2016年2月25日木曜日

「第七回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記」

「第七回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」開催後記」

 
2月13日、「第七回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」が開催されました。テーマは「色」。
初めてご参加いただいた方々もおられ、とても楽しい集いとなりました。
応援していただいたみなさま、ご参加いただいたみなさま、心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。
 
今回は開催後記をお読みいただく前に、文章の下にある絵をごらんください。これは、竹林茶話会の会場であるbambooのマスターであり、毎回素晴らしいフライヤーを作成してくださり、さらには竹林茶話会自体の主要参加メンバーにしてご意見番でもある庄司君が、今回のために作成してくださったフライヤー候補の中の一作です。今回の竹林茶話会の対話の盛り上がりを思い出すと、私にはこの絵が何やらとても印象的に思えてきます。
 
色のない世界に、ただ一つだけ、色鮮やかな傘。
この傘、どうやら誰かの忘れ物のようです。
ところで、この傘の持主が置き忘れて行ったのは、この傘だけなのでしょうか?
もしかしたら、この傘の持主は、この傘の鮮やかな色までも置き去りにして、色のない世界に入って行ってしまったのかもしれません。
そして、この傘の鮮やかな色は、私たちに問いかけているようにも思われてきます。
「私のこと、忘れていませんか?」
 
さて、今回の竹林茶話会のテーマですが、実は前回の「裏・竹林茶話会」(哲学カフェ終了後のお酒の席がこう呼ばれているのです 笑)にて、ほぼ決定しておりました。そしてその場で早くも対話が盛り上がったのですが、その際に話題の中心となったのは、「私たちはどのようにして色を認識しているのか?」といった問題、さらには「私たちは目の前の林檎の色を『赤』だと思っているが、その林檎の色は本当に『赤』なのか?」といった問題でした。こういった問題は、特に西洋で近代と呼ばれる時代になって以降、ニュートンのような科学者たちが取り組み始めたものであり、多くの哲学者たちもまたこういった問題に取り組んできました。そして現代でも、このような問題はいわゆる「心の哲学」と呼ばれる分野で、たとえば今回の対話でも話題になった「クオリア」について論じられる際の重要なテーマとなっています。
竹林茶話会当日に先立ち、FB上でも一部の参加予定の方々、あるいは興味をもってくださる方々の間で、こういった問題について盛り上がりました。ですから私としても、このような問題が話題の中心となるのだろうと予想し、当日の対話に臨んだのですが……
 
実際の対話では、このような問題が話題となったのは、ほんの最初の方だけでした。いや、話題になったといっても、それは私が対話の切り口としてこういった問題について参加者のみなさんに問いかけたからであり、言ってみれば私の「誘導尋問」のためにそうなっただけなのかもしれません(こういった点、毎回反省の連続です、ごめんなさいごめんなさい)。
話題の中心になったことといえば、むしろ色と文化についての話、たとえば、色と「色の名」についての話、色と感性についての話、ことわざや慣用句などの言葉と色の関係についての話、などなどでした。そして、特に参加者のみなさんがいきいきと語ってくださり、また盛り上がった話題は、ある場所が持つ実際の色とは違った独特の色のイメージの話(たとえば、病院の建物の実際の色と病院にいる時に感じる色のイメージが違う、といった話)、素晴らしい絵画の色彩に圧倒された話、それから、盲目の人や色覚に異常がある人にとっての色の世界についての話もありました。特に、盲目であるにもかかわらずファッションのセンスが素晴らしい人がいるというお話は、私にとっても驚きで、こういうお話が聞けることも、哲学カフェという対話の場で得られる独特の楽しさであり喜びであると実感いたしました。
つまり、話題の中心となりなおかつ盛り上がったのは、色についての科学的な話ではなく、私たちにとってもっと身近な世界での色の「リアリティ」についての話、つまり、私たちが生きている中で色によって生々しく与えられる印象や感動やさらには衝撃といった、色のもつ「豊かさ」についての話なのでした。人は学問的に科学的に、そして哲学的に考え続けることによって、もしかしたら頭の中でいくらでも現実から離れてゆくことが出来るのかもしれない。そしてさらに、もしかしたら、色そのもののことを忘れてしまうとは言わないまでも、色のもつ「豊かさ」のことを忘れてしまうということもあり得るのかもしれない。しかし、今回の対話に参加してくださったみなさんは、忘れてしまうことはありませんでした。色について、どんなに学問的に科学的に哲学的に考えて色のもつ「豊かさ」を疑ったとしても、マスターが作成してくれた絵の中の傘の色に「忘れてなんかいないよ」と、今回の参加者のみなさんは、親しみをこめて答えることができます(笑)。
 
ところで、ここまで読んでくださったみなさんの中には、もしかしたら一つの疑問をもった方もいらっしゃるかもしれません。つまり、現実についてたとえば哲学的に考えても、現実の見え方に変りがないのなら、哲学には意味なんてないのではないか、といった疑問です。現実の見え方の変化を一つの結果だとすれば、何の結果ももたらさないことに、いったい何の意味があるのか……。
本当にそうでしょうか?哲学的に現実を考えることによって、本当に現実の見え方は変わらないのでしょうか?想像してみてください。たとえば、公園をゆっくりと歩いて一周してみる。歩いている間に、私たちは色々なものを見て聞いて、そして色々なことを想うことでしょう。そして歩き終えた私たちは、最初に出発した地点で立ち止まる。出発した場所と到着した場所、それは同じ一つの場所です。さて、ではそこに立っている私たちはどうでしょうか?歩いている間に色々なものを見て聞いて、そして色々なことを想った私たちは、歩きはじめる前の私たちとは、もしかしたらほんの少しだけ、違った人になっているのかもしれませんよね。そして、もしかしたらほんの少しだけ違った人になったその私たちに、出発点であり到着点でもある一つの同じ場所も、もしかしたら、ほんの少しだけ違った風に見えるかもしれませんよね。今回の竹林茶話会を終えて、私は哲学についてあらためてこんな風に考えたのでした(ちなみにこの一節では今回のテーマである「色」と「色々な」という表現を……いえいえ、なんでもありません)。
 
さて次回、「第八回 竹林茶話会 哲学cafe@柏bamboo」は3月12日に開催が決定いたしました。テーマは「退屈」。どんな対話になるのでしょうか。次回も多くの方々のご参加を、お待ちしております。
 


                             (by the master of bar bamboo)