2015年9月22日火曜日

「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記

「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 912日、「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。ご参加いただいたみなさん、応援していただいたみなさん、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
今回は第一回に比べて参加人数は少なかったものの、たいへん充実した対話が行われました。哲学カフェの一つの理想的なあり方が実現されたのではないかと思います。


今回のテーマは「ペット」でした。なぜこのテーマとなったのか、それはこのテーマに対して、私、主催者・中畑の個人的な「思い入れ」があったからです。私が学生時代にお世話になった哲学者の中村雄二郎先生のゼミナールで『豊かさの精神病理』(大平健著、岩波新書、1990年)という本が課題図書となったことがありました。この本は精神科医の大平健氏のもとを訪れる、大平氏が「モノ語りの人々」と呼ぶ患者たち、つまり、モノについて語ることを通じてしか自分について、あるいは自分を取り巻く人間関係について語ることが出来ない患者たちについて、具体的な事例が紹介されながら論じられたものです。そしてこの本の中でペットについても論じられているのです。ペットについて、大平氏は次のように述べています。 

 

ペットは両義的な存在です。「家族の一員」ともなれば、「動くぬいぐるみ」ともなります。深い愛情の対象ともなれば売買の対象ともなります。ヒトのようであって(生き)モノであり(生き)モノであってヒトのようなのです。/ペットはこのように飼い主にとってヒトとモノの両方の意味を持つため、つまり両義的な性質を持つために、飼い主のヒトやモノに対する態度を映し出す鏡となります。それ故に、ペットの話題は精神科医にとっては重要な話題となります。たかが犬や猫の話、と軽視することができないのです。今、「鏡」と言いましたが、この「鏡」は平面鏡ではありません。飼い主の考え・態度をねじまげ、あるいは拡大して映し出すいびつな鏡なのです。その像から元の姿を再現するのが精神科医の仕事となります。

(「第4章 ペットの両義性」、157158頁)

 

どうです?面白いでしょう?この文章を読んで当時の私は、ゼミでこの章について論じられる回を楽しみに待っていたものでした。ところが、理由はよく覚えていないのですが、ゼミでこの章について論じられることはありませんでした。あれからもう、早くも20年以上の歳月が……いやはや、こうやってあえて書いてみると、本当に本当に、ただの個人的な思い入れですね、ごめんなさいごめんなさい。

しかしながら、そのような事情とは無関係に、今回の対話は大いに盛り上がりました。「ペットとの共存」、「なぜペットに癒されるのか」、「ペットと人間の歴史」等々のさまざまな話題をめぐって対話は広がり、さらには「動物愛護」の問題についてまで話題は及びました。大平氏の言葉をお借りすれば、ペットはまさに人間のいろいろな関心を映し出す「鏡」でもある、と言えるのかもしれません。そのうちにあらためて、また「ペット」をテーマとして竹林茶話会でみなさんと語り合えたらと思っております。

 

そして次回、第三回目のテーマは「身体」を予定しています。身体というのは、実は哲学の世界では非常に大きな問題とされているんです。そこで次回は対話に先立って、哲学において身体がどのように論じられてきたのか、簡単にお話しさせていただければと思っております。ただ、竹林茶話会は哲学カフェであって、決して哲学の授業ではありません。「教える」とか「教わる」といった雰囲気とは無縁に、いかにして皆さんに哲学の大問題についてお伝えできるか、これもまた、私にとっての新しい試みになりそうです。


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