2018年6月9日土曜日

「竹林憲章」について

「竹林憲章」について


さてさて、これまで何度か(何度も?)竹林茶話会のルールを新しく決めるだとかなんだとか、お伝えしてきましたが……いっそのこと、こまかいルールではなく、「根本規範」を作ってしまおうなどと、またまた妙なことを思いつきました。「根本規範」というのは、たとえば国家でいえば「憲法」にあたるもので、ごくごく簡単に言ってしまうと、それに反しないかたちで国民の生活に直接かかわる法律が決められるわけです(つまり、法の中の法、みたいな?)。また、根本規範とは法のみにかかわるのではなく、たとえばある国の憲法であれば、その国がどんな国なのか、その国の国民はどんな人々なのか、その国の制度はどういったものなのか、といったこと、つまり、国の基本的なあり方を宣言するものでもあります。以下、竹林茶話会の、そんな根本規範の「試案」、つまり、「こんな感じですよ~」というものの、ほんの一部です。今後、竹林茶話会の優秀な「ブレーン」たちと協議しますので、変更になる点もあるかもしれませんが、でも、間違いなく、大きく変わることはないと想います。なぜならば、文字にされることはありませんでしたが、竹林茶話会は、開始当初からず~~っとこういう方針でやってきたからです。


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竹林憲章(の一部の試案)

1 「竹林茶話会」(以下、「当会」とする)は、有形無形のなんらかの強制とは無縁に、自分自身の自由な意志にもとづいて参加する者たちによる、「哲学対話」の場である。

2 当会は運営に際して、参加者の一人一人が互いをかけがえのない人格として尊重することを大前提とする。ある参加者が別の参加者をなんらかの「手段」とすることは許されない。

3 当会では「哲学」を、有形無形のなんらかの強制とは無縁に、諸個人が自分自身の自由な意志にもとづいて営む知的活動、であるとする。

4 当会では「対話」を、有形無形のなんらかの強制とは無縁に、諸個人が自分自身の自由な意志にもとづいて参加する集い、であるとする。

5 当会への参加者は、ファシリテーターを含めて、常にユーモアの精神を忘れてはならない。
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で、たとえばここからどういった個別的なルールが導かれるかというと、そして、どういった個別的なルールを導きたいのか(笑)というと……

「哲学」だからといって、「対話」だからといって、「何を言ってもよい」わけでも「どんな態度でもよい」わけではありません。

一方で、「哲学対話の場」とは、日常からかけ離れた特別な場などではありません。特に、「対話」にかんして、竹林茶話会では「哲学対話」を日常のコミュニケーションの延長線上にあるものと考えます(それは、歩くことが出来ない人には走ることなど出来ないのと同じです)。たとえば、日常のコミュニケーションに不満を感じている人が、「哲学」だからといって、「対話」だからといって、普段は隠されている自分の才能をその場でいきなり大いに発揮できるようになって、言いたいことを何でも言える、などということは、まずありません。

参加者の言動について、日常の会話の中ではありえないような失礼であったり乱暴であったりする物言いは決して許されません。また、たとえば、不必要に語気を強めたり大声を出したりする、テーブルなどを叩く、対話の相手を指さす、などの態度も許されません。

また、「竹林茶話会」は、どのようにすれば対話が上手くいくかといった対話の「実験」や「練習」をする場所ではありません。同席する参加者をお互いに人格的に尊重しあうことが大前提であり、対話の相手を実験や練習の「手段」とすることは決して許されません。

さらにまた当会は、やたらと積極的に発言したり知識をひけらかしたりすることによって自分の自己顕示欲だけを満たすための場ではありませんし、他の参加者になにかを「教えてあげる」場ではありません。そのような態度もまた、同席する参加者をみずからの欲を満たすための「手段」とすることであると見なします。

しかしまた、同時に他方で、「哲学対話の場」とは、日常とは異なる特別な場です。たとえば、日常の「おしゃべり」のように、個人と個人の間で、各々の関心や趣味にしたがって情報のやりとりなどをするため場ではありません。対話の場での発言や質問は、それがたとえある参加者と他の参加者との間の個別的な対話の中で行われたものであったとしても、大前提として、その場の参加者全員に向けられたものでなければなりません。

ファシリテーターは、このような日常的にして非日常的な場を導くための訓練を十分に受け、また、つねに向上に努めている人物である、とします。ですから参加者は、ファシリテーターによる対話の進行を妨げてはなりません。もしかしたら進行を妨げてしまうような発言や質問をどうしてもしたい場合には、たとえばユーモアの精神を存分に発揮して、その発言や質問が、ファシリテーターを含めた参加者の全員にとって「妨げ」だと感じられないように工夫することを、参加者の義務とします。

「哲学」は、たとえば人間性の向上を目指すといった、「修行」のようなものではありません。

当会では、「哲学をする人」が「哲学をしない人」よりもエライだとか優れているだとかいった考え方は許されません。また、哲学の「知識」の量を基準として、ある人が優れているだとか劣っているだとか判断することは、当会では許されません。

つまり、たとえば、自分で自分のことを「哲学をする人」だと思いこんでいる人、自分では哲学の「知識」が豊富だと思いこんでいる人、長い間、何度も哲学対話に参加している人、などなどが、たとえば、自分は哲学とは無縁であると想っている人、自分は哲学についてなにも知らないと想っている人、哲学対話への参加が初めてあるいは参加し始めて間もないという人を、「見下す」ような態度は、当会では絶対に許されません。

また、哲学を続けていれば、何からの「境地」や特定の「主義・思想」といったものにたどり着くはずだ、といった発想も、当会では認められません。このような発想は、まさに哲学を「修行」のようなものだとする発想であり、哲学の知識や経験を基準として人を選別し序列化しようとする発想にほかならないからです。

上記のことを理由・根拠として、当会は特定の宗教的立場および政治的・思想的な立場とは、無縁でありつづけなければなりません。したがって、当会の主催する対話の場においてある参加者が他の参加者に、当会とは無関係の特定の宗教的・政治思想的活動とかかわる集会・結社・行事等へ参加するよう勧誘あるいは強制することを、当会では厳禁とします。また当会の主催する対話の場を離れても、当事者が当会を通じて知り合ったのであれば、このような勧誘等は同様に禁止いたします。他の参加者あるいは当会を通じて知り合った人物からこのような勧誘等を受けた際には、すみやかに当会の主催者に連絡してください。勧誘等を行った人物に対して、断固とした対応をいたします。

「対話」もまた、「修行」でもありませんし、対話をはじめたり対話に参加したりすることは、たとえば、人にとっての「義務」のようなものでもなんでもありません。

当会では、積極的に発言する参加者の方が、発言が少ないあるいは沈黙を守りつづける参加者よりも、エラいだとか優れているだとかいった考え方は許されません。

当会への参加者は、対話の中での他の参加者からの問いかけに答えないことが認められますし、対話への参加を中断することも認められます。むしろ、そのような参加者に対して、他の参加者が、質問には答え「なければならない」だとか、対話から「逃げてはならない」などと言うことは、許されません。


……今回はこんなところで。ではまた!