2015年9月28日月曜日

「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第三回開催情報」


竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~ 第三回開催情報

 

「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」の開催情報をこちらでお知らせします。

フェイスブック・イベントページ https://www.facebook.com/events/1662471367319763/
フェイスブック・コミュニティ https://www.facebook.com/chikurinsawakai

~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~

 
第三回 開催情報

開催日時 20151017 17:00〜(19:00頃までを予定)

※諸般の事情により、第三回目は第二土曜日ではなく、第三土曜日の「1017日」に開催いたします。何卒ご了承ください。

開催場所 Bar bamboo http://bar-bamboo.com/(地図等ご参照下さい)

主催者メールアドレス chikurinsawakai@yahoo.co.jp
              (お問い合わせ、御参加お申し込みはこちらにお願いします)

 
料金 1000円(1drink付き)

 
基本ルール
1
人の話はちゃんと聞く
2
『考え方は人それぞれ』は禁止
3
『偉い人』には頼らない


テーマ 『身体』

「竹林茶話会 ~哲学Cafe@柏bamboo~」、第三回目のテーマは「身体(しんたい、からだ)」です。

「身体」は哲学者たちにとって、古くからの大きな問題でした。

そこで今回は、新たな試みとして、対話に先立ち、哲学者たちがこれまで「身体」についてどのよに考えてきたのか、主催者・中畑が簡単にお話しさせていただきたいと思います。

しかし、「竹林茶話会」は哲学カフェ。決して哲学の授業ではありません。


哲学者たちの考え方をふまえつつも、それに満足することなく、私たち自身の言葉で、私たち自身の「身体」について、語り合ってみましょう!
哲学の専門家たちには思いもよらないような仕方で、語り合ってみましょう!

 

たくさんの方々のご参加を、お待ちしております!


2015年9月22日火曜日

「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記

「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 912日、「第二回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。ご参加いただいたみなさん、応援していただいたみなさん、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
今回は第一回に比べて参加人数は少なかったものの、たいへん充実した対話が行われました。哲学カフェの一つの理想的なあり方が実現されたのではないかと思います。


今回のテーマは「ペット」でした。なぜこのテーマとなったのか、それはこのテーマに対して、私、主催者・中畑の個人的な「思い入れ」があったからです。私が学生時代にお世話になった哲学者の中村雄二郎先生のゼミナールで『豊かさの精神病理』(大平健著、岩波新書、1990年)という本が課題図書となったことがありました。この本は精神科医の大平健氏のもとを訪れる、大平氏が「モノ語りの人々」と呼ぶ患者たち、つまり、モノについて語ることを通じてしか自分について、あるいは自分を取り巻く人間関係について語ることが出来ない患者たちについて、具体的な事例が紹介されながら論じられたものです。そしてこの本の中でペットについても論じられているのです。ペットについて、大平氏は次のように述べています。 

 

ペットは両義的な存在です。「家族の一員」ともなれば、「動くぬいぐるみ」ともなります。深い愛情の対象ともなれば売買の対象ともなります。ヒトのようであって(生き)モノであり(生き)モノであってヒトのようなのです。/ペットはこのように飼い主にとってヒトとモノの両方の意味を持つため、つまり両義的な性質を持つために、飼い主のヒトやモノに対する態度を映し出す鏡となります。それ故に、ペットの話題は精神科医にとっては重要な話題となります。たかが犬や猫の話、と軽視することができないのです。今、「鏡」と言いましたが、この「鏡」は平面鏡ではありません。飼い主の考え・態度をねじまげ、あるいは拡大して映し出すいびつな鏡なのです。その像から元の姿を再現するのが精神科医の仕事となります。

(「第4章 ペットの両義性」、157158頁)

 

どうです?面白いでしょう?この文章を読んで当時の私は、ゼミでこの章について論じられる回を楽しみに待っていたものでした。ところが、理由はよく覚えていないのですが、ゼミでこの章について論じられることはありませんでした。あれからもう、早くも20年以上の歳月が……いやはや、こうやってあえて書いてみると、本当に本当に、ただの個人的な思い入れですね、ごめんなさいごめんなさい。

しかしながら、そのような事情とは無関係に、今回の対話は大いに盛り上がりました。「ペットとの共存」、「なぜペットに癒されるのか」、「ペットと人間の歴史」等々のさまざまな話題をめぐって対話は広がり、さらには「動物愛護」の問題についてまで話題は及びました。大平氏の言葉をお借りすれば、ペットはまさに人間のいろいろな関心を映し出す「鏡」でもある、と言えるのかもしれません。そのうちにあらためて、また「ペット」をテーマとして竹林茶話会でみなさんと語り合えたらと思っております。

 

そして次回、第三回目のテーマは「身体」を予定しています。身体というのは、実は哲学の世界では非常に大きな問題とされているんです。そこで次回は対話に先立って、哲学において身体がどのように論じられてきたのか、簡単にお話しさせていただければと思っております。ただ、竹林茶話会は哲学カフェであって、決して哲学の授業ではありません。「教える」とか「教わる」といった雰囲気とは無縁に、いかにして皆さんに哲学の大問題についてお伝えできるか、これもまた、私にとっての新しい試みになりそうです。


当ブログは「Amazon アソシエイト(アフィリエイト)」に参加しています。

2015年9月11日金曜日

太宰治には振り回されるな。


太宰治には振り回されるな。


 
 先日、太宰治が佐藤春夫に宛てて書いた芥川賞受賞を懇願する手紙が発見されたことが話題になった。私自身つい最近、太宰について私の中で「一区切り」となるようなそれなりに大きな仕事を終えたので(書き残したことも多いけどね、その辺はこのブログで追々)、この話題について若干の事を書いておく。

 
 まず、太宰のことをある程度知っている人にとっては太宰が佐藤にこの手紙を送ったということは周知の事実であって、そういう人たちにとってはこのことがニュースになっても「なんでいまさら?」だと思います。ただ、一応、研究者の端くれとして申し上げておくと、現物の「資料」というものはどの研究分野においても大きな力をもつものなんです。今回の「発見」についても、太宰から佐藤への懇願の事実を知っているだけの研究者と、懇願の手紙を見たことがある、あるいはその手紙を所有している研究者との間には、この事実について語る際に、さらには太宰や佐藤について語る際に、言わば「権威」において雲泥の差がある、そのように考えられるんですよ、研究者という人種の世界では。

 誤解していただきたくないのですが、「権威」なんて言葉を使ったからといって、私は何も今回太宰の手紙を公開した河野龍也さんという先生を批判しようというわけではありません(ちなみにこの先生のこと、私はまったく存じ上げませんが)。つまり、「こういう新資料を自分が持っていることを知らしめて学界で自分の権威を高めようとするなんてふてぇ野郎だ!」とかいうことを言いたいのでは、決して決して決して……ありません。むしろ河野先生は、研究者としてとても誠実で良心的で公平な方なのだろうと、私は想っています。というのは、資料というものにはそれを持っている人間に「権威」を与えてしまうような力があるからこそ、それを「政治的に」利用しようとする研究者だって多いからです。それはたとえば、若手の研究者に向けて「君ねぇ、僕、○×△についての、ほとんど誰も知らないような文献を持ってるんだけど、読みたくない?」だとか「○×△が書いた書簡の断片、あれはスゴイね。あれ読めば、○×△についての印象が、いや、日本の○×△研究そのものが、ひっくり返るね、絶対に。え?君は読んだことないの?そりゃ仕方ないか、だって、あれを持ってるの日本で僕だけなんだから。」だとか言って、さも自分がすごい研究者であるかのように思わせることが可能になるわけです。ようするに、「それ」がなんであるかはわからないんだけれども、いや、「それ」がなんであるかわからないからこそ、「それ」がとっても価値のあるものに思われて、ついでにそれを持っている人間も何やら大した人間のように思えてくる……資料というものにはそういう、いわば魔術的な力があるわけです。あ、映画好きな人なら、たとえばヒッチコックが言うところの「マクガフィン」のようなものと言ったら分かり易いでしょうか。あるいは最近では、『ガンダムUC』における「ラプラスの箱」とか……おっと、話が思いっきり偏った方向に脱線しそうなので、やめておきます。

 ちなみに私の本来の研究対象である某哲学者の研究者にも典型的なこういう人物がいて……おっと、研究者の世界って、実際にはとってもとっても狭いので、容易に個人が特定できてしまうので、やめときます(というか、これをお読みの同業者の中には「あ~あの人か!」と苦笑しつつ思い当たってしまった方もいらっしゃるかと思います。……いや、同業者で私のブログを読んでる人なんて、いないか 苦笑)。

 まぁ、何が言いたいのかというと、資料というものには往々にして、そういう言わば「邪悪な力」が宿ってしまうものなのですが、河野先生はそういう力に負けずに、ただ研究者としての良心に忠実に太宰の手紙を発表したのだと、私には想われるのです。そしてそういう誠実な態度は、残念ながら研究者として「当たり前」のあり方ではないんです、現実において。なんにせよ「そんなことをするのは人間としてどうかと思う」と思われることがあるとして、普通なら「じゃ、そんなことはしてはならない」と考えると思うでしょ?特に、ほとんどの場合が同時に教育者でもある研究者ならなおさら。でも人間の中には、「でもそれでオイシイ思いが出来るならやってしまってもいいじゃないか」と考える人たちも結構いるんですね。そしてそれは、研究者や教育者の世界にも、誠に残念ながら当てはまってしまうのです。そしてそれが、研究者の世界での力関係やヒエラルキーを決めてしまうということもまた、往々にしてあるわけです。そしてそういう資料を手に入れるためにはそれなりの「元手」が必要なわけで、だから研究者の世界にも格差というものがあり……お察しの通り、これ以上書くと私の個人的なルサンチマンの吐露になってしまうので、やめておきます。

 それからもう一つ。太宰のこの手紙が発表されたからといって、太宰への評価、特に、いわゆる太宰ファンの間での太宰への評価は、これまでと全く変わらないと思います。あくまでも私見ですが(いや、もしかしたらとってもとっても言い古されたことなのかもしれないけれど)、太宰を少しでも真剣に読んだ人の反応は、両極端に分かれると思います。一方で、ものすごい共感を抱く人たちがいて、他方で、ものすごい嫌悪感を抱く人たちがいる。で、今回のニュースについて、たとえばネット上の掲示板やニュースのコメント欄で太宰を非難している人たちというのは、もともと太宰の作品や太宰その人にものすごい嫌悪感を抱くタイプの人たちか、あるいは野次馬根性で書き込みをしている人たちなんだと思います。そして、太宰の作品や太宰その人にものすごい共感を抱くタイプの人たちの中には、そもそも今回の件をめぐってネット上で書き込みをする人はまったく、あるいはほとんどいないのではないかとも思います。だって、太宰がこういう手紙を書いちゃうような人だってことは、そういう人たちにとっては当りまえのことであって、むしろこういう手紙を書いちゃうような人だからこそ、そういう人たちは太宰にものすごく共感を抱いてしまうという側面もあるので。だから、たとえばネット上で太宰に対する批判的なコメントを読んでも、太宰にものすごい共感を抱くタイプの人たちは「ええ、仰る通りです」としか思わないし、反論のコメントなんか書きようがない、だから、そもそも論争にはならないんですね。いやむしろ、今回太宰に対する批判的なコメントを読んで、太宰にものすごい共感を抱くタイプの人たちは、太宰への共感をより一層強めている、ということにすらなっているかもしれません。結局ですね、そういう現象を引き起こしてしまうところも含めて太宰の才能だったと思うんですよ、私は。そして私が最近終えた太宰についての仕事と関連させて言えば、太宰が自分のそういう才能を存分に発揮させて書いた作品が『人間失格』であって、唐突なようですけれども、太宰のそういう才能を支えていたものはキリスト教的な発想だったと、私は考えています。まぁ、この辺についての話は、またあらためて……。

2015年9月6日日曜日

「第一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記

 

もう一ヶ月も前になってしまいましたが、88日、「第一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」、20人以上もの方々にご参加いただき、大盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいたみなさん、応援していただいたみなさん、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

さて、第二回開催が一週間後となりました。で、以前から、毎回竹林茶話会終了後に「後記」的なものをアップしたいと思っていたのですが……ごめんなさい、諸般の事情により、なかなか書けませんでした。このままだと第一回と第二回の後記を「ダブル・アップ!」などということになりかねませんから、今日こそはがんばって書きます。

 今回は記念すべき第一回目についての後記ということで(?)ちょっと長いですし、ちょっとむずかしい部分もあるかもしれません。ですから、全部をお読みいただく必要はないかもしれません(もちろん、全部お読みいただけたら涙が出るほどうれしいですが 笑)。ただ、「興味はあるけれど、参加しようかどうか迷っている」という方は、最後の「3 参加の仕方について」を、ぜひともお読みください

 

 

1 テーマについて


 第一回のテーマは「自分探し」でした。で、どのような対話がなされたかというと……これにかんしては、「主催者」である私が「まとめ」のようなものを書くというのは、なんだか傲慢なような気もするので、やめておきます。参加して下さった方々が「え!?そんな話だっけ!?」と想ってしまわれるようなことになったら、なんかだか悲しいですからね。どんな対話が行われたのか、それは、参加して下さった方々が「それぞれの仕方で」知っている、ということにしておきましょう(あ、これは別に、「人それぞれ」ということとは違います。念のため。)

 ただ、私は一応、哲学の専門家ですので(え!?ご存知なかった!?では、柏が誇るシンガー・ソング・ライターの「浅川貴志さん」のインターネットラジオ番組「Funky Net Radio」をyoutubeで検索、Vol.14Vol.15をお聴きいただいて……笑)、そのような観点から今回のテーマについて一言。「私は自分自身を探究した」(ヘラクレイトス)、「汝自身を知れ」(ソクラテスの座右の銘)、などなど、古代以来、哲学の歴史の中で「自分」とか「私」というものはたしかに大きなテーマでありつづけてきました。たとえば、哲学の一分野に「認識論」というものがありまして、これはつまり「私は世界をどういうふうに見たり聞いたりしているのだろうか」というかたちで、「自分」だとか「私」というものをテーマにしているわけです。はたまた、「形而上学(けいじじょうがく)」とか「存在論」と呼ばれる分野もありまして(厳密に言えば両者は別物なんですけどね)、これは神さまだとかなんだとか、そういった人間の世界を「超越」したものと「自分」や「私」との関係を考える分野でして、そういう意味ではやはり、「自分」や「私」というものがテーマになっていると言えるわけです。

ただ、ちょっと問題があります。

今ここに挙げたような哲学の分野でテーマにされる「自分」や「私」って、他ならぬ「この私」や「この自分」なんでしょうか?別の言い方をすると、こういう分野で「私」や「自分」について考えられる時、そこで考えられている「私」や「自分」というのは、はたしてどれだけ、まさにそれを考えている「この私」や「この自分」と同じものなのでしょうか。考えてみれば、どの人間も自分のことを「私」とか「自分」と呼べてしまうわけですよね、ということはそこで「私」とか「自分」と呼ばれているものは、「この私」でも「あの私」でもない、「この自分」でも「あの自分」でもない、ということだってあり得る、いや、完全に違うということはないにしても、でも、完全に重なることはない、のではないでしょうか。

 さて、ここで哲学用語が登場です。二つ。「普遍的な『自分』とか『私』」、それから、「個別的な『自分』や『私』」、というものです。「全ての人間が自分のことをそう呼べてしまえる『自分』とか『私』」というものを「普遍的な『自分』とか『私』」、「『この私』や『あの私』、『この自分』や『あの自分』、つまり『他の誰でもない自分や私』」というものを「個別的な『自分』や『私』」としましょう。上に書いたことをこの用語を使って言い直すと、哲学が問題にするのは「普遍的な『自分』や『私』」であって「個別的な『自分』や『私』」ではない、あるいはそれが言い過ぎだとしても、哲学において「個別的な『自分』や『私』」を問題にすることは難しい、ということは言えそうです。

では、「普遍的な『自分』とか『私』」ではなく「個別的な『自分』や『私』」を問題にする、あるいはそれに近づくためには、一体、どんな方法があるのでしょうか、あるいは、どんな語り方があるのでしょうか。

こういった問題も、じつはまた、「哲学的な問題」なわけです。

で、このことにかんしてちょっとだけ前回の対話の内容について言ってしまいますと……対話のところどころで、私たちはこの「個別的な『自分』や『私』」に近づけた、あるいはそれについて語ることができた、私はそう想っています。また、対話の余韻の中で、竹林茶話会に参加して下さった皆さま中には、たとえ「なんとなく」ではあっても、その後のふだんの生活のなかで「個別的な『自分』や『私』」、「ほかでもないこの私」に近づけた、あるいはそれについて考えることができた方がいらっしゃるかもしれない、そんな感じの対話が出来たのではないかと想っております。


2 主催者の態度について


 実は第一回開催に先立って、私、結構勉強したんですよ(苦笑)。それはおもに、世の中で「自分探し」がテーマとされる時、何が問題とされていてどんな風に語られているのか、そういったことを把握しておこうという目的で。そしてそして、結果として、それはもう、「自分探し」をテーマにして何か書けるんじゃなかってほど、準備したんですよ、私(笑)。

 でも、主催者がこういう準備をするのって、はたして正しいのかなぁという疑問が残りました。まぁ、準備したことが、ほとんどあるいはまったく対話に反映されなかったとしても、私としては勉強になったのですから問題はないわけですが(それに竹林茶話会は主催者である私の授業でも講演でもないわけですからね。こういうスタンスだけは変更しません)。問題は、主催者である私の準備が、言ってみれば「誘導尋問」のように対話の方向を決めてしまうということもあるのではないかと、そういうことです。たとえば「自分探し」について、私が事前の準備の中で(たとえば、たとえば、ですよ)「最近の『自分探し』というものはいわゆる『自己啓発』と同じような発想で行われているらしい」という情報を得たとします。そうすると、私自身としては意識してそうするつもりではなくても、どうしても「『自分探し』と『自己啓発』について」といった方向に、話を「傾けて」しまうことになるのではないか、そういう心配があるわけです。第一回目開催に先立って哲学cafeについて説明するために文章を書いたり話をさせていただいたりした中で、私は何度も「主役は参加者の皆さんであって私は脇役にすぎない」といったことを何度も申し上げてきました。主催者である私が対話の方向を決定してはいけないのです。対話の中で自然に方向が決まってゆく、そんな竹林茶話会を実現してゆくために、少しずつ試行錯誤を続けてゆきたい、いや、続けてゆかなければならないと、そんな風に想っている次第です。で、ためしに、次回はほとんど事前準備なしでいってみようかなんて考えたりもしています……さてさて、吉と出ますか凶と出ますか。


3 参加の仕方について


 哲学cafeは「対話」を行う場です。対話が行われるためには、「発言」がされる必要があります。というわけで、第一回目の開催に先立っていろいろな機会に宣伝をさせていただいた際、「みなさんの積極的な発言を期待しております!」といったことを申し上げてきましたが……ごめんなさい、「撤回します!」、ごめんなさい。実際に自分ではじめて哲学cafeを開催してみて実感したことは、参加者のみなさんのそれぞれが、それぞれの仕方で、何かを得ようとしている、そういうことでした。一方で積極的に発言をして下さる方もいました、もちろんありがたいです、本当にありがとうございました。ですが他方で、最初から最後まで一言も発することなく、それでも真面目にメモをとったり(私の話を、ではありません、参加者のみなさんの発言を、です!)、発言されたことに対して「うんうん!」といった感じでうなずいたり、「う~ん?」という感じで首をかしげたり、そういったかたちで、とっても積極的にそして熱心に「参加」してくださった方々もいらっしゃいました。そして私はそういう仕方もまたれっきとした「参加」の仕方であるということをはっきりと「実感」させていただいたわけでして、それはとってもありがたいことでした。私もまた、主催者として、一つ大事なことを学ばせていただいたと想っております。本当に本当に、ありがとうございました。

 ですから、宣伝文句を

 「みなさんの積極的な発言を期待しております!」

 から

「参加者のみなさんがそれぞれの仕方で哲学的対話を楽しんで下さることを期待しております!」

に、変更させていただきます。ですから次回以降は「なんだか興味はあるけど、自分で発言するのはちょっと……」という方々も、どうぞぜひぜひ、お気軽にご参加ください!

あ、でもでも、「ちょっと喧嘩ふっかけてどいつもこいつも言い負かしてやろう」だとか「なんかカッコイイこと言ってヒーローになってやろう」だとか、そういう動機にもとづいてのご参加はちょっとご遠慮を……まぁまぁ、楽しいのかもしれませんけどね、そういうのも(苦笑)。あ~それからそれから、やっぱり「特定の政治的・宗教的立場とは無関係」ですので、その辺はよろしくご承知置き下さい(笑)。

 

 今週の土曜日に迫った第二回、テーマは「ペット」です。さてさて、どんな対話になるのでしょうか……楽しみです!

 

2015年9月4日金曜日

Funky Net Radio(後半)


Funky Net Radio(後半)



 
浅川貴志さんのインターネット・ラジオ番組、「Funky Net Radio」、私が出させていた

だいた回の後半が公開されました。

 


 

(以下、読んでいただければ幸い)

 

 いや~バカです、今回は(笑)。実はもうすでにビールを三杯くらい飲んでしまってからの収録だったものでして……あ、でもでも、こういう「おバカなナカハタ」の方が、私の授業を知っている学生諸君や元学生諸君には、むしろおなじみだったり(笑)。

 谷川俊太郎さんの詩は、もちろん、前もって準備しておいたものです(笑)。実は収録に先立つ打ち合わせで、浅川さんから「ロックあるいはポピュラーミュージックと哲学」みたいな感じで話をしたいなぁといったご提案があったもので、で、私に何か話せるとしたら……曲については絶対に話せないだろうから(ええ、何にも分ってないもんで^^;)、まぁ、歌詞についてかな……じゃあ、もっとさかのぼって言葉の問題に……みたいな感じで、この詩を選んだわけです。ちなみに私、哲学史の授業でアリストテレスのカテゴリー論について話をする際に、たまにこの詩を取り上げてたりします(そしてちなみにちなみに、今回、ロックやポップミュージックについて「学問的に」書かれた本なんかも、何冊か読んでみたんですけど、面白いものもあり、つまらないものもあり……総じて言えるのは、なんと言うか、書き方と内容についての必然性が感じられるものは、ほぼ全くありませんでした。つまり、学問的に語るその内容が、たまたまロックやポップミュージックであるだけじゃないかと、どうしてもそういう印象を受けてしまうものばかりでした。今回、そういった語り方は絶対にしたくはない、という想いはありました)。

 ところで私、以前、コアな現代詩ファンの集まりにしばらく顔を出していたことがありまして……その集まりではこの詩の評価は、ちょっと微妙でした(というか、谷川さんの評価そのものがちょっと微妙でした。つまり、そういう集まりだったわけです 苦笑)。でもやっぱり、これは良い詩だと思います。朗読してくださったアシスタントの吉野さんが、収録後も私がプリントアウトして持って行ったものを熱心に黙読し続けるお姿が、それからお帰りの際に「これ、いただいていいですか?」とまで言って下さったのが、とっても印象的でした。

 それから「余白」について……。いやはや、浅川さんという方は、本当によく相手の言葉をひろって下さる方です。番組の中でも言われているように、この言葉、収録前の打ち合わせの時に私が何度も口にした言葉なんですけどね。なぜかというと、今、哲学の問題として私が一番関心のあるテーマの一つだからなんです。でも、そういう言わば「思い入れ」の強い言葉について語る時って、人は大抵、わけのわからないことを言ってしまうものです(いや、私だけかな?^^;)。浅川さんにとっても、私の話は「???」だったかもしれません。にもかかわらず、私にとって大事な言葉(と思われる言葉)だからこそ、なんとか共有して話題にしようとしてくださいました。まことにまことに、感謝感謝!でございます。そういう浅川さんの思いやりに答えるためにも、近いうちにこの「余白」について、特に「余白とロックやポップミュージック」というかたちで、ちゃんと何か書いておかなければと、想っております。

 

 その他にも諸々、今回番組に出させていただいたことについて、いろいろな想いがありますが、とにかく、収録はとってもとっても楽しく(そしてビールもとってもとっても美味しく 笑)、近年まれにみるほどの幸せな時間を過ごさせていただきました。浅川さん吉野さん、本当にありがとうございました!

 

 ……あ、大事なことを書き忘れるところでした。今回流れる浅川さんの曲、「とある通行人のためのレクイエム」、名曲ですよ。みなさん、ぜひぜひ聴いて下さい。