2015年9月11日金曜日

太宰治には振り回されるな。


太宰治には振り回されるな。


 
 先日、太宰治が佐藤春夫に宛てて書いた芥川賞受賞を懇願する手紙が発見されたことが話題になった。私自身つい最近、太宰について私の中で「一区切り」となるようなそれなりに大きな仕事を終えたので(書き残したことも多いけどね、その辺はこのブログで追々)、この話題について若干の事を書いておく。

 
 まず、太宰のことをある程度知っている人にとっては太宰が佐藤にこの手紙を送ったということは周知の事実であって、そういう人たちにとってはこのことがニュースになっても「なんでいまさら?」だと思います。ただ、一応、研究者の端くれとして申し上げておくと、現物の「資料」というものはどの研究分野においても大きな力をもつものなんです。今回の「発見」についても、太宰から佐藤への懇願の事実を知っているだけの研究者と、懇願の手紙を見たことがある、あるいはその手紙を所有している研究者との間には、この事実について語る際に、さらには太宰や佐藤について語る際に、言わば「権威」において雲泥の差がある、そのように考えられるんですよ、研究者という人種の世界では。

 誤解していただきたくないのですが、「権威」なんて言葉を使ったからといって、私は何も今回太宰の手紙を公開した河野龍也さんという先生を批判しようというわけではありません(ちなみにこの先生のこと、私はまったく存じ上げませんが)。つまり、「こういう新資料を自分が持っていることを知らしめて学界で自分の権威を高めようとするなんてふてぇ野郎だ!」とかいうことを言いたいのでは、決して決して決して……ありません。むしろ河野先生は、研究者としてとても誠実で良心的で公平な方なのだろうと、私は想っています。というのは、資料というものにはそれを持っている人間に「権威」を与えてしまうような力があるからこそ、それを「政治的に」利用しようとする研究者だって多いからです。それはたとえば、若手の研究者に向けて「君ねぇ、僕、○×△についての、ほとんど誰も知らないような文献を持ってるんだけど、読みたくない?」だとか「○×△が書いた書簡の断片、あれはスゴイね。あれ読めば、○×△についての印象が、いや、日本の○×△研究そのものが、ひっくり返るね、絶対に。え?君は読んだことないの?そりゃ仕方ないか、だって、あれを持ってるの日本で僕だけなんだから。」だとか言って、さも自分がすごい研究者であるかのように思わせることが可能になるわけです。ようするに、「それ」がなんであるかはわからないんだけれども、いや、「それ」がなんであるかわからないからこそ、「それ」がとっても価値のあるものに思われて、ついでにそれを持っている人間も何やら大した人間のように思えてくる……資料というものにはそういう、いわば魔術的な力があるわけです。あ、映画好きな人なら、たとえばヒッチコックが言うところの「マクガフィン」のようなものと言ったら分かり易いでしょうか。あるいは最近では、『ガンダムUC』における「ラプラスの箱」とか……おっと、話が思いっきり偏った方向に脱線しそうなので、やめておきます。

 ちなみに私の本来の研究対象である某哲学者の研究者にも典型的なこういう人物がいて……おっと、研究者の世界って、実際にはとってもとっても狭いので、容易に個人が特定できてしまうので、やめときます(というか、これをお読みの同業者の中には「あ~あの人か!」と苦笑しつつ思い当たってしまった方もいらっしゃるかと思います。……いや、同業者で私のブログを読んでる人なんて、いないか 苦笑)。

 まぁ、何が言いたいのかというと、資料というものには往々にして、そういう言わば「邪悪な力」が宿ってしまうものなのですが、河野先生はそういう力に負けずに、ただ研究者としての良心に忠実に太宰の手紙を発表したのだと、私には想われるのです。そしてそういう誠実な態度は、残念ながら研究者として「当たり前」のあり方ではないんです、現実において。なんにせよ「そんなことをするのは人間としてどうかと思う」と思われることがあるとして、普通なら「じゃ、そんなことはしてはならない」と考えると思うでしょ?特に、ほとんどの場合が同時に教育者でもある研究者ならなおさら。でも人間の中には、「でもそれでオイシイ思いが出来るならやってしまってもいいじゃないか」と考える人たちも結構いるんですね。そしてそれは、研究者や教育者の世界にも、誠に残念ながら当てはまってしまうのです。そしてそれが、研究者の世界での力関係やヒエラルキーを決めてしまうということもまた、往々にしてあるわけです。そしてそういう資料を手に入れるためにはそれなりの「元手」が必要なわけで、だから研究者の世界にも格差というものがあり……お察しの通り、これ以上書くと私の個人的なルサンチマンの吐露になってしまうので、やめておきます。

 それからもう一つ。太宰のこの手紙が発表されたからといって、太宰への評価、特に、いわゆる太宰ファンの間での太宰への評価は、これまでと全く変わらないと思います。あくまでも私見ですが(いや、もしかしたらとってもとっても言い古されたことなのかもしれないけれど)、太宰を少しでも真剣に読んだ人の反応は、両極端に分かれると思います。一方で、ものすごい共感を抱く人たちがいて、他方で、ものすごい嫌悪感を抱く人たちがいる。で、今回のニュースについて、たとえばネット上の掲示板やニュースのコメント欄で太宰を非難している人たちというのは、もともと太宰の作品や太宰その人にものすごい嫌悪感を抱くタイプの人たちか、あるいは野次馬根性で書き込みをしている人たちなんだと思います。そして、太宰の作品や太宰その人にものすごい共感を抱くタイプの人たちの中には、そもそも今回の件をめぐってネット上で書き込みをする人はまったく、あるいはほとんどいないのではないかとも思います。だって、太宰がこういう手紙を書いちゃうような人だってことは、そういう人たちにとっては当りまえのことであって、むしろこういう手紙を書いちゃうような人だからこそ、そういう人たちは太宰にものすごく共感を抱いてしまうという側面もあるので。だから、たとえばネット上で太宰に対する批判的なコメントを読んでも、太宰にものすごい共感を抱くタイプの人たちは「ええ、仰る通りです」としか思わないし、反論のコメントなんか書きようがない、だから、そもそも論争にはならないんですね。いやむしろ、今回太宰に対する批判的なコメントを読んで、太宰にものすごい共感を抱くタイプの人たちは、太宰への共感をより一層強めている、ということにすらなっているかもしれません。結局ですね、そういう現象を引き起こしてしまうところも含めて太宰の才能だったと思うんですよ、私は。そして私が最近終えた太宰についての仕事と関連させて言えば、太宰が自分のそういう才能を存分に発揮させて書いた作品が『人間失格』であって、唐突なようですけれども、太宰のそういう才能を支えていたものはキリスト教的な発想だったと、私は考えています。まぁ、この辺についての話は、またあらためて……。