「変」はカリスマとして捉えられたりもするんですよね。変を極めた人にしかわからない世界と言いますか、うまく言えないですけども。
それなら「変」はいいか、悪いか、と言えば、そこはかなりグレーな世界。身体の調子が変だな、と思った時の為にお医者さんという職業はあるわけで、そういった意味では「変」という気づきがあることによって成り立つ物事があるのです。一方、マクドナルドでラーメンとか餃子が出てきたら「変だ」って思いますし、サイゼリアでかつ丼が出てきたら「ボエー」って思いますよね、「変」じゃないことで社会が回っているのも確か。
私がフェイスブックに長文を書くのも、「変」って思う人もいるかもしれません。だけど、ある程度の割合を読んでくれてる人って、僕と気が合う人だったり、いじりやすい人だったり、付き合いやすい人であることが多いと思うのです。そう言った意味では、一見「変」に見える事柄が、改札口のような役割をしていたり。「変」は、「普通」よりも小さいコミュニティになることの方がほとんどで、大きいコミュニティより小さいコミュニティの方が楽でいいや、って思う人にとっては、「変」でありたいという思いもあるのかもしれません。
私がフェイスブックに長文を書くのも、「変」って思う人もいるかもしれません。だけど、ある程度の割合を読んでくれてる人って、僕と気が合う人だったり、いじりやすい人だったり、付き合いやすい人であることが多いと思うのです。そう言った意味では、一見「変」に見える事柄が、改札口のような役割をしていたり。「変」は、「普通」よりも小さいコミュニティになることの方がほとんどで、大きいコミュニティより小さいコミュニティの方が楽でいいや、って思う人にとっては、「変」でありたいという思いもあるのかもしれません。
今回は前回の「女子力」よりは少人数でまったりとしていましたが、笑いが多く、楽しい会でした。
(以上、引用終り)
ところで今回、私から参加者のみなさんに「自分のことを他の人から『変』と呼ばれたいか、『普通』と呼ばれたいか」、という質問をさせていただきました。そして最後に、私自身の立場として「『普通』と呼ばれたいし、『普通』でありたい」と申し上げました。その理由として、「世の中で『変』とされている人たちの方が正しいことや大切なことを言っている場合が多々あるから」といったことを申し上げました。ちょっと言葉が足りませんでしたね。ただ「『普通』でありたい」というよりはむしろ、「『普通』と『変』の境目(さかいめ)に立ち続けながら、『変』だとされている人たちの言葉に注意深く耳を傾け続けたい」ということです。つまり、今回マスターがどこかで言っていた、「ぎりぎり『こちら側』に踏みとどまる」というあり方に近い、というか、ようするにそういうことなのだと思います。
さて、第十一回目となる次回「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は6月11日の開催を予定しております。さて、どんな対話となるのでしょうか。次回も「たくさんの」方々のご参加を、お待ちしております!
今回ご紹介した本です。
魯迅「狂人日記」(『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) 』、竹内好訳、岩波文庫、1981年)