2015年12月15日火曜日

どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように……


1212日に、国士舘大学倫理学専攻の主催するシンポジウムでお話しさせていただいた際の、原稿です(ちょっと加筆訂正あり)。

それにしても、国士舘大学倫理学専攻の皆さん、先生方も学生諸君も、本当に本当に、素晴らしい!!

関係者の皆さん、本当にありがとうございました。心より感謝いたします。

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どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように…… 

─太宰治『人間失格』について─

中畑邦夫

 
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 これから、太宰治の『人間失格』についてお話をいたします。あらかじめお配りした「あらすじ」はお読みいただけたでしょうか。あるいは、今までにこの作品そのものを読んだことがあるという方もいらっしゃるかもしれませんね。皆さんは要約を読んで、あるいはこの作品そのものを読んで、どのような印象や感想をお持ちになったでしょうか。

 この作品は、ごくごく簡単に言ってしまえば、ある非常にかわいそうな男の話、あるいは、ある非常に情けない男の話、ということになるかと思います。主人公の大庭葉蔵を「かわいそうな」男だと感じるか、逆に「情けない」男だと感じるか、みなさんのこの作品への評価は両極端に分かれるでしょう。それはまた、この作品の一般的な受け取られ方でもあるようです。つまり、この作品の読者は葉蔵に大いに共感を抱く人々と大いに反感を抱く人々とに分かれるようです。そして読者が葉蔵に抱く感情は、葉蔵の向こうに見える、あるいは見えてしまう、作者である太宰その人にも結びつくようです。具体的に言えば、共感を抱くにせよ反感を抱くにせよ、この作品は太宰の自伝的な作品として、さらに言えば、この作品は太宰が晩年に書いたものであることから、太宰の遺書のようなものとしてとらえられることが多かった、と言えるようです。ちなみに私自身は、長い間この作品に対して、そして太宰に対して、大いに反感を、いや、嫌悪すら抱いてきました。私もやはりこの作品を太宰の自伝あるいは遺書としてとらえてきました。そしてさらに、たとえばJ-J.ルソーが『告白』を書いたのと同じように、太宰は自己弁明のためにこの作品を書いたのだとさえ思っておりました。そのような読み方をすると、たとえば「あとがき」でバーのマダムに葉蔵=太宰のことを「神さまみたいにいい子でした」などと言わせているところなどは、もうどうしようもなく気持ち悪いわけです。

 ところで、特にこの作品や太宰に反感を抱く皆さんの中には、倫理的な問題について、とくに「人間の尊厳」といった大問題について語るためになぜ私がこんな作品を引き合いに出して論じようとするのか、といった疑問を持つ人もいるかもしれません。そういった人に対しては、私はさしあたって、次のような問いをお返ししておきたいと思います。それは「そもそも私たちは倫理的な問題についてどのような態度で語ることが出来るのか、あるいはどのような態度で語ったら良いのか」という問いです。特にこのシンポジウムのテーマは人間の「尊厳」です。なにしろ「尊く」て、また「厳か」なことについて、私たちは考えて、語り合わなければいけないわけです。「尊くて厳かなこと」、そんなことについて、私たちはどのように語ることが出来るのでしょうか?どのように語っても良いのでしょうか?太宰はこの作品を通じて、読者になにやらこのような問題にかかわる問いを投げかけている、私はそのように考えるのです。

ちなみに、今では私はこの作品を太宰が自己弁明のために書いた作品であるとか、そういう風には考えておりません。主人公の葉蔵は太宰自身であって太宰自身ではありません。何やら逆説的なことを言っているようで恐縮ですが、つまり、まさに逆説的なかたちにおいてしか、倫理的に大切な問題、特に「人間の尊厳」といったことについては語ることが出来ないのではないか、この作品はそういったことを私たちに伝えている、私はそう思うのです。つい先ほど申し上げた「太宰の投げかけた問い」に対する太宰自身の回答をここではやくも簡単に言ってしまうことになりますが、そういったことついて語るためには、私たちは自分にとって「尊い」ものを賭けなければならない、太宰はそういうことを読者に伝えているのだと、私には思われるのです。

 前置きが長くなりました。これから少しずつ、この作品について考えてゆきましょう。

 
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 さて、葉蔵のことを「かわいそう」だと思うか「情けない」と思うかは置いておくとして、少なくとも葉蔵が「上手く生きてゆくことが出来なかった」ということは皆さんにも同意していただけるでしょう。では、葉蔵にとって生きてゆく上での障害となっていたのは、何だったのでしょうか。

 私はそれを、人々が営んでいる「世間」というものが、葉蔵にとっては残酷で理解不能な言わば「ゲーム」であって、また、葉蔵はそのゲームを支配する「ルール」を常に意識しすぎてしまっていたのだ、という点に求められると思います。ここでルールというのは、言わば「見えないルール」であって、たとえば法律やスポーツのルールのように文字で書かれているわけではありません。私たちの日常の場面のほとんどが、わざわざ文字になど書かれていない、まさに「見えない」ルールに基づいて営まれているのではないでしょうか。ちょっと考えていただければ、皆さんもこの「見えないルール」について、様々な具体例を挙げることが出来るでしょう。たとえば「空気を読む」ということ。このこと自体がどこに書かれているわけでもない「見えない」ルールなのですが、その内容もまた、「空気」というまさに「見えない」ものを読むことを命じているのです。私は先ほど、葉蔵はこの見えないルールを意識しすぎてしまっていたと言いましたが、「空気を読む」ということで言えば、葉蔵は空気を読まなかったわけでも読めなかったわけでもなく、むしろいつも過剰に読みすぎてしまうのです。葉蔵はルールに対して言わば神経質であり過ぎたのです。想像してみて下さい。たとえばスポーツ選手というのは、優秀であればあるほど、ゲームの最中にルールなど意識しないでしょう。むしろ、ルールに従いながらもゲームの中で自由に行動出来る、あるいは、ルールに合わせた動き方が「自然」に出来るようになっている、それが優秀なスポーツ選手というものでしょう。また、思い出してみて下さい。私たちがあるスポーツに、あるいは何らかのゲームに、初めて参加した時のことを。始める前に簡単にルールを教えられたとしても、それでも参加した当初は自分のしていることがルールに違反していないかどうかおっかなびっくり、他のプレイヤーのやっていることの見よう見まねでその行いは非常にぎこちなく、とても「自然」だなどとは言えなかったのではないでしょうか。我々の日常にしても同じことです。もはやルールがルールとして意識されることがなくなってはじめて、そのルールに従っていることが「自然」になっているのです。葉蔵にはこの、「自然」に、ということが、どうしても無理なのです。

葉蔵は常にルールに違反することを恐れていて、どうしても「自然」に振る舞えなかった、そして「自然」に振る舞っているまわりの人々を見て不可解に思いながらも同じように振る舞えないことに負い目を感じていた。そして「自然」であることを意識すればするほど、自分の振る舞いがますます「不自然」なものに思われてくる、そうした葛藤の末にたどりついたのが「道化」を演じること、つまりあえて「不自然」に振る舞い続けようとすること、だったのではないでしょうか。

 いかがでしょうか。葉蔵のあり方をこのように考えると、一方で葉蔵に共感を抱く皆さんの中には、もしかしたら「自分も葉蔵と同じだ」と思う方もいるかもしれませんね。しかし他方で、葉蔵に反感や嫌悪を抱く皆さんは、「そんな奴、知ったことか」とか「そんな奴は病院へ送れ」と思う方がいるかもしれません(ご心配なく。葉蔵は最終的にちゃんと病院へ送られますので)。ですが葉蔵のあり方を受け入れてあげる前に、あるいはそれを完全に他人事として突き放してしまう前に、もう少し葉蔵の立場に立って、ルールというものについて、そしてゲームというものについて、考えてみましょう。

 
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 ところで「見えないルール」はまさに「見えない」がゆえに、私たちは自分があるいは他の誰かが、「見えないルール」を知っているかどうか、確認のしようがないようにも思われますね。しかし現に私たちは、少なくとも私たちの中の多数派は、このような見えないルールを「知っている」ものとして日々の生活を営んでいる。では、私たちはどうやってそれを「知っている」あるいは「知っているものとしている」のでしょうか。論点先取だと非難されることを踏まえて、あえて次のように表現しましょう。それは、「ルールに従っている者」と「ルールに違反している者」とを区別することによって、です。つまり次のような理屈です、「ここにルールに違反した者がいる。そして自分(たち)はこの者とは違う。だから自分(たち)はルールに違反してはいない」。つまり、ルールというものは、あらかじめ何かしら「実体」的なものとして存在するのではない。あくまでも存在するのは「それ」に「違反している者(たち)」であって、そういった人(たち)、言いかえれば「あちら側」との比較によって「守っている者たち」あるいは「こちら側」と守られている「ルール」とが、言わば措定される、つまり、あたかも実体的に存在していると想定される、というわけです。

 このように循環したかたちでしかそのあり方を説明できない、そういったものごとは、実は意外と多いのではないでしょうか。私は何も特別な事態を説明しているわけではありません。我々もたとえば、路上でホームレスを見た時、あるいは、単位不足で留年が確定した友人を見て、「ああ、あんな風じゃなくて良かった」とか「ああはなりなくないなぁ」などと思ったりしますよね。それは普通の、ごく当たり前の感覚なのかもしれません。こういった場合に、私たちはホームレスや友人を「あちら側」とし、自分を「あちら側」ではないもの、つまり「こちら側」としているのです。そしてさらに、我々は時として、あるいは往々にして、「あちら側」の人々がまさに「あちら側」にいるというだけで、その人たちは責められるべきであるとみなすことがあるのではないでしょうか。そしてさらに、そういった人々に批判の言葉を投げかけることさえある、その根拠が「ルール違反」だというわけです。そしてさらに、私たちはしばしば、そういった人たちを、たとえばただたんに勉強しなかったとか仕事をしなかったという点においてのみ非難するのではなく、あたかも全人格的に劣っているかのように非難する。つまり「人間として云々」というルールに違反しているといって批判することもあります。

 人々はこのように「こちら側」と「あちら側」とを区別する、あるいは構造化することを、言わば合理化しているわけで、このような合理化によって、区別どころか、人格や人間性といったことにかかわる差別すら可能になってしまうのかもしれません。そうなればもう、差別される側は「被害者」であり、差別する側は「加害者」であると言ってもいいでしょう。そしてまさに葉蔵は、自分が自然に振る舞えないことに、そして道化を演じていることに負い目を感じながら、つまり自業自得であると思いながらも、それでも自分のことをこのような意味での「被害者」だと感じているのです。ただやっかいなことに、このような構造において加害者は自らが加害者であることに気付きにくい。また、誠に残念なことに、時として自称被害者による「言いがかり」的なこともあるのであって、葉蔵の場合には、極めてこれに近いと思う人もいるでしょう。しかし少なくとも、こういう話を聞いて、なにやら「居心地の悪さ」を感じてしまうとしたら、つまり、自分が気付かないままに加害者になっているかもしれないという不安を感じてしまうとしたら、私たちにさし当たって出来ることは、自分のことを被害者であると言っている人々の話に、とりあえず耳をかたむけることしかないでしょう。そういったわけで、『人間失格』において、「被害者」である葉蔵から見て「加害者」はどのようなものとして描かれているのか、見てみることにしましょう。

 
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『人間失格』には何人かの「加害者」が登場しますが、中でも私たちの印象に強く残るのは堀木ではないでしょうか。堀木のことを葉蔵は「自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした」と評しています。ですが堀木は、葉蔵には想像もつかないような、真似の出来ない側面も持っています。たとえば心中事件の後にヒラメの家から抜け出した葉蔵が堀木の家を訪れた際に、堀木は「しんからの孝行息子のように」母親の前で振る舞います。葉蔵から見れば、堀木には「しんからの孝行息子」という「演技」が「自然」に出来てしまう。堀木のこのような側面に、それまで彼を自分と同類だと思っていた葉蔵は戸惑い、また、そのように振る舞えない劣等感を深めてゆくわけです。

さらにまた、葉蔵にとって堀木が自分に向ける言葉は、「世間」から自分に向けられる批難の言葉、という意味を持つようになります。
 
   「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 ある晩、葉蔵と堀木は酒を飲みながら罪について語り合います。その際にも堀木は、「世間」を代表するかのように、葉蔵を断罪するかのような言葉を吐きます。

(葉蔵)「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」

(堀木)「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」

 ところでこの罪についての対話は、葉蔵にとっては大問題です。罪と罰の問題はまさにルールやゲームの問題だからです。「罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど」。ゲームの中でルールに違反することを罪だとすれば、罪の対義語、つまりルールに違反していない状態を表す言葉がわかれば、葉蔵はそれを拠り所としてルール違反を犯してしまうことの恐怖から逃れることが出来るかもしれないわけです。しかし、そう簡単にはゆきません。

    罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……

この文章の歯切れの悪さからも容易に想像できるように、葉蔵のこのような問いには答えがない。「罪」と「罰」は対義語でも同義語でもない、つまり互いに無関係なのであって、たとえば因果関係にあるわけでもない。だからルール違反という罪を、そしてルール違反に対する罰を恐れるあまり道化を演じ続けてきた葉蔵の苦しみには何の意味もない、ということにもなってしまう。何が罪であり何が罰であるのか、それはたとえば因果関係といった秩序において決まるのではなく、「ルールを守っている人(たち)」あるいは葉蔵からすれば「あちら側」の人たちの恣意によって決められるものでしかないのかもしれない。まさにこの会話の最中にヨシ子が出入りの商人に襲われてしまうように、何ら罪を犯していない人間にも不幸や悲劇的な出来事は降りかかるのであって、それを罪に対する「罰」だとするのは人間の解釈に過ぎないのかもしれない。ヨシ子が襲われる場面を目撃した堀木が葉蔵に投げかける言葉は、まさにそのような解釈を表現するものであると言えるのではないでしょうか。

同情はするが、しかし、お前もこれで、少しは思い知ったろう。もう、おれは、二度とここへは来ないよ。まるで、地獄だ。……でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、どうせ、ろくな奴じゃないんだから。失敬するぜ

 
 これまで私たちは、葉蔵の立場に立って堀木の言動について考えてきました。そのような観点からすると、ここに挙げた堀木の言葉はあまりにも残酷なものに思われることでしょう。しかし注意しなければならないのは、堀木の母親への態度からも分かるように、「世間」においては一般的には堀木は葉蔵よりも「まとも」な人間だと思われているであろうということであり、そのまともな人間の言うことだからその言葉も正しいとされる、つまり、責められるべきは葉蔵だとされるであろう、ということです。実際に、常に自分に後ろめたさや負い目を感じていて、またこの出来事によって世間というゲームの、そしてそのルールの不可解さや残酷さを思い知らされた葉蔵は、堀木の言動に怒りを感じるものの、反論することすら出来ません。そしてこの出来事をきっかけとして、もはや葉蔵は道化を演じることも出来なくなり、「世間」から追放されることになる、つまり「人間失格」さらには「廃人同然」となってゆくわけです。

 
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「第三の手記」の終わり近くに、もはや世捨て人の境地に達したかのような、葉蔵の想いが綴られます。たとえば、

ただ、一さいは過ぎて行きます。

 しかし、注意しなければなりません。葉蔵が手記を書いてそれをバーのマダムの元へ送ったのは、人間失格の烙印を押されて廃人同然となった、その後なのです。つまり、葉蔵の手記は、完全な敗者とされた者から見て、世間というゲームが、そしてそのルールが、いかに不可解で残酷なものであるかということの、言わば「証言」なのです。最終的に人間であることに失格したとされたほどのいわゆるダメ人間が、むしろ「人間であること」をめぐって悩み苦しんでいた。このことは逆説的に思われるかもしれません。しかし、堀木をはじめとした「まとも」な人たち、ルールを守っているということに何の疑いも抱かずにいる人たちによっては「人間であること」とはどういうことであるのかといったことが取り立てて問題とされることはない、その必要性も必然性もないのです。それはちょうど、健康な人間は健康というものを意識することがない、ということと同じようなことです。もはや「世間」というゲームに復帰することを望むわけでもなく、世捨て人のように生涯を終えようとしている葉蔵にとって、残されたものは「人間らしさ」をめぐって苦しんできた、その記憶だけなのです。それは残酷で醜いものでしかないけれども、それだけが自分が生きてきたことの言わば「証し」であり、だからこそ葉蔵にとってそれは「尊い」のです。そして葉蔵は誰かがその「尊い」ものを、敗者の負け惜しみとしてでもなく狂人の戯言としてでもなく、「厳か」に受け止めてくれることを願った。そして手記をマダムに送ることは、葉蔵にとって最後の賭けであった(ちなみに葉蔵の賭けが成功したかどうか、私はそれを疑わしいと思っています)。そしてマダムは、手記を「私」に託した……ところで、ちょっと変なことをお聞きしますが、「私」は葉蔵の手記を、一体どうしたのでしょうか?意外かもしれませんが、あるいはこれは私の深読みに過ぎないかもしれませんが、「私」が葉蔵の手記を世に公表したとは、この作品にははっきりとは書かれていないのです。私はこのことを読者への、太宰の問いかけとしてとらえたいと思うのです。というわけで最後に、太宰自身について、少しお話しいたします。

 
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 実は太宰はもう一つ、「大庭葉蔵」を主人公とした作品を書いています(もっとも、二人の葉蔵は別人ですが)。それは最初の作品集である『晩年』に収められている「道化の華」という作品です。この作品の葉蔵も『人間失格』の葉蔵と同じように、ある女性と心中事件を起こすものの自分だけが生き残ります。ところで太宰は、当時の文壇でいわゆる「オーソドックス」とされていた大家や先輩たちに対して、そして当時の文学のあり方そのものに対して、批判的であって、時として攻撃的ですらありました。また、大家や先輩たちの方でも、太宰の作品を、そして何よりも太宰自身のことを、不健全だとか不道徳だとか不真面目だとか評していました。そのような意味では、太宰自身が当時の文壇においては異端であり「道化」とされていたと言えるでしょうし、「道化の華」の葉蔵のイメージも手伝って、そのような太宰評価は文壇を超えて社会的に、広く一般的なものとなっていました(実際に太宰本人が心中未遂を起こして自分だけが生き残るという経験をしており、また薬物中毒で入院したこともあったという事実も手伝ってのことではありますが)。

 太宰自身はもちろん自分の社会的イメージがそのようなものとして決められてしまっていることを非常に不快に感じておりました。健全で道徳的で真面目だとされているオーソドックスつまり正統派の作家たちの書いたものが、まさにそのような作家によって書かれたというだけで健全で道徳的で真面目だとされる、それに対して自分のような彼らとは正反対のイメージを一般に持たれている作家が書いたものは、ずっと価値の低いものとしてしか受け止められない、そんな日本の文学の伝統に対して怒りを覚えていました。しかし、私は思うのです。太宰はあえてそのような自分の社会的イメージを決定してしまったデビュー作である「道化の華」の主人公の名を『人間失格』の主人公にも与えたのである、と。

 太宰はなぜ、わざわざそんなことをしたのでしょうか。

 最初にもお話ししましたが、『人間失格』の葉蔵は、一方では太宰ではありません。ある人物の社会的イメージが必ずしもその人物自身のあり方そのものではない、あるいは少なくとも、それはその人物の一つの側面にすぎない、という意味で。ですからこの作品は太宰の自伝でも遺書でもありません。ですが他方で、葉蔵は太宰です、というよりも、葉蔵は太宰以上に太宰的、過剰に太宰的なのです。つまり社会的イメージもやはりその人物の一側面ではあるとすれば、太宰はその側面をあえて極端にデフォルメしたかたちで描くことによって葉蔵という人物を造形した、私はそう思うのです。

自分では否定したい自分の社会的イメージをあえて引き受ける。逆に言えば、そのように自分のイメージを否定したいという自分、話をわかりやすくするために、さしあたって「本当の自分」と言ってもいいかもしれませんが、そのような自分をあえて隠す。これは一つの賭けです。つまり、デフォルメして描いた自分が「本当の自分」として捉えられてしまえば、その結果として自分に向けられるものが反発や嫌悪であっても、あるいは逆に共感や同情であっても、本当の自分は埋没してしまうからです。「本当の太宰」は、その社会的イメージの陰で、「人間らしさ」をめぐって真面目に考えていた、そしてそれをどうやって表現しようかと、悪戦苦闘を繰り返していた。そのことが認められるかどうか、つまり自分の作家としての努力が「尊い」ものとして「厳か」に受け止められるかどうか、「本当の自分」を賭けて世に問いかけたのではないでしょうか。

さきほど私は、「私」が葉蔵の手記を世に公表したかどうかは定かではない、ということ自体を、太宰の読者への問いかけとしてとらえたいと申しました。その問いを次のように表現できるかと思います。それは葉蔵の手記にも、また、『人間失格』という作品そのものにもかかわる問いです。

 「この作品は世間では不健全で不道徳で不真面目な、異端とされ道化とされている人間が書いたものだ。そんな人間の書いたものでも、『人間であること』とはどういうことであるかとうい問題に真面目に取り組んだ作品として、あなたたちは受け止めてくれるかね?」

 

最後に私の提題のタイトルについて少しお話しさせていただきます。これは『旧約聖書』の「ヨブ記」の中の言葉です。ヨブという人物が理不尽な不幸に襲われる、そして励ましに来たはずの友人たちに、その不幸の原因はヨブ自身にあるはずだといって責められる……。『人間失格』の葉蔵も、少なくとも葉蔵自身の想いとしては、同じような立場にいるわけです。私はこの言葉を発したヨブと同じような想いを、手記を書いた葉蔵の中にも見出せると思います。またさらにこの言葉は、なんとかして倫理的なことがらについて語り、また、伝えようとした太宰の想いをも表現するものだとも思います。こういった想いを「尊い」ものとして「厳か」に受け止めることが出来るかどうか、人間の「尊厳」についてはそのような次元から語られなければならないのではないでしょうか。そのように受け止め「なければならない」と言っているのではありません、そもそもそんなことが可能なのかどうか、そういった次元から論じられなければならない、私はそう思います。