「第二十一回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記
テーマは「いい人って、どんな人ですか?」
参加者はマスターと私を含めて11名。
ほぼ理想的な人数でありながら、大変密度の濃い、充実した、そしてもちろん、楽しい対話となりました。
応援していただいた皆さま、ご参加いただいた皆さま、心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。
お客さんたちの会話の端々に聞かれる、「いい人」って、一体、どんな人なのだろう?
いや、
お客さんたちは、ある人を「いい人」と呼ぶことによって、一体、何を表現しようとしているのだろう?
私たちも日常の生活の中で、「いい人」という言葉、使ってますよね?
今回は、参加者の皆さんが、日常の中でどのようにこの言葉を使い、また、使われることがあるか、そんなところから対話がスタートしました。
前半はおもに、「いい人」とされる人たちがどんな人なのか、ということを中心に対話が進みました。
道徳的・倫理的に善い人、都合の良い人、どうでもいい人……。
純粋に善良な人を指す場合、取り立てて特徴の無い人を話題にする際に敢えてこう呼ぶ場合、あるいは時に皮肉を込めて、自分にはまったく関心の無い人をこう呼ぶ場合など、いくつかのパターンが見えてまいりました。
そして次第に、対話の関心は、むしろ逆に、「いい人」という言葉を多用してしまう人々の問題に、移ってゆきました。
なぜ、我々は「いい人」という言葉を使ってしまうのだろう?
しかも、たとえば、その人に対して無関心な場合や、さらにはその人の悪口をさんざん言ってしまった後に……。
そこには、ある種の「和」を重んじようとする性格が関係しているのかもしれません。そしてそれは、それ自体としては決して悪いことではないのかもしれない、ただ、「和を保たなければ」という配慮が度を超えると、それが心的なストレスとなってしまう場合すらあるのであって、しかも最近、そういったストレスに苦しんでいる人々も、少なくはないのかもしれない……。
さて、今回最後にご紹介した、まさに「いい人」を真っ向から批判している本、『善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学』の著者である中島義道氏は、『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』という本も書いています。哲学カフェや哲学対話といった、「対話」を重視するイベントが日本で普及しはじめたのは比較的最近のことですが(おっと、対話重視のイベントといえば……最近巷で話題騒然の『Bambooキネマ倶楽部』も、忘れてはいけませんね!)、従来、日本で「対話」というものが普及してこなかったのは、もしかしたら、「和を保たなければ」という配慮が、さらに言えば、「いい人」をめぐる問題が、関係しているのかもしれません。
さて、次回、第二十二回「竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は、5月13日に開催予定です。
テーマは
「空気って、読めますか?」
なにやら、今回の対話とも関連するようなテーマであるような気がしないでもありませんが(笑)、もちろん、今回参加なさらなかった方のご参加も、大歓迎!
次回もたくさんの方々のご参加を、お待ちしております!
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