2016年1月6日水曜日

「第五回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


「第五回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記


 
なさま、新年おめでとうございます。

昨年8月に始まった「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」、参加して下さるみなさん、応援して下さ

るみなさんのおかげで、無事に年を越えることが出来ました。ありがとうございます!


さて、ご報告が遅くなりましたが、昨年1219日、「第五回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。テーマは「贈りもの」。今回は圧倒的に女性の参加者が多い中、若い男性参加者が奮闘(?)する姿が印象に残りました。そしてそして、私も含めた男性参加者に、単に机上の空論ではない、ある実践的な知を、しかもしかも、男性にとって永遠に謎であり不安の材料であることについての、ある極めて明解な知を、女性陣から「お贈り」いただきまいた……おっと、これについては最後に(笑)。
そして今回、参加して下さったみなさんには、最後に私の長い話をお聞きいただきました。恐縮です、ありがとうございました。

今回も、これまでの生涯の中で参加者が「した」あるいは「された」贈りものにまつわるエピソードなど、具体的な話題をテーマとして対話は進みました。誕生日、クリスマス、プレゼント交換……思い出を交えてこういったことについて語り合うのは、それだけでも楽しいことでした。

贈りものについてはよく、「モノではなくて気持ちが大事」といったことが言われますよね。でも、その「気持ち」というのが、贈る立場にせよ贈られる立場にせよ、なかなかやっかいなもののようです。贈る立場の人が相手に気持ちを伝えることが難しいのはもちろんのこと、贈られた立場の人の方も、相手がどんな気持ちで自分に贈りものをしてくれたのか、実はなかなか気づくことが出来ないのかもしれません。今回の対話の中である参加者の方が、自分に贈りものをしてくれた相手の気持ちに気付いた時の感激をお話しして下さいました。その貴重なお話を聞いて、私はそんなふうに想いました。

また、「負の贈りもの」についても話題になりました。たとえば「呪い」。それこそ、相手に「気持ち」や「想い」を贈ろうとするという意味では、呪いもまた「贈りもの」なわけです。ですがそんな物騒なかたちにおいてまで、なぜ人は「贈りもの」をしたがるのでしょうか。それはもしかしたら、人間というものはどういったかたちであれ、他の人と「コミュニケーション」しないではいられない生きものだからではないか、そういった意見もありました。

「コミュニケーション」と言えば、人との出会い、さらには別れという経験も、もしかしたら贈りものになるのかもしれない、ということも語られました。具体的なモノではなくても、他の人との関係をきっかけとして自分が変わったのであれば、それはその人からの立派な贈りものと言えるのではないか、と。

そして経済学的な観点から、「贈りもの」というのは一つの「見方」のようなものなのではないか、ということも語られました。たとえばプレゼント交換。もしもプレゼントの金額を厳密に決めての等価交換ということにこだわるのならば、極端な話、同じ額のお金を交換すればそれが一番良いわけで、それではただの経済活動ですね。そういったただの経済活動と贈りものとを区別するものは何なのか。それはたとえば「心の余裕」といった、やはり「気持ち」の問題なのかもしれません。

そしてさらには、文化人類学や民俗学で論じられる原始的な経済活動における「贈与」についても話題になりました。21世紀になっても人類の発想というのはそうそう昔と変わっていないのではないか、そういったことにまで対話は及びました。

そして最後に私の話……いや、長かったので、もうここでは繰り返しませんのでご安心を(笑)。ただ、簡単にまとめて申し上げますと……

「哲学も『贈りもの』になり得る。」

ということです。

そういったわけで(笑)、今年も毎月一回、哲学を通じてみなさんに「贈りもの」を差し上げることができるような、そして私自身もみなさんから「贈りもの」をいだだけるような、そういった集まりにしてゆきたいと思います。
みなさま、2016年も、「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」を、どうぞよろしくお願いします!



……おっと、忘れてはいけません。

最初に申し上げた、私も含めた男性参加者が女性陣からお贈りいただいた知識、それは……

「女性は、男性から花を贈られると、本当に嬉しい。」

ということで、男性のみなさま、臆することなく女性に花を贈りましょう!
 
 
 
最後にご紹介した、中村雄二郎先生の本です。(Amazon アソシエイト(アフィリエイト))